2020年2月17日月曜日

最終兵器の目 雄略天皇10

 『日本書紀』慶長版は
「九年春二月甲子朔遣凢河內直香賜與采女祠胸方神香賜既至壇所及將行事姧其采女天皇聞之曰詞神祈福可不慎歟乃遣難波日鷹吉士將誅之時香賜退?(逃)亡不在天皇復遣弓削連豊穗普求國郡縣遂於三嶋郡藍原執而斬焉三月天皇欲親伐新羅神戒天皇曰無往也天皇由是不果行勅紀小弓宿祢蘇我韓子宿祢大伴談連小鹿火宿祢等曰新羅自居西土累葉稱臣朝聘無違貢職允濟逮乎朕之王天下投身對馬之外竄跡匝羅之表阻髙麗之貢呑百濟之城況復朝聘既闕貢職莫脩狼子野心飽飛飢附以汝四卿拜爲大將宜以王師薄伐天罰龔行於是紀小弓宿祢使大伴室屋大連憂陳於天皇曰臣雖拙弱敬奉勅矣但今臣婦命過之際莫能視養臣者公冀將此事具陳天皇於是大伴室屋大連具爲陳之天皇聞悲頽歎以吉備上道采女大海賜於紀小弓宿祢爲隨身視養遂推轂以遣焉紀小弓宿祢等即入新羅行屠傍郡新羅王夜聞官軍四面鼓聲知盡得喙地與數百騎馬軍亂走是以大敗小弓宿祢追斬敵將陣中喙地悉定遣衆不下紀小弓宿祢亦收兵與大伴談連等會兵復大振與遣衆戰是夕大伴談連及紀崗前來目連皆力鬪而死談連從人同姓津麻呂後入軍中尋覓其主從軍覔出問曰吾主大伴公何處在也人告之曰汝主等果爲敵手所殺指示屍處津麻呂聞之踏叱曰主既已陷何用獨全因復赴敵同時殞命有頃遣衆自退官軍亦隨而却大將軍紀小弓宿祢値病而薨」
【九年の春二月の甲子が朔の日に、凡河内の直香賜と女官を派遣して、胸方神を祠らせた。香賜は、すでに祭壇に着いて、もう行事の準備をしていた時、その女官を犯した。天皇は、これを聞いて「神を祠って幸運を祈るときは、あやまちがないように気を配らなければならない」と言った。それで難波の日鷹の吉士を派遣して誅殺しようとした。その時、香賜は、どこかに逃げて身を隠して見つからなかった。天皇は、さらに弓削の連の豐穗を派遣して、くまなく国郡縣を探し求めて、とうとう三嶋の郡の藍原で捕えて斬った。三月に、天皇は、親ら新羅を伐とうと思ったが、神が、天皇に「行くな」と戒めた。天皇は、それで、行くことを止めた。それで紀の小弓の宿禰と蘇我の韓子の宿禰と大伴の談のと小鹿火の宿禰達に「新羅は、むかしからずっと西方に居て、幾世代も累々と臣下と呼んでいる。朝見して、物を献ずることに叛くことが無く、職責は十分に成就された。わたしが天下の王となって、(新羅は)身を粉にして、對馬の海の外に船を投入し、絹で包んだ表を改ざんし、高麗の貢献を妨げ、百済の城を侵略した。さらにまして、朝見を既に欠かし、職責を果たしていない。狼の子のような野心が有って、飽いたら飛び去って、飢えたら食いつく。お前たち四卿に、大將の官位をさずける。王者の軍隊として迫って討伐して、天罪をうやうやし行え」と詔勅した。そこで、紀の小弓の宿禰は、大伴の室屋の大連に、天皇が憂えて「臣下の私が、つたなく弱いと言っても、つつしんで詔勅を奉ります。ただし今、私の妻が、死んだので、私の世話をするものが居ません。君よ、出来たらこの事を詳しく天皇に申し立ててほしい」と申し立てた。そこで、大伴の室屋の大連は、詳しく申し立てた。天皇は、それを聞いて嘆き悲しんで、吉備の上道の采女の大海を、紀の小弓の宿禰に与えて、身の周りの世話をさせようと推薦して派遣した。紀の小弓の宿禰達は、それで新羅に入って、行屠傍郡に進軍してその傍らの郡で、家畜を殺してその肉をとるように撃破した。新羅の王は、夜、官軍が四面から鼓の音を立てるのを聞いて、残らず喙の地を盗られたことを知って、数百の騎兵とバラバラに逃げた。これで、大敗した。小弓の宿禰は、追って敵將を陣中で斬った。喙の地がすべて定っても、残軍は投降しなかった。紀の小弓の宿禰は、さらに兵を集めて、大伴の談の連達と会った。軍をまた大きく動かして、残軍と戦った。この夕方、大伴の談の連と紀の岡前の來目の連が、皆、力の限り戦って死んだ。談の連につき従う人で同姓の津麻呂が、後を追って軍中に入って、その主を尋ねて回った。軍の中で見い出せず「私の主の大伴の君は、何処にいるのか」と問いかけた。人が、「お前の主達は、敵の手にかかって殺された」と告げて、屍のある場所を指で示した。津麻呂はそれを聞いて、地団駄を踏んで「主は、既に欠け、 一人で何の働きをまっとうするのか。」と怒鳴った。それでまた敵陣に行って、一緒に命を落とした。しばらくして、残軍は、ばらばらに逃げた。官軍もまた、退却した。大將軍の紀の小弓の宿禰は、病のために薨じた。】とあり、標準陰暦と合致する。
『宋書』に順帝昇明二年に「上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳」と王自ら戦場を駆け巡ったと上表文に記述しているが、雄略天皇は天皇即位前の皇太子でもない時期に自ら戦った時と同じ気持ちで新羅に自ら侵攻しようとしたが、天皇の地位に即位したからには責任があって自らの出撃を諫められているが、倭国王は自ら出撃している。
これは、まさに、倭国と日本の立場の違いを如実に表し、多数の王の中の一人の倭国王、福岡平野以外で使用されない須恵器が示すように、倭王は福岡平野以西の13縣を支配する王と倭国を含む多くの国々を統治する天皇との立場の違いである。
そして、自分の名代は紀氏・蘇我氏・大伴氏・小鹿火氏で平群氏の背景の戦力になり、宗像神が守り神となり、葛城氏は既に現れない。
平群王朝から出現する蘇我氏と宗像神の繋がり、「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸」と17縣の王の倭王が阿知使主、漢直祖阿知使主の子孫の磐井は倭国建国の地粕屋を奪われ、『隋書』で倭国の後裔に俀国と倭国が存在し、蘇我王朝が『舊唐書』で倭国と呼ばれ、そして、蘇我馬子の娘婿「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪」「東漢直駒東漢直磐井子のように、ここから蘇我氏と倭国の繋がりの始まったようだ。

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