2020年1月24日金曜日

最終兵器の目 安康天皇2

 日本書紀慶長版
元年春二月戊辰朔天皇爲大泊瀬皇子欲聘大草香皇子妹幡梭皇女則遣坂本臣祖根使主請於大草香皇子曰願得幡梭皇女以欲配大泊瀬皇子爰大草香皇子對言僕頃患重病不得愈譬如物積舩以待潮者然死之命也何足惜乎但以妹幡梭皇女之孤而不能易死耳今陛下不嫌其醜將滿荇菜之數是甚之大恩也何辭命辱故欲呈丹心捧私寶名押木珠縵附所使臣根使主而敢奉獻願物雖輕賤納爲信契於是根使主見押木珠縵感其麗美以爲盜爲己寶則詐之奏天皇曰大草香皇子者不奉命乃謂臣曰其雖同族豈以吾妹得爲妻耶既而留縵入巳而不獻於是天皇信根使主之讒言則大怒之起兵圍大草香天皇之家而殺之是時難波吉師日香蛟父子並仕于大草香皇子共傷其君无罪死之則父抱王頸二子各執王足而唱曰吾君無罪以死之悲乎我父子三人生事之死不殉是不臣矣即自刎之死於皇尸側軍衆悉流涕爰取大草香皇子之毒中蒂姫納于宮中因爲妃復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子是年也太歲甲午二年春正月癸巳朔己酉立中蒂姫命爲皇后甚寵也初中蒂姫命生眉輪王於草香皇子乃依母以得免罪常養宮中三年秋八月甲申朔壬辰天皇爲眉輪王見弑三年後乃葬菅原伏見陵
元年の春二月の朔の戊辰の日に、天皇は、大泊瀬の皇子の為に、大草香の皇子の妹の幡梭皇女を呼び寄せようと思った。それで、坂本臣の祖の根使主を派遣して、大草香の皇子に「出来ましたら、幡梭皇女を貰って、大泊瀬の皇子の妻にした」と願った。そこで大草香の皇子は、「私は、最近重罹って治らない。たとえば物を船に積んで潮を待つ者のように死ぬのを待っています。死をまつ命などどうして惜しむに足りましょう。ただ妹の幡梭の皇女がのひとりぼっちになることを思うと、簡単には死ねません。今、陛下が、醜いことを厭わず、アサザの葉の数が満ちるほどすごい大恩です。どうして命令に拒否して辱めましょう。それで、真心を示すために、私の宝の名は押木の珠縵を捧げます。使者の根使主に持たせて躊躇せず奉します。できました、軽く卑しい物ではありますが、手に納めて信頼の証しとしてください」と答えた。そこで、根使主は、押木の珠縵を見て、そのうるわしくうつくしいことに心が動き、盗んで自分の宝にしようとし、それで詐って天皇に「大草香の皇子は、命令を聞かず、それで私に『天皇が同族といっても、どうして私の妹を妻として送り出せるか』といった」と奏上し縵を自分の手元に残して献上しなかった。そこで、天皇は、根使主の讒言を真に受けた。それで大変怒って、軍を起して大草香の天皇の家を取り囲んで殺した。この時、難波の吉師の日香蚊の父子が一緒に大草香の皇子に仕えていた。共にその主君が罪も無いのに死んだことを傷んで、それで父は王の頚を抱き、二人の子は各々、王の足をかたくつかんで離さず、「わが君は、罪も無いのに死んだことが悲しい。私達父子三人が、生きていた時に仕え、死んだときに殉じないのは、臣下とは言えない」と唱えた。それで自ら首を切って、皇帝の屍の側で死んだ。軍勢は、一人残らず涙を流して悲しんだ。そこで大草香の皇子の妻の中蒂姫を娶って、宮中に住まわせた。それで妃とした。またとうとう幡梭の皇女を呼び寄せて、大泊瀬の皇子と結婚させた。この年は太歳が甲午だった。二年の春正月の朔が癸巳の己酉の日に、中蒂姫命を皇后に立てた。度合をこえて寵愛した。はじめ中蒂姫命は、大草香の皇子との間に眉輪王を生んだ。それで母のおかげで罪を免れることが出来た。いつも宮中で育てられた。三年の秋八月の朔が甲申の壬辰の日に、天皇は、眉輪王の為に殺された。三年の後、菅原の伏見の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
大草香殺害は当然安康天皇の謀略で、幡梭皇女が目的ではなく、中蒂姫で、天皇をだました臣下が許されて坂本臣の氏姓を得るることは有り得ず、大草香を殺害したと考えられる。
前天皇の皇后は皇太后として迎えたが、その皇后が「なか国」の後継女王では無かったようで、「なか国」女王の中帯姫が皇后に必要で、死なれると困るから、眉輪王の命を保障することで得ることが出来たようだ。
皇太子の木梨輕皇子を殺害したが、次の皇位継承順が大草香、実際に慶長版では「大草香天皇之家」と記述していて、『古事記』では「大日下王之御名代定大日下部爲若日下部王之御名代定若日下部」と大日下部と若日下部がいて、これは大足彦と若足彦の関係と同じで、中彦の主筋にあたり、平群氏は木国・若国王で若日下の子孫の可能性がある。
後代の版本、江戸末期の版本は江戸時代末期の解釈に沿って書き換えられていて、当然、慶長版も同じことが考えられるし、誤植もあって、間違いも有るかもしれないが、慶長版は赤字や注書きで残していて、古い原本に近い内容が残っているように感じる。
しかし、穴穗という国名も役職名も別も「大」・「若」・「中」も付加されない天皇の名として恥ずかしくないない名前で記述された、すなわち、天皇になった。
そして、平群王朝の2代目の雄略天皇が第一陣の『日本書紀』を完成させ、自家の役職名の変遷を首都の歴史の王名に付与し、「なか国」と葛城氏を中心にして、平群・葛城の朝廷奪取の歴史を紀伝体で記述した。
次項からは、『日本書紀』を推古天皇のとき、蘇我氏が記述しているため、巨勢氏の王朝や物部氏の王朝については、『古事記』および『舊事本紀』の内容が重要になってくる。

0 件のコメント:

コメントを投稿