『日本書紀』慶長版
「十四年春正月丙寅朔戊寅身狹村主青等共吴國使將吴所獻手末才伎漢織吴織及衣縫兄媛弟媛等泊於住吉津是月爲吴客道通磯齒津路名吴坂三月命臣連迎吴使即安置吴人於檜隈野因名吴原以衣縫兄媛奉大三輪神以弟媛爲漢衣縫部也漢織吴織衣縫是飛鳥衣縫部伊勢衣縫之先也夏四月甲午朔天皇欲設吴人歷問群臣曰其共食者誰好乎群臣僉曰根使主可天皇即命根使主爲共食者遂於石上髙拔原饗吴人時密遣舍人視察裝錺舍人復命曰根使主所著玉縵大貴最好又衆人云前迎使時又亦著之於是天皇欲自見命臣連裝如饗之時引見殿前皇后仰天歔欷
啼泣傷哀天皇問曰泣耶皇后避床而對曰此玉縵者昔妾兄大草香皇子奉穴穗天皇勅進妾於陛下時爲妾所獻之物也故致疑於根使主不覺涕垂哀泣矣天皇聞驚大怒深責根使主對言死罪死罪實臣之愆詔根使主自今以後子子孫孫八十聯綿莫預群臣之例乃將斬之根使主逃匿至於日根造稻城而待戰遂爲官軍見殺天皇命有司二分子孫一分爲大草香部民以封皇后一分賜茅渟縣主爲負嚢者即求難波吉士日香香子孫賜姓爲大草香部吉士其日香香等語在穴穗天皇紀事平之後小根使主夜臥謂人曰天皇城不堅我父城堅天皇傳聞是語使人見根使主宅實如其言故收殺之根使主之後爲坂本臣自是始焉」
【十四年の春正月の朔が丙寅の戊寅の日に、身狹の村主の青達を、呉国の使者と共に、呉が献上した手工芸者の、漢織・呉織および衣を縫う兄媛と弟媛達を連れて、住吉の津に停泊した。この月に、呉の客が通る道を造って、磯歯津の路につなげ、呉坂と名付けた。三月に、臣連に命じて呉の使者を迎え、それで呉の人を桧隈の野に留め、それで呉原と名付けた。衣を縫う兄媛を、大三輪神に奉納した。弟媛を漢衣の縫部とした。漢織と呉織の縫製工は、飛鳥衣の縫部で伊勢の衣縫の先祖だ。夏四月の甲午が朔の日に、天皇は、呉の人と宴席を設けようと、群臣に一人一人に「供物をそなえ、それを共に食べる者は誰が好いか」と聞いて回った。家臣が、ことごとく、「根の使主ならできる」と言った。天皇は、それで根の使主に命じて、供物をそなえ、それを共に食べる者とし、それで石上の高拔の原で、呉の人を饗応した。その時に密かに雑役夫を派遣して、装いを観させた。雑役夫は、服命して「根の使主が蔓のように巻いたヒスイは、はなはだ気品があって見た中でいちばん好い。また周りの人が、『以前に使者を迎えた時にも、着けていた』と言った」と言う。そこで、天皇は、自分でも見てみようとして、臣連に命じて、饗宴で装う時のように装い、殿の前へ引き出した。皇后は、上を仰ぎ観て咽び泣いて、さらに、声をあげて泣き悲しんだ。天皇は、「どうしてそんなに泣くのか」と聞いた。皇后は、床から顔を上げて、「この蔦のように巻きついたヒスイは、昔、私の兄の大草香の皇子が、穴穗の天皇の詔勅を受けて、私を陛下に進呈した時に、私の為に献上した物だ。どうしてと、根使主を疑い、知らず知らずに涙が流れ落ちて泣いたのです」と答えた。天皇は、聞いて驚きとても怒った。心の奥底から根の使主を責めた。根の使主は、「死罪です、死罪です。本当に私の罪です」と答えた。「根の使主は、これ以降、子子孫孫、八十代の果てまで連綿と、群臣の例に入れないぞ」と詔勅して、まさに斬ろうとした。それで根の使主は、逃げ隠れて、日根に着いて、稲城を造って待ち伏せて戦った。とうとう官軍に殺された。天皇は、
役人に命じて、二つに子孫を分けて、一方を大草香部の民として、皇后に封じた。もう一方をば茅渟の縣主に与え、袋担ぎの人足にした。それで難波の吉士の日香香の子孫を探して、姓を与えて大草香部の吉士とした。その日香香達の話は、穴穗天皇紀に在る。事が終わってから、小根の使主は、夜寝ころんで人に「天皇の城は堅固でない。私の父の城は堅固だ」と語った。天皇は、人伝にこの話を聞いて、人を派遣して根の使主の宅を見させた。本当にその言葉通りだった。それで、とらえて殺した。根の使主の後裔が坂本臣となったのはここから始まる。】とあり、四月甲午朔は3月30日で3月が小の月なら合致し、正月朔日は標準陰暦と合致している。
ここで、根使主の滅亡が記述してあるのに後裔が坂本臣と何か腑に落ちない記述がなされているが、坂本臣は『古事記』に「木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)」と解説文ではあるが
木角宿祢者の後裔と記述されている。
『古事記』「天津日子根命者(・・・山代國造・・・等之祖也)」、「天菩比命之子建比良邊命(此出雲國造・・・等之祖也)」、『日本書紀』「天津彦根命(是凡川内直山代直等祖也)」、「天穂日命(是出雲臣土師連等祖也)」とあるように、山代直と
山代國造、出雲國造と出雲臣は氏姓と役職の違いで同じことで、木臣は木国造の可能性が高く、根使主は木国造の可能性が高い。
『古事記』の允恭天皇に「定賜天下之八十友緒氏姓」と大量に賜姓し、『日本書紀』では允恭天皇までに延べ128個の氏姓の祖が出現しているが、『古事記』は延べ197個の氏姓の祖が出現し、文字数の断然少ない『古事記』に約70回の祖を多く記述して、雄略天皇の時記述した後、仁賢天皇の時までにそれだけの新たな氏姓を配下にしたことを意味している。
その象徴が建内宿禰の家系の氏姓で、『日本書紀』では「紀直遠祖菟道彦」、「甘美内宿禰・・・仍賜紀伊直等之祖」、「曰木菟宿禰是平群臣之始祖也」だが、『古事記』は「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢(此者山代内臣之祖也)又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」、「波多八代宿祢者(波多臣林臣波美臣星川臣淡海臣長谷部之君之祖也)次許勢小柄宿祢者(許勢臣雀部臣軽部臣之祖也)次蘇賀石河宿祢者(蘇我臣川邊臣田中臣高向臣小治田臣桜井臣岸田臣等之祖也)次平群都久宿祢者(平群臣佐和良臣馬御樴連等祖也)次木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)次久米能摩伊刀比賣次怒能伊呂比賣次葛城長江曽都毗古者(玉手臣的臣生江臣阿藝那臣等之祖也)又若子宿祢(江野財臣之祖)」と雲泥の差の詳細記述である。
すなわち、雄略天皇の時にはまだ紀直や紀伊直、平群臣、坂本臣の氏姓しか無いか、有っても認めていないということで、平群王朝を倒す時にこれらの氏族が協力したことが考えられ、雄略天皇以降、祖の記述無しに記載され、根使主は実際は雄略天皇の後ろ盾だったことが解る。
だから、結果を見れば、雄略天皇の策略で根使主に命じて大草香を排除したが、皇后の手前、根使主は誅殺されたが、子孫は残され、城が天皇の城より立派だったのである。
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