2020年1月15日水曜日

最終兵器の目  允恭天皇2

 『日本書紀』慶長版は
是日爲皇后定刑部皇后生木梨輕皇子名形大娘皇女境黑彥皇子穴穗天皇輕大娘皇女八釣白彥皇子大泊瀬稚武天皇但馬橘大娘皇女酒見皇女初皇后隨母在家獨遊苑中時鬪鶏國造從傍徑行之乗馬而莅籬謂皇后嘲之曰能作園乎汝者也且曰壓乞戸母其蘭一莖焉皇后則採一根蘭與於乗馬者因以問曰何用求蘭耶乗馬者對曰行山撥蠛也時皇后結之意裏乗馬者辭旡禮即謂曰首也余不忌矣是後皇后登祚之年覓乗馬乞蘭者而數昔日之罪以欲殺爰乞蘭者顙搶地叩頭曰臣之罪實當萬死然當其日不知貴者於是皇后赦死刑貶其姓謂稻置三年春正月辛酉朔遺使求良醫於新羅秋八月醫至自新羅則令治天皇病未經幾時病已差也天皇歡之厚賞醫以歸于國
四年秋九月辛巳朔己丑詔曰上古之治人民得所姓名勿錯今朕踐祚於茲四年矣上下相爭百姓不安或誤失己姓或故認髙氏其不至於治者蓋由是也朕雖不賢豈非正其錯乎群臣議定奏之群臣皆言陛下舉失正枉而定氏姓者臣等冒死奏可戊申詔曰群卿百寮及諸國造等皆各言或帝皇之裔或異之天降然三才顯分以來多歷萬歲是以一氏蕃息更爲萬姓難知其實故諸氏姓人等沐浴齊戒各爲盟神探湯則於味橿丘之辭禍戸碑坐探湯瓮而引諸人令赴曰得實則全偽者必害於是諸人各著木綿手繦而赴釜探湯則得實者自全不得實者皆傷是以故詐者愕然之豫退無進自是之後氏姓自定更無詐人 五年秋七月丙子朔己丑地震先是命葛城襲津彥之孫玉田宿祢主瑞齒別天皇之殯則當地震夕遣尾張連吾襲察殯宮之消息時諸人悉聚無闕唯玉田宿祢無之也吾襲奏言殯宮大夫玉田宿祢非見殯所則亦遣吾襲於葛城令視玉田宿祢是日玉田宿祢方集男女而酒宴焉吾襲舉狀具告玉田宿祢宿祢則畏有事以馬一匹授吾襲爲禮幣乃密遮吾襲而殺于道路因以逃隱武內宿祢之墓域天皇聞之喚玉田宿祢宿祢疑之甲服襖中而參赴甲端自衣中出之天皇分明欲知其狀乃令小墾田采女賜酒于玉田宿祢爰采女分明瞻衣中有鎧而具奏于天皇天皇設兵將殺玉田宿祢乃密逃出而匿家天皇更發卒圍玉田家而捕之乃誅冬十有一月甲戌朔甲申葬瑞齒別天皇于耳原陵
【この日に、皇后の為に刑部を定めた。皇后は、木梨の輕皇子・名形の大娘皇女・境の黒彦皇子・穴穂天皇・輕の大娘皇女・八釣の白彦皇子・大泊瀬の稚武天皇・但馬の橘の大娘皇女・酒見皇女を生んだ。最初、皇后は、母と一緒に家にいた時、一人庭でたのしんでいた。その時、鬪鶏の国の造(都祁国?)が付き従ってほとりの路を行った。馬に乗って垣根を臨み見て、「上手に庭園を造るな、お前は」と皇后をけなした。また「壓乞(?一寸来い)、奥さん、そのあららぎを一茎」と言った。皇后は、それで一根のあららぎを採って、馬に乗った者に与えた。それで、「何のためにあららぎが欲しいのか」と問いかけた。馬に乗った者は、「山に行く時に蚊を追い払うためだ」と答えた。その時、皇后は、心の底で、馬に乗る者の言葉が無礼だったので、「お頭よ、私は絶対忘れないぞ」と呟いた。この後で、皇后に、即位した年に、馬に乗ってあららぎをねだった者を探し求めて、何日も前の罪で殺そうとした。そこであららぎねだった者は、額を地面につけ、頭を打ちつけて「私の罪は、本当に万死に値します。しかしその日は、尊い人とは知りませんでした」と言った。そこで、皇后は、死刑を免じて、その姓を稻置に降格した。三年の春正月の朔が辛酉の日に、使者を派遣して良いくすしを新羅で求めた。秋八月に、くすしが新羅からやってきた。それで天皇の病を治療した。いくらかの時を経ないで、病が癒えた。天皇は、喜んでくすし手厚いほうびをして帰国させた。四年の秋九月の朔が辛巳の己丑の日に、「昔、人民を治める地域を得たら姓と名を間違えることが無かった。今、私が、皇位を継いで、四年たった。上下が争いあって、百姓は落ち着かなかった。または間違いをおこして自分の姓を失った。あるいは古くて今に合わない高い氏を認めてしまった。この治められなくなったのはこの理由からだと思う。私は、愚かとはいえ、どうして間違いを正さないことがあろうか。群臣は、相談して決めて奏上しろ」と詔勅した。群臣は、「陛下が、間違いをあげて歪みを正し、氏姓を定めてもらえば、わたしたちは、命がけで実行します」と奏上し、許された。戊申の日に、「群卿百寮と諸国の国造たちが皆それぞれ、『ある帝皇の子孫は、間違って天降った』といった。しかし天と地と人が明らかに別れてから、もう萬年を歴た。これで、一つの氏族が繁栄して、さらに萬姓となった。それが本当か知ることが出来ない。それで、諸々の氏姓の人たちは、祭祀を前に沐浴して心身を清めて、それぞれ盟神探湯しなさい」と詔勅した。それで味橿の丘の辭の禍戸の碑で、探湯の容器を据え付けて、諸々の人を引きたてて、「正しいと出た者は無事である。偽りならきっとそこなう」と言った。そこで、諸々の人は、それぞれ、木綿のたすきをつけて、釜に赴いて盟神探湯をした。それで正しいと出た者は何もなかったように無事で、正しいと出なかった者は皆害った。これで、由緒を詐称する者は、慌てふためいて、最初から尻込みして前に出られなかった。これより後、氏姓は自然に定って、詐称する人はいなかった。五年の秋七月の朔が丙子の己丑の日に、地震があった。この年より前に、葛城の襲津彦の孫の玉田の宿禰に命じて、瑞齒別天皇の殯を担当させて。それで地震の夕にあたって、尾張連の吾襲を派遣して、殯の宮の動静を調べさせた。その時、人々が、みな欠けることなく集ったがただ玉田の宿禰だけ居なかった。吾襲が、「殯の宮の責任者の玉田の宿禰が、殯の場所に見かけなかった」と奏上した。すなわちまた吾襲を葛城に派遣して、玉田の宿禰を調べさせた。この日に、玉田の宿禰は、丁度、男女を集めて、酒宴をもようしていた。吾襲は、状況を具体的に挙げて玉田の宿禰に告げた。宿禰は、それで武力による制裁を畏れて、馬一匹を、吾襲に渡して貢ぎ物とした。それで密かに吾襲の行くてを邪魔して、道路で殺した。それで武内の宿禰の墓域に逃げ隱れた。天皇はそれを聞いて玉田の宿禰を召喚した。玉田の宿禰は、疑って、よろいを衣の中に着て、参上した。よろい端が、衣の中からはみ出していた。天皇は、見極めてその状況を知ろうとして、小墾田の采女に命じて、酒を玉田の宿禰にふるまわせた。そこで采女は、衣の中に鎧が有ることを見極めて、詳しく天皇に奏上した。天皇は、兵を用意して殺そうとした。玉田の宿禰は、それで密かに逃げ出して家に匿れた。天皇は、出兵して、玉田の家を圍んで、捕えて誅殺した。冬十有一月の朔が甲戌の甲申の日に、瑞齒別天皇を耳原の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
允恭天皇は皇位について玉田の宿禰を殺害しているのだから、葦田の宿禰の家系が皇位を継承し、尾張氏・物部氏・武氏の影響下の家系の選別を行い、外交も百済ではなく新羅の薬師を呼んでいる。
『三国史記』に百済の416年腆支王十二年に「東晉安帝遣使冊命王爲使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と百済が晋の冊封体制に組み入れられ将軍位を得ると、 428年毗有王二年「春二月 ・・・倭國使至從者五十人」を最後に608年武王九年「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」、653年義慈王十三年に「秋八月王與倭國通好」と白村江の時代まで百済と倭は対等関係で戦争もしていない。
それに対して、新羅は500年炤知麻立干二十二年の「春三月倭人攻陷長峰鎭」までずっと倭と戦かっていて、允恭天皇は、旧来の尾張氏日本の外交を受け継ぎ扶桑国と名のり、南朝中国と南朝の冊封関係の倭・百済連合と『梁書』扶桑国に「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と高句麗の官名を使っているように、高句麗・新羅・扶桑国の対峙の関係を構築したことを示している。
そして、これは『古事記』も『日本書紀』の雄略紀以降も扶桑国とは異なる王朝が記述したことが、この對盧という官位が記述されないこと、『梁書』扶桑国に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と仏教流入も記述されないことからも良く理解できる。
『三国史』に「始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐」、『梁書』扶桑国も「貴人有罪國乃大會坐罪人於坑對之宴飲分訣若死別焉以灰繞之」と家族が酒宴をもようすことは常識であり、玉田宿禰の親の瑞齒別天皇のために酒宴を開いていた、すなわち、天皇が崩じて酒宴が出来るのは家族、他の人物が酒宴を開けば殺害されることは当然解っており、玉田の宿禰は皇太子であったから酒宴を開いていた。

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