『日本書紀』慶長版は
「六年春二月壬子朔乙卯天皇遊乎泊瀬小野觀山野之體勢慨然興感歌曰舉暮利矩能播都制能野磨播伊底拖智能與慮斯企野磨和斯里底能與盧斯企夜磨能據暮利矩能播都制能夜麼播阿野伱于羅虞波斯阿野伱于羅虞波斯於是名小野曰道小野三月辛巳朔丁亥天皇欲使后妃親桑以勸蠶事爰命蜾蠃聚國內蠶於是蜾蠃誤聚嬰兒奉獻天皇天皇大咲賜嬰兒於蜾蠃曰汝宜自養蜾蠃即養嬰兒於宮墻下仍賜姓爲少子部連夏四月吳國遣使貢獻七年秋七月甲戌朔丙子天皇詔少子部連蜾蠃曰朕欲見三諸岳神之形汝膂力過人自行捉來蜾蠃荅曰試往捉之乃登三諸岳捉取大虵奉示天皇天皇不齋戒其雷虺虺目精赫赫天皇畏蔽目不見却入殿中使放於岳仍改賜名爲雷八月官者吉備弓削部虛空取急歸家吉備下道臣前津屋留使虛空經月不肯聽上京都天皇遣身毛君大夫召焉虛空被召來言前津屋以小女爲天皇人以大女爲巳人競令相鬪見幼女勝即拔刀而殺復以小雄鶏呼爲天皇鶏拔毛剪翼以大雄鶏呼爲己鶏著鈴金距競令鬪之見禿
鶏勝亦拔刀而殺天皇聞是語遣物部兵士三十人誅殺前津屋幷族七十人」
【六年の春二月の朔が壬子の乙卯の日に、天皇は、泊瀬の小野をぶらぶらと楽しんだ。山野の景色を観て、心を奮い起こされ動かされて歌った(略)。そこで、小野を道小野と名付けたという。
三月の朔が辛巳の丁亥の日に、天皇は、后妃を桑になれさせて、蚕の仕事を勧めようとした。そこで蜾蠃に命じて、国内の蚕を集めさせた。ところが、蜾蠃は、誤って嬰児を集めて、天皇に奉献した。天皇は、大笑いして、嬰児を蜾蠃に与えて、「お前が、自分で養いなさい」と言った。蜾蠃は、それで嬰児を宮の囲いのふもとで養った。それで姓を貰って、少子部連とした。夏四月に、呉国が、使者を貢献してよこした。七年の秋七月の朔が甲戌の丙子の日に、天皇は、少子部連の蜾蠃に「私は、三諸山の神の姿を見たい。お前は、腕力が人より優れている。お前が行って連れてきなさい」と詔勅した。蜾蠃は、「試しに行って連れてきましょう」と答えた。それで三諸山に登って、大蛇を取り捕まえて、天皇に見せた。天皇は、体を清めなかった。その雷の鳴りわたり、眼光が赤赤と照り輝いた。天皇は、畏れ慄いて、目を覆ってみることが出来ず、殿中に逃げ入って大蛇を山に放させた。それで改めて雷と名を与えた。八月に、役職が吉備の弓削部の虚空が、取り急ぎ家に帰った。吉備の下道の臣の前津屋が、虚空を領地に留めて使った。月を経るまで京都に登ることを許さなかった。天皇は、身毛の君の大夫を派遣して呼び寄せた。虚空が、呼ばれてやって来て、「前津屋は、小さい女を天皇の代わりにして、大きい女を自分の代わりにして、二人を闘い競わせた。幼い女が勝つのを見ると、即ち刀を拔いて殺す。また小さい雄鷄を、天皇の鷄と呼んで、毛を拔いて翼を切りそろえて、大きい雄鷄を自分の鶏と呼んで、鈴や金物の囲いをして、闘い競せた。毛を抜いて禿た鷄が勝つのを見ては、また刀を拔いて殺した」と言った。天皇は、この話を聞いて、物部の兵士を三十人派遣して、前津屋と共に同族の七十人を誅殺した。】とあり、三月辛巳は標準陰暦と合致し三月辛巳は2月30日で、2月が小の月なら合致する。
崇神天皇の項でのべたように、『宋書』の古歌に「日出東南隅照我秦氏樓 秦氏有好女自名為羅敷 羅敷喜蠶桑采桑城南隅・・・頭上倭墮髻
」と倭風の髻をした楼閣に住む女性が養蚕を行っていると記述し、『梁書』に「嗣王立三年不視國事宋大明二年罽賓國嘗有比丘五人遊行至其國流通佛法經像教令出家風俗遂改」と457年雄略元年の記事が記述されていて、457年以降に使者が来日しないとインドから仏教が入ったなどと言う突拍子も無いことも書けない。
また、『通典』の
邊防二扶桑に「嗣王立三年不視國事自宋孝武帝大明二年」と457年に太子が即位したと雄略天皇を記述し、これらを証明するかのように、462年4月に日本にやってきたが、倭国記事には叙勲記事と上表文記事があるだけだ。
そして、養蚕も『神異經』に「東方有桑樹焉高筏十丈敷張自輔其葉長一丈廣六七尺其上自有蠶作繭長三尺」、『後漢書』に「土宜禾稻麻紵蠶桑知織绩為缣布」、『三国志』に「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」、『晉書』に「其地温暖俗種禾稻紵麻而蠶桑織績」、『梁書』に「至邪馬臺國 即倭王所居 其官有伊支馬 次曰彌馬獲支 次曰奴往 民種禾稻紵麻 蠶桑織績」と前漢時代から行っていると記述され、『三国志』では「四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布」と絹織物を魏に送っている。
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