2019年12月4日水曜日

最終兵器の目 仁徳天皇2

 『日本書紀』慶長版は
「然後大山守皇子毎恨先帝廢之非立而重有是怨則謀之曰我殺太子遂登帝位爰大鷦鷯尊預聞其謀密告太子備兵令守時太子設兵待之大山守皇子不知其兵備獨領數百兵士夜半發而行之會明詣菟道將渡河時太子服布袍取檝櫓密接度子以載大山守皇子而濟至于河中誂度子蹈舩而傾於是大山守皇子墮河而沒更浮流之歌曰知破揶臂苫于旎能和多利珥佐烏刀利珥破揶鶏務臂苫辭和餓毛胡珥虛務然伏兵多起不得著岸遂沈而死焉令求其屍泛於考羅濟時太子視其屍歌之曰智破揶臂等于泥能和多利珥和多利涅珥多氐屢阿豆瑳由瀰摩由弥伊枳羅牟苫虛虛呂破望閇耐伊斗羅牟苫虛虛呂破望閇耐望苫弊破枳瀰烏於望臂泥湏慧弊破伊暮烏於望比泥伊羅那鶏區曾虛珥於望比伽那志鶏區虛虛珥於望臂伊枳羅儒層區屢阿豆瑳由瀰摩由瀰乃葬于那羅山既而興宮室於菟道而居之猶由讓位於大鷦鷯尊以久不即皇位爰皇位空之既經三載時有海人齎鮮魚之苞苴獻于菟道宮也太子令海人曰我非天皇乃返之令進難波大鷦鷯尊亦返以令獻菟道於是海人之苞苴鯘於往還更返之取他鮮魚而獻焉讓如前日鮮魚亦鯘海人苦於屢還乃棄鮮魚而哭故諺曰有海人耶因己物以泣其是之縁也太子曰我知不可奪兄王之志豈久生之煩天下乎乃自死鳥(?)時大鷦鷯尊聞太子薨以驚之從難波馳之到菟道宮爰太子薨之經三日時大鷦鷯尊摽擗叨哭不知所如乃解髮跨屍以三乎曰我弟皇子乃應時而活自起以居爰大鷦鷯尊語太子曰悲兮惜兮何所以歟自逝之若死者有知先帝何謂我乎乃太子啓兄王曰天命也誰能留焉若有向天皇之御所具奏兄王聖之旦有讓矣然聖王聞我死以急馳遠路豈得無勞乎乃進同母妹八田皇女曰雖不足納綵僅宛掖庭之數乃旦伏棺而薨於是大鷦鷯尊素服鳥(?)之發哀哭之甚慟仍葬於菟道山上」
【大中彦の皇子は、さらにどうなのかと言わなかった。それが正しくないことを知らしめたが、赦して罪を問わなかった。それでその後、大山守皇子は、いつも先帝が自分を跡取りから外したことを悔やみ、重ねて恨んだ。それで「私は、太子を殺して、絶対に帝位登る」と謀反をしようとして言った。そこで、大鷦鷯尊は、預めその謀反の計画を聞いて、密に太子に「兵を備えて守りを固めなさい」と告げた。その時、太子は、兵を置いて備えて待った。大山守皇子は、その軍兵を備えたことを知らず、自の数百人の兵士を率いて、夜半に、軍を進軍させた。明るくなった頃、菟道で軍に命じて、丁度、河を渡ろうとした時、太子は、上着を着て舵を取って、ひそかに船頭に交じって、大山守の皇子を乗せて渡した。河の中間に着いて、船頭を真似て、船を踏んで傾かせた。そこで、大山守の皇子は、河に落ちて水没した。そして浮かんで流されながら歌った()しかし伏兵がたくさんいて、着岸できなかった。ついに沈んで死んだ。その屍を探したら、考羅の渡りに浮かんだ。その時、太子は、その屍を見て、歌った()。それで那羅山に葬むった。その時すでに宮室を菟道に建てて住んでいた。なほ位を大鷦鷯尊に讓るといって、長く即位しなかった。それで皇位に誰も着かず、すでに三年経った。その時、海人がいて、鮮魚の荒巻の贈り物を、菟道の宮に献上した。太子は、海人に「私は、天皇ではないので大鷦鷯に持っていけ」と命じて、すなわち返して難波にすすめた。大鷦鷯尊、も返して、菟道に献上させた。そこで、海人の荒巻が、行き来の間に腐ってしまった。また返って、他の鮮魚を持って献上した。讓りあうのは前と同じだった。鮮魚は亦腐った。海人は、たびたび返されることを苦しんで、鮮魚を棄てて哭いた。それで、諺に、「海人が、自分の物のために泣かされる」というのは、これが由来だ。太子が「私は、兄王の志を奪ってはいけないと知った。どうして長く生きて、天下を煩すことができる」と言って、すなわち自ら死んだ。その時、大鷦鷯尊は、太子が、薨じたと聞いて、驚いて、難波から馳せさんじて、菟道の宮に着いた。そのとき太子が、薨じて三日がたっていた。大鷦鷯尊は、胸を打ってむさぼり泣いて、どうすることもできなかった。それで髮を解いて屍に跨って、三回「私の弟の皇子よ」と呼んだ。それに応えてすぐに生き返った。自ら起き上がった。ここに大鷦鷯尊は、太子に「とても悲しく、惜しい。どうして自ら逝ってしまった。もし死んだ者がそれを知ったら、先帝が、私に何というか」と語った。それで太子は、兄王に「天命です。誰が止めることが出来たでしょうか。もし天皇のもとに行くことが出来れば、つぶさに兄王は徳が高くて、優れていることを奏上します。しかし聖王は、私が死んだことを聞いて、遠路を急いで馳せ参じてくれた。どうして労わないことが有りましょう」と打ち明けて、すなわち同母妹の八田の皇女を進呈して「妻としては不足が有りましょうが、少しでよいので後宮の中の一人に加えてください」と言った。そしてまた棺に伏せって薨じた。そこで、大鷦鷯尊は、喪服を着て、發哀の礼を行い、甚だしく慟哭した。それで菟道の山の上に葬むった。】とある。
これはもちろん、物部氏を母に持つ菟道の稚郎子が名前のとおり、菟道に住んでいた皇太子で首都を遷して3年間統治していた王朝を『舊事本紀』に「尾綱根命・・・妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品色真若王次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女王則高城入姫命次仲姫命次弟姫命此三命譽田天皇並爲后妃・・・妹仲姫命立爲皇后誕生二男一女皇子荒田皇女次大萑天皇」とあるように、尾張氏の姫と崇神天皇と尾張氏の大海媛の子の八坂入彦、その子の八坂入媛のと丹波氏の子の景行天皇との子が五百城入彦で、その尾張氏の天皇の難波に首都を持つ天皇が皇位を奪った。
死んだ太子が妹を与えるなど有り得ず、難波の朝廷が菟道の朝廷を統治するには、やはり、菟道の朝廷の血筋の姫が必要だったが、政権交代ではなく、分王朝のため皇太后となる前皇后は不要だったのだろうか。
この奪った天皇は、前項の5世紀初頭の葛城氏の天皇ではなく、4世紀初頭の尾張氏の王朝で、物部氏の伊勢遺跡から菟道につながる別王朝の説話で、物部氏の応神天皇の姫の八田皇女、『日本書紀』に「宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女」と八田と矢田は同じで、『舊事本紀』に「大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」と物部氏の分朝廷が矢田部を名乗り、「矢田部造遠祖武諸遇命」と実際は物部氏ではなく武氏と、畿内の物部氏に対して別の氏を持っていた。
そして、『舊事本紀』の皇統の大臣には尾張氏が記述されず、物部氏にとっては尾張氏が宿敵だったことを示し、尾張氏の大臣の建諸隅が物部氏から政権を奪い、尾綱根が菟道の稚郎子の朝廷を滅亡させ、意乎巳で尾張氏朝廷が滅んで、武内宿禰が朝廷を奪ったと考えられ、仁徳天皇は少なくとも、意乎巳と武内宿禰と葛城襲津彥の説話が記述されている。

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