2020年1月17日金曜日

最終兵器の目  允恭天皇3

 『日本書紀』慶長版は
七年冬十二月壬戌朔讌于新室天皇親之撫琴皇后起儛儛既終而不言禮事當時風俗於宴會儛者儛終則自對座長曰奉娘子也時天皇謂皇后曰何失常禮也皇后惶之復起儛儛竟言奉娘子天皇即問皇后曰所奉娘子者誰也欲知姓字皇后不獲已而奏言妾弟名弟姫焉弟姫容姿絁妙無比其艶色徹衣而晃之是以時人号曰衣通郎姫也天皇之志存于衣通即姫故強皇后而進皇后知之不輙言禮事爰天皇歡喜則明日遣使者喚弟姫時弟姫隨母以在於近江坂田弟姫畏皇后之情而不參向又重七喚猶固辭以不至於是天皇不悅而復勅一舍人中臣烏賦津使主曰皇后所進之娘
子弟姫喚而不來汝自往之召將弟姫以來必敦賞矣爰烏賦津使主承命退之糒褁裀中到坂田伏于弟姫庭中言天皇命以召之弟姫對曰豈非懼天皇之命唯不欲傷皇后之志耳妾雖身亡不參赴時烏賊津使主對言臣既被天皇命必召率來矣若不將來必罪之故返被極刑寧伏庭而死耳仍經七日伏於庭中與飲食而不湌密食懷中之糒於是弟姫以爲妾因皇后之嫉既拒天皇命旦亡君之忠臣是亦妾罪則從烏賊津使主而來之到倭春日食于檪井上弟姫親賜酒于使主慰其意使主即日至京留弟姫於倭直吾子籠之家復命天皇天皇大歡之美烏賊津使主而敦寵焉然皇后之色不
平是以勿近宮中則別構殿屋於藤原而居也適産大泊瀬天皇之夕天皇始幸藤原宮皇后聞之恨曰妾初自結髮陪於後宮既經多年甚哉天皇也今妾産之死生相半何故當今夕必幸藤原乃自出之燒産殿而將死天皇聞之大驚曰朕過也因慰喩皇后之意焉八年春二月幸于藤原密察衣通姫之消息是夕衣通郎姫戀天皇而獨居其不知天皇之臨而歌曰和餓勢故餓勾倍枳豫臂奈利佐瑳餓泥能區茂能於虛奈比虛豫比辭流辭毛天皇聆是歌則有感情而歌之曰佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝阿麻哆絆泥受邇多儾比等用能未明且天皇見井傍櫻華而歌之曰波那具波辭佐區羅能梅涅許等梅涅麼波椰區波梅涅孺和我梅豆留古羅皇后聞之且大恨也於是衣通郎姫奏言妾常近王宮而晝夜相續欲視陛下之威儀然皇后則妾之姉也因妾以恒恨陛下亦爲妾苦是以冀離王居而欲遠居若皇后嫉意少息歟天皇則更興造宮室於河內茅渟而衣通郎姫令居因此以屢遊獵于日根野九年春二月幸茅渟宮秋八月幸茅渟冬十月幸茅渟十年春正月幸茅渟於是皇后奏言妾如毫毛非嫉弟姫然恐陛下屢幸於茅渟是百姓之苦仰願冝除車駕之數也是後希有之幸焉十一年春三月癸卯朔丙午幸於茅渟宮衣通郎姫歌之曰等虛辭陪邇枳彌母阿閇椰毛異舍儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘時天皇謂衣通郎姫曰是歌不可聆他人皇后聞必大恨故時人号濱藻謂奈能利曾毛也先是衣通郎姫居于藤原宮時天皇詔大伴室屋連曰朕項(?)得美麗孃子是皇后母弟也朕心異愛之冀其名欲傳于後葉奈何室屋連依勅而奏可則科諸國造等爲衣通郎姫定藤原部
【七年の冬十二月の朔が壬戌の日に、新しい宮殿の広間で酒盛りをした。天皇は、親ら琴を弾いた。皇后は、立ち上がって舞った。舞い終わって、礼の言葉を言わなかった。この当時の風習は、宴の時に舞った者は、舞い終わったら、座の主に対して自ら「娘を捧げます」と言った。その時天皇は、皇后に「どうして決まった儀礼を行わなかった」と言った。皇后は、かしこまって、もう一度立ち上がって舞った。舞終えて、「娘を捧げます」と言った。天皇は、それで皇后に「奉げる女は誰だ。姓を知りたい」と問いかけた。皇后は、「私の妹の、名を弟姫といいます」と仕方なく奏上した。弟姫は、容姿がこの上なくすぐれ並ぶものが無かった。その艶やかな色気は、衣より漏れ出るほど輝いている。これを聞いて、当時の人は、衣通の郎姫と名付けた。天皇の気持ちが、衣通郎姫に移ってしまった。それで、皇后に話を進めることを強いた。皇后、それを知って、嫌々承諾した。そこで天皇は、大喜びして、すぐ翌日使者を派遣して弟姫を呼んだ。弟姫は、母に付き従って、近江の坂田にいた。弟姫は、皇后の気持ちをおそれて、参上しなかった。また七度も呼び出した。それでもなお、固辞して来なかった。それに、天皇は、悦ばず、それでまた、近習の護衛の一人の中臣の烏賊津の使主に「皇后の進上する娘の弟姫は、呼んでも来ない。おまえが往って、弟姫を召し連れて来たなら、きっと手厚い褒美をやろう」と詔勅した。そこで烏賊津の使主は、命令を承まって退席した。干し飯を袋の中につつんで、坂田に到った。弟姫の庭で土下座して、「天皇の、命令で呼びに来ました」と言った。弟姫は、「どうして天皇の命令を恐れません。皇后の気持ちの痛みを思うだけです。私は、身を滅ぼしても参上できません」と答えた。その時、烏賊津の使主は、「私は、すでに天皇の命令を承り、かならず召し連れてこいと命令された。もし連れて参上しなければきっと罪を与えると言われた。それで、返って極刑になるよりは、むしろ庭で土下座したまま死にます」と答えた。それで七日間も、庭で土下座した。飮食を与えても食べなかった。隠れて懐の中の干し飯いを食べた。それで、弟姫は、「考えてみれば、私が、皇后の嫉妬によって、天皇の命令を拒んだ。また王の忠臣を亡したら、これはまた私の罪になる」と思って、それで、烏賊津の使主に付き従って参上した。倭の春日に着いて、くぬぎの井戸の辺りで食事をした。弟姫親ら酒を使主に与えて、その心根を慰めた。使主は、その日に京に着いた。弟姫を倭の直の吾子篭の家に留めて、天皇に復命した。天皇は、大変喜んで、烏賊津の使主を誉めて手厚くかわいがった。しかし皇后の顔色がすぐれなかった。それで、宮中に近づけないで、別に殿屋を藤原に立てて住まわせた。大泊瀬天皇が産れた夕に、天皇は、はじめて藤原の宮に行幸した。皇后は、それを聞いて恨みに思って 「わたしが、はじめ髪を結ってから、後宮で過ごして、すでに何年も経った。しかし、このようなことは初めてで、天皇は、今、私が産後で、生死相半ばの時だ。どうしてこんな時に限って藤原に行幸するのか」と言って、それで、自分で産殿を焼いて死のうとした。天皇は、それを聞いて、大変、驚いて「私が悪かった」と言って、そのため皇后の気分を癒し和らげた。八年の春二月に、藤原へ行幸した。密かに衣通の郎姫の動静を見ていた。是の夕に、衣通の郎姫は、天皇に会いたくて一人で館に居た。天皇が見ていることを知らないで、歌った()天皇が、この歌を聞いて、心を動かされた。それで歌った()。天皇は、井戸の傍の桜の花を見て、歌った()。皇后が、これを聞いて、また大変恨みに思った。そこで、衣通の郎姫が、「私は、いつも王宮に近づいて、昼夜ずっと、陛下の立居振舞を視ていたい。しかし皇后は、私の姉です。私が原因でいつも陛下を恨んでいる。また私の為に苦しんでいる。それで、出来ましたら、王居を離れて、遠くに居たい。それで皇后の妬む気持ちが少しは癒えるでしょう」と奏上した。天皇は、それで、更に宮室を河内の茅渟に造って、衣通の郎姫を住まわせた。この為に、何度も日根野で猟をして楽んだ。九年の春二月に、茅渟の宮に行幸した。秋八月に、茅渟に行幸した。冬十月に、茅渟に行幸した。十年の春正月に、茅渟に行幸した。そこで、皇后が、「私は、ほんの少しも(論衡:採毫毛之善)、弟姫を妬んではいない。しかし恐れているのは、陛下が、何度も茅渟に行幸することです。このことで、百姓が苦しんでいるではないですか。できましたら、何度も行幸することを止めてください」と奏上した。この後は、回数を減らして行幸した。十一年の春三月の朔が癸卯の丙午の日に、茅渟の宮に行幸した。衣通の郎姫が、歌った()。その時に天皇が、衣通郎姫に「この歌を他人にも聞かせよう。皇后は、これを聞いたらきっとものすごく怒るだろう」と言った。それで、その当時の人は、濱藻を奈能利曾毛と名付けた。これより前に、衣通の郎姫は、藤原の宮に住んでいた。その時、天皇は、大伴の室屋の連に「私は、丁度良い時に美しくあでやかな娘を自分のものにした。この娘は皇后の妹だ。私の特に愛しい気持ちでいっぱいだ。できたら、その名を後世に伝えたいと思うが、どうしたらいいのか」と詔勅した。室屋の連は、詔勅を拠り所に奏上を許された。それで諸々の国造達から取り立てて、衣通の郎姫の為に、藤原部を定めた。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話の衣通の郎姫は『古事記』では稚渟毛二岐皇子の娘の忍坂大中姫命の妹ではなく、「娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命生御子木梨之輕王次長田大郎女・・・次穴穂命次輕大郎女亦名衣通郎女」と允恭天皇の娘で『日本書紀』の允恭天皇は『古事記』の允恭天皇の娘長田大郎女の婿で『日本書紀』は平群氏が記述した史書なのだから、平群氏の皇位の正統性を記述していて、『古事記』はその平郡氏に滅ぼされた側の史書である。
すなわち、実際の雄朝津間稚子宿禰は允恭天皇の娘婿、木梨輕皇子が正統な皇太子で平群氏の雄朝津間稚子宿禰が政権を奪ったということで、更に、允恭天皇は去來穗別や瑞齒別以外の兄弟なのだから仲皇子、その皇后が忍坂大中姫になり、『日本書紀』の説話の内容は皇后の妹が弟媛と言えば、木事の娘の津野媛・弟媛姉妹で、弟媛がいた近江の坂田は伊勢遺跡から4Km程度の場所に坂田宮伊勢斎王禊祓所の跡があり、やはり、伊勢遺跡の王朝の姫だ。
他の登場人物の烏賊津使主は神功皇后摂政前紀に「武内宿禰令撫琴喚中臣烏賊津使主爲審神者」と出現し、倭の直の吾子篭は仁徳天皇即位前紀に「吾子篭遣於韓國」と額田大中彦皇子が「掌倭屯田及屯倉」と支配権を主張した時の関係者でやはり大中媛と大中皇子で仲皇子・中媛も兄弟若しくは夫婦というセットの名前で、応神天皇の妃も仲媛と弟媛が存在し、この名前は王朝末期の政権交代に重要な役割を持つ名前のようだ。

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