2020年2月3日月曜日

最終兵器の目 雄略天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二年秋七月百濟池津媛違天皇將幸婬於石河楯天皇大怒詔大伴室屋大連使來目部張夫婦四攴於木置假庪上以火焼死冬十月辛未朔癸酉幸于吉野宮丙子幸御馬瀬命虞人縱獵凌重巘赴長莽未及移影獮什七八毎獵大獲鳥獸將盡遂旋憩乎林泉相羊乎藪澤息行夫展車馬問群臣曰獵場之樂使膳夫割鮮何與自割群臣忽莫能對於是天皇大怒拔刀斬御者大津馬飼是日車駕至自吉野宮國內居民咸皆振怖由是皇太后與皇后聞之大懼使倭采女日媛舉酒迎進天皇見采女面貌端麗形容温雅乃和顏悅色曰朕豈不欲覩汝姸咲乃相携手入於後宮語太后曰今日遊獵大獲禽獸欲與群臣割鮮野饗歷問群臣莫能有對故朕嗔焉皇太后知斯詔情奉慰天皇曰群臣不悟陛下因遊獵場置害(?)人部降問群臣群臣嘿然理且難對今貢未晩以我爲初膳臣長野能作宍膾願以此貢天皇跪禮而受曰善哉鄙人所云貴相知心此之謂也皇太后觀天皇悅歡喜盈懷更欲貢人曰我之厨人菟田御戸部真鋒田髙天以此二人請將加貢爲害人部自茲以後大倭國造吾子籠宿祢貢狹穗子鳥別爲害(?)人部臣連伴造國造又隨續貢是月置史戸河上舍人部天皇以心爲師誤殺人衆天下誹謗言太惡天皇也唯所愛寵史部身狹村主青檜隈民使博德等也
二年の秋七月に、百済の池津媛は、天皇が丁度行幸する約束を破って、石川の楯と淫らな関係になった。天皇は、大変怒って、大伴の室屋の大連に詔勅して、来目部に夫婦の四支を木に縛りつけ、桟敷の上に置いて、火で焼き殺した。冬十月の朔が辛未の癸酉の日に、吉野宮に行幸した。丙子に、御馬瀬に行幸した。虞人に付き従うように命じて狩をした。幾つもの嶺を越えて長い草むらに赴いた。まだ日が暮れる前に、十七・八を狩った。狩る毎に多く捕れ、鳥獣が尽きようとした。そして廻りまわって林の泉で休息を取った。湿地を歩き回り、付き人を休ませて馬車を並べた。臣下に「狩場での楽しみは、料理人になますを切らせることだが、私が切ろうと思うがどうか」と問いかけた。臣下は、すぐに答えられなかった。それで、天皇は、大変怒って、刀を抜いて御者の大津の馬飼を斬った。この日、天皇の乗り物が、吉野宮から帰ってきた。国中に居る民が、全て皆、体を振るわせて怯えた。このため、皇太后と皇后が、これを聞いて大変あやぶんだ。倭の采女の日媛を、酒を手土産に迎えた。天皇は、采女の顔立ちが整っていて美しく、立ち居振る舞いがおだやかで上品なのを見て、にこやかな表情で心をなごませて「私は、あなたが優美に笑うのを見てどうしても欲しい」と言って、それで手を取り合って、後宮に入った。皇太后に「今日の狩りで、大きな獲物が獲れた。臣下となますを切って野宴をしようと、臣下に順々に問いただしたら、上手く答えが出なかった。それで、私は、憤った」と語った。皇太后は、この詔勅の真意を知って、天皇を慰めようと「臣下が、陛下の狩場遊びで、宍人部を置こうとして、群臣に順に尋ねたことを臣下が解らなかったことが、押し黙ってしまった理由です。やはり答えるのは難しい。今から推挙するには日が沈んでしまって遅い。私にその開始を決めさせてください。膳臣長野が、上手くなますを作れます。出来ましたらこの者を推挙します」と言った。天皇は、膝まづいて受け入れ「それは良い。賤しい人が言う、『貴人は人の気持ちが良くわかる』というのは、これをいうのか」と言った。皇太后は、天皇が悦んだのを見て、心からの喜び胸がいっぱいになった。また人を推挙しようと、「私の厨人の菟田の御戸部と眞鋒田の高天の二人も加えて、人部とすることをお願いしたい」と言った。これより以後、大倭の国造の吾子篭の宿禰に、狹穗の子鳥別を与えて、宍人部とした。臣連伴造国造も、また一緒に続いて推挙した。この月に、史戸・河上の舍人部を置いた。天皇は自分の気持ちだけ考えて、人の言うことを聞かなかったので、誤って人を殺すことが多かった。天下はそしって「極悪の天皇だ」と言った。ただし、特別に大切にして可愛がるのは、史部の身狹の村主の青と桧隈の民使の博徳たちだけだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
ここにも、大山守皇子が大中彦の領有しようとしていた倭の土地に横やりをいれ、韓地から呼び寄せた倭直祖麻呂の子の吾子篭が仁徳天皇六二年から允恭天皇七年に倭直だったが、658年に大倭国造に出世して、国王のため宿禰と呼ばれた。
これは、仁徳天皇六二年が大山守の横やりの事件があり、その年が412年で、允恭天皇七年は418年の説話、458年に国造に大出世し、吾子篭は13歳で役職に就いたとして、おおよその年齢は60歳位なのだろうか。
このように考えると、大中彦が倭の領有を主張し、大中姫が皇后になり、中帯姫が皇太后になった時に倭の領有の手助けを行った吾子篭を国造に登用したことが良く理解できる。
この論功行賞的辞令によって、これまで神話時代も含めて祖と呼ばれた多くの人たちの祖が取れ、神話で祖と付いて、雄略天皇以前に祖が取れなかった人々は平群氏に対して役に立った人々で、平郡政権に寄与した人々が雄略天皇以降に祖が取れたと言うことが解る。

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