2020年1月31日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇3

 『日本書紀』慶長版は
元年春三月庚戌朔壬子立草香幡梭姫皇女爲皇后是月立三妃元妃葛城圓大臣女曰韓媛生白髮武廣國押稚日本根子天皇與稚足姫皇女是皇女侍伊勢大神祠次有吉備上道臣女稚媛生二男長曰磐城皇子少曰星川稚宮皇子次有春日和珥臣深目女曰童女君生春日大娘皇女童女君者本是采女天皇與一夜而脤遂生女子天皇疑不養及女子行步天皇御大殿物部目大連侍焉女子過庭目大連顧謂群臣曰麗哉女子古人有云娜毗騰耶皤磨珥徐步清庭者言誰女子天皇曰何故問耶目大連對曰臣觀女子行步容儀能似天皇天皇曰見此者咸言如卿所噵然朕與一宵而脤産女殊常由是生疑大連曰然則一宵喚幾𢌞乎天皇曰七𢌞喚之大連曰此娘子以清身意奉與一宵安輙生疑嫌他有潔臣聞易彦腹者以褌觸體即便懷脤況與終?()而妄生疑也天皇命大連以女子爲皇女以母爲妃是年也大歲丁酉
【元年の春三月の朔が庚戌の壬子の日に、草香の幡梭姫皇女を皇后に立てた。この月に、三人の妃を立てた。はじめの妃は葛城圓大臣の娘を韓媛という。白髮武廣國押稚日本根子天皇と稚足姫皇女とを生んだ。この皇女は、伊勢大神の祠につかえた。次に吉備の上道の臣の娘の稚姫がいた。二人の男子を生んだ。長子を磐城皇子という。弟を星川の稚宮皇子という。次に春日の和珥の臣の深目の娘がいた。童女君という。春日の大娘皇女を生んだ。童女君は、元々采女だ。天皇と一夜の関りで妊娠して女子を生んだ。天皇は、疑って女子が歩き出すまで養わなかった。天皇が、大殿に居た時、物部の目の大連が仕えていた。女子が、庭を過ぎた。目の大連は、振り返って臣下に「何と麗しい女子だ。昔、ある人が言った。しとやかな人は養って磨き上げろ。清々しく庭をゆっくりと歩く者は、誰の女子か」といった。天皇が「どうして問うのか」と言った。目の大連は、「私が女子の歩く様を観るところ、礼儀にかなった身のこなしが天皇によく似ている」と答えた。天皇が「これを見る者が、みな言うことは、お前が言っていることと同じようだ。しかし私は、一晩の関りで妊娠して女を生むのは普通でない。それで、疑っているのだ」と言った。大連は、「それでは一夜に何回引き寄せたのですか」と言った。天皇は、「七回引き寄せた」と言った。大連は、「このむすめごは、清らかな体と心構えを持って、一晩関りました。どうして簡単に疑って他人が潔癖なのを見て嫌われるのか。私は、子をもうけやすい者は褌が体に触れるだけで妊娠すると聞いています。まして、一晩中関わって、みだりにうたがうとは。」と言った。天皇、大連に命じて、女子を皇女として、母を妃とした。この年、大歳は丁酉だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
幡梭姫皇女は『古事記』では「若日下部王」、『舊事本紀』では「草香幡援姬」と微妙に異なるが、天皇名が大泊瀬幼武と大国に支配される泊瀬に住む幼()国の武が実際の名前であり、『古事記』は大長谷若建と字面は異なるが同じで、子も稚足姫で『古事記』には記述されない妃が稚姫で子供が巨勢氏にも存在する星川皇子が稚宮と呼ばれる。
この、雄略天皇からは推古天皇が記述させており、『古事記』の天皇名を流用している可能性が高く、『古事記』を書いた仁賢天皇の家系の王名が記述されていて、雄略天皇の時仁賢天皇の家系はまだ天皇では無いので、名前は配下の役職名が記述されている。
『古事記』は小柄の宿禰(役職名で押磐皇子も含まれる)と記述しているので『日本書紀』の統治内容と比べると、『日本書紀』は狂暴なのに対して、『古事記』は凶暴さが少なく、「阿岐豆志麻登布故自其時号其野謂阿岐豆野也」と秋津野の命名説話や一言主と張り合った説話、「ナンパ」して忘れてしまっていた話と優雅な話が続く。
従って、小柄の宿禰の王朝は若国王の若足彦を背景、すなわち、吉備の上道の臣の娘が稚姫なのだから、若国は吉備を含んだその近辺で、吉備を背景に力をつけて王朝を奪取したことが解る。
すなわち、木国を背景にした平群氏が中足姫によって「なか国」を領有し、押磐皇子の領有する若国の領域も手に入れて強大な軍事力・経済力を有する王朝が出来上がり、『日本書紀』の神武東征で最終出発地となったのも吉備の高嶋宮で3年過ごした後だった。

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