2020年1月22日水曜日

最終兵器の目 安康天皇1

 『日本書紀』慶長版は
穴穗天皇雄朝津間稚子宿祢天皇第二子也母曰忍坂大中姫命稚渟毛二岐皇子之女也四十二年春正月天皇崩冬十月葬禮畢之是時太子行暴虐淫于婦女國人謗之群臣不從悉隸穴穗皇子爰太子欲襲穴穗皇子而密設兵穴穗皇子復興兵將戰故穴穗括箭輕括箭始起于此時也時太子知群臣不從百姓乖違乃出之匿物部大前宿祢之家穴穗皇子聞則圍之大前宿祢出門而迎之穴穗皇子歌之曰於朋摩弊烏摩弊輸區塗餓訶那杜加礙訶區多智豫羅泥阿梅多知夜梅牟大前宿
祢荅歌之曰瀰椰比等能阿由臂能古輸孺於智珥岐等瀰椰比等等豫牟佐杜弭等茂由梅乃啓皇子曰願勿害太子臣將議由是太子自死于大前宿祢之家十二月己巳朔壬午穴穗皇子即天皇位尊皇后曰皇太后則遷都于石上是謂穴穗宮當是時大泊瀬皇子欲聘瑞齒別天皇之女等於是皇女等皆對曰君王恒暴強也儵忽忿起則朝見者夕被殺夕見者朝被殺今妾等顏色不秀加以情性拙之若威儀言語如毫毛不似王意豈爲親乎是以不能奉命遂遁以不聽矣
【穴穗天皇は、雄朝津間稚子の宿禰の天皇の第二子だ。母を忍坂の大中姫命という。稚渟毛二岐の皇子の娘だ。四十二年の春正月に、天皇が崩じた。冬十月に、葬礼が終わった。この時、太子はむごい仕打ちをして人を苦しめ、婦女子を姦淫した。国中の人がそしった。臣もついてこなかった。残らず穴穗皇子についた。そこで太子は、穴穗皇子を襲撃しようと、密かに軍をおこした。穴穗皇子もまた、軍をおこして戦おうとした。それで、穴穗様式の括り方の箭と・軽様式の括り方の箭がはじめてこの時に起った。この時、太子には臣下が従わず、百姓も叛いて従わないことを知って、それで、宮から出て、物部の大前の宿禰の家にかくまわれた。穴穗皇子は、それを聞いたので屋敷を取り囲んだ。大前の宿禰が、門で出迎えた。穴穗皇子は、歌った()。大前の宿禰が答歌した()それで皇子に「できましたら、太子を傷つけないでください。私が太子に話します」と考えを言った。それで、太子は、自ら大前の宿禰の家で死んだ。十二月の朔が己巳の壬午の日に、穴穗皇子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と言った。それで都を石上に遷した。
これを穴穗の宮という。この機会に、大泊瀬皇子は、瑞齒別の天皇の娘達を手元に置こうとした。そこで、皇女達は皆「王君は、いつも荒々しくてこわい。たちまち怒り出すので、朝見かけた者が夕には殺されている。今、私たちは、顔色がすぐれず、加えて、落ち込んでいます。もし、立ち居振る舞いや言い方がほんの少しでも王の思いと違っていたら、親しくなれません。そのため、命令を承ることが出来ません」と答えた。とうとう逃げて従わなかった。】とあり、標準陰暦と合致する。
皇太子の木梨輕は允恭天皇で書いたように、衣通の郎姫が『古事記』では「娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命生御子木梨之輕王次長田大郎女・・・次穴穂命次輕大郎女亦名衣通郎女」と允恭天皇の娘で、『日本書紀』の「妾弟名弟姫・・・時人号曰衣通郎姫也天」と忍坂大中姫の妹ではなく、娘だったように、実際は木梨輕も襲名で殺害された木梨輕は允恭天皇が42年間在位していたことから考えると2代目の可能性が大きく、安康天皇は木梨輕の叔父で、しかも、母親が兄弟の可能性が高い。
そして、中彦・中姫は、垂仁天皇十五年「皇后日葉酢媛命生・・・大足彦尊第三曰大中姫命」、景行天皇五一年「初日本武尊娶兩道入姫皇女爲妃・・・次足仲彦天皇」、仲哀天皇二年「娶叔父彦人大兄之女大中姫爲妃」、応神天皇二年「立仲姫爲皇后后生荒田皇女大鷦鷯天皇根鳥皇子・・・皇后姉高城入姫爲妃生額田大中彦皇子・・・次妃河派仲彦女弟媛」、応神天皇二二年「次以上道縣封中子仲彦是上道臣」、仁徳天皇二年「后生大兄去來穗別天皇住吉仲皇子瑞齒別天皇雄朝津間稚子宿禰天皇」、履中天皇元年「次妃幡梭皇女生中磯皇女」、允恭天皇二年「立忍坂大中姫爲皇后」、安康天皇二年「立中蒂姫命爲皇后」と天皇や皇后またはそれに準じた人物で、安寧天皇三年「立渟名底仲媛命爲皇后」から始まる名門の名前で、雄略天皇を最後に姿を消す。
すなわち、これまで述べて来た葛城王朝は葛城氏が「なか国」の王者で、その支配者の王名・王女名が中彦・中姫だったことを示し、『日本書紀』の神話も「葦原中國」を統治するために天降ったのである。
また、中臣烏賦津使主が衣通郎姫を迎える時に活躍するが、使主は畿内政権ではない地域の臣で、景行天皇が周芳から日向国へ遠征する時「是時祷神則志我神直入物部神直入中臣神三神矣」と中臣氏賜姓以前に記述され、すなわち、中臣氏も「なか国」王の王朝であることから、神話から記述されたことが解り、中臣氏は「なか国」王家の氏で主を使う、主と呼ばれる王を使う王である。
そして、王朝が交替する時、前王朝の姫達をすべて新しい王朝の皇子が手に入れてしまい、新しい王朝の天皇は前王朝の皇后を皇太后として迎え入れて、バックとなる氏族の女王を皇后にして天皇というシステムが完成する。
垂仁天皇以前は全ての天皇が皇太后を迎え入れているが、景行天皇・履中天皇・反正天・允恭天皇は迎え入れておらず、 景行天皇は垂仁天皇と同じ王朝で、成務天皇が新しく朝廷を奪取したことを示し、 履中天皇から允恭天皇は仁徳天皇と同じ王朝であることが示されている。
そして、葛城中彦(なか国)王朝の最後の天皇が木梨輕で『舊事本紀』に「二十三年三月甲午朔庚子木梨輕子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」と物部の大前の宿祢が後ろ盾であったことを示している。

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