2020年1月6日月曜日

最終兵器の目 履中天皇3

 『日本書紀』慶長版は
元年春二月壬午朔皇太子即位於磐余稚櫻宮夏四月辛巳朔丁酉召阿雲連濱子詔之曰汝與仲皇子共謀逆將傾國家罪當于死然垂大恩而兔死科墨即日黥之因此時人曰阿曇目亦免從濱子野嶋海人等之罪役於倭蔣代屯倉秋七月己酉朔壬子立葦田宿祢之女黑媛爲皇妃妃(生)磐坂市邊押羽皇子御馬皇子青海皇女次妃幡梭皇女生中磯皇女是年也太歲庚子二年春正月丙午朔己酉立瑞齒別皇子爲儲君冬十月都於磐余當是時平群木菟宿祢蘇賀滿智宿祢物部伊莒弗大連圓大使主共執國事十一月作磐余池三年冬十一月丙寅朔辛未天皇泛兩枝舩于磐余市磯池與皇妃各分乗而遊宴膳臣餘磯獻酒時櫻花落于御盞天皇異之則召物部長真膽連詔之曰是花也非時而來其何處之花矣汝自可求於是長真膽連獨尋花獲于掖上室山而獻之天皇歡其希有即爲宮名故謂磐余稚櫻宮其此之縁也是日改長真膽連之本姓曰稚櫻部造又号膳臣餘磯曰稚櫻部臣四年秋八月辛卯朔戊戌始之於諸國置國史記言事達四方志冬十月堀石上溝
【元年の春二月の朔が壬午の日に、皇太子は、磐余の稚櫻の宮で即位した。夏四月の朔が辛巳の丁酉の日に、阿曇連濱子を呼んで、「お前は、仲皇子と反逆を共謀して、国家を傾けようとした。死罪に当たる。しかし大恩によって、死罪を免じて墨刑を科そう」と詔勅して、その日に黥刑に処した。これで、当時の人は、阿曇目と言った。また濱子に従った野嶋の海人達の罪を免じて、倭の蒋代の屯倉の役人にした。秋七月の朔が己酉の壬子の日に、葦田の宿禰の娘の黒媛を皇妃に立てた。妃は、磐坂の市邊の押羽皇子・御馬皇子・青海皇女を生んだ。次妃の幡梭皇女は、中磯皇女を生んだ。是の年は、太歳が庚子だった。二年の春正月の朔が丙午の己酉の日に、瑞齒別皇子を儲の君に立てた。冬十月に、磐余に都を建てた。この時に、平群の木菟の宿禰・蘇賀の滿智の宿禰・物部の伊莒弗の大連・圓の大使主が共に政務を執行した。十一月に、磐余の池を作った。三年の冬十一月の朔が丙寅の辛未の日に、天皇は、二つに分かれた船を磐余の市磯の池に浮かべた。皇妃と夫々わかれて乗って酒盛りをして楽しんだ。膳の臣の余磯が、酒を献上した。その時に桜の花が杯に落ちて来た。天皇は、奇妙に思って、物部の長眞膽の連を呼んで、「この花が、時期外れなのに落ちて来た。これはどこに咲いていた花なのか。お前が探してこい」と詔勅した。そこで、長眞膽の連が一人で花を探して、掖上に室山で見つけて献上した。天皇は、その珍しさを歓んで、それで宮の名にした。それで、磐余の稚櫻の宮と言ったのはこれが由来だ。この日に、長眞膽の連の元の姓を改めて、稚櫻部の造と言った。また、膳の臣の余磯を稚櫻部の臣と名付けた。四年の秋八月の朔が辛卯の戊戌の日に、はじめて諸国に国史を置いた。事件や言い伝えを記録して、四方志を完成させた。冬十月に、石上の溝を堀った。】とあり、四年の八月朔は壬辰で辛卯は7月30日で7月が小の月なら朔となり、他の朔の日干支は標準陰暦と合致する。
『日本書紀』神功皇后摂政六九年に「皇太后崩於稚櫻宮」、『舊事本紀』の物部五十琴彦連に「此連公磐余稚櫻宮御宇神功皇后攝政御世元為大連」と神功皇后が稚櫻宮で亡くなっていて、この元年記事の後に神功皇后が無くなったことを意味する。
神功皇后摂政六四年に「百濟國貴須王薨」、神功皇后摂政六五年に「百濟枕流王薨」と384年・385年記事が記述され、この神功皇后の六九年は389年で摂政の必要がなくなり、390年に成人して即位した応神天皇が存在した。
当然1人で69年即位し続けることは不可能で、複数人の王の王朝を記述したもので、応神天皇の宮は『日本書紀』には記述されないが、『古事記』では「軽嶋之明宮」と「磐余稚櫻宮」ではないので、応神天皇より後も神功皇后が在位しなければ意味が通らない。
すなわち、この神功皇后は尾張氏の神功皇后金田屋野姫で400年は正式にはまだ尾張王朝が存続し、そのため、皇后を立てず、皇太子ではなく儲君で、この、履中天皇は次代に天皇となる大臣の圓大使主の父親だと解り、儲君が弟なのは圓が13歳に達していないからと考えられる。
圓の大使主は建内の大臣と異なり大使主で倭国の臣が使主だったのだから、倭国を配下にする大臣で、建内の大臣が天皇になり圓の大使主が次代の皇太子という大臣となり、天皇というシステムは宮があり皇后・皇太后が存在して璽を持った大王が天皇に即位することで天皇というシステムが成り立つ。
そして、403年に風土記のような記録を集める役所を設けて記録を集め、『三国志』に倣って『四方志』を完成させたと訳したが、これは当然で、役所を作って記録を始めたのでは『志』はすぐに出来ないので、既に中国の三王朝に対して日本では四王朝が存在し、その王朝を統一したので国ではなく方だと解り、すなわち、この四王朝は倭国・仲国・畿内・東国毛国なのだろう。

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