『日本書紀』慶長版は
「十五年秦民分散臣連等各隨欲駈使勿委秦造由是秦造酒甚以爲憂而仕於天皇天皇愛寵之詔聚秦民賜於秦酒公公仍領率百八十種勝奉獻庸調御調也絹縑充積朝庭因賜姓曰禹豆麻佐十六年秋七月詔宜桑國縣殖桑又散遷秦民使獻庸調十七年春三月丁丑朔戊寅詔土師連等使進
應盛朝夕御膳清器者於是土師連祖吾笥仍進攝津國來狹狹村山背國內村俯見村伊勢國藤形村及丹波但馬因幡私民部名曰贄土師部冬十月詔聚漢部定其伴造者賜姓曰直十八年秋八月己亥朔戊申遣物部菟代宿祢物部目連以伐伊勢朝日郎朝日郎聞官軍至即逆戰於伊賀青墓自矜能射謂官軍曰朝日郎手誰人可中也其所發箭穿二重甲官軍皆懼菟代宿祢不敢進擊相持二日一夜於是物部目連自執大刀使筑紫聞物部大斧手執楯叱於軍中倶進朝日郎乃遙見而射穿大斧手楯二重甲幷入身肉一寸大斧手以楯翳物部目連目連即獲朝日郎斬之由是菟代宿祢羞
愧不克七日不服命天皇問侍臣曰菟代宿祢何不服命爰有讚岐田?(虫)別進而奏曰菟代宿祢怯也二日一夜之間不能擒執朝日郎而物部目連率筑紫聞物部大斧手獲斬朝日郎矣天皇聞之怒輙奪菟代宿祢所有猪名部賜物部目連」
【十五年に、秦の民を臣連達に分けて、それぞれの求めるまゝに使い、秦の造に委ねなかった。
それで、秦の造の酒は、とても心配しながら、天皇に仕え、天皇は、特別に可愛がった。詔勅して秦の民を集めて、秦の酒公に与えた。公は、それで百八十種の勝を引き連れて、固く絞った絹を奉納物にして奉献し、朝庭にいっぱい積んだ。それで姓を貰って禹豆麻佐と言った。十六年の秋七月に、桑に都合の良い國縣に桑を殖えさせた。又秦の民を散ら遷し作らせて産物を上納させた。冬十月に、「漢部を集めて、その代表者を決めろ」と詔勅した。姓を与えて直いう。十七年の春三月の朔が丁丑の戊寅の日に、土師連達に「朝夕の御膳を盛るけがれの無い器を献上しなさい」と詔勅した。そこで、土師連の祖の吾笥が、摂津国の来狹狹村と、山背の国の内村、俯見の村と、伊勢の国の藤形の村、および丹波・但馬・因播の配下の民達を献上した。贄土師部と名付けた。十八年の秋八年の朔が己亥の戊申の日に、物部の菟代の宿禰・物部の目の連を派遣して、伊勢の朝日郎を伐たせた。朝日郎は、官軍がやってくると聞いて、それで伊賀の青墓で防戦した。自ら上手く弓を射るとほこり、官軍に「朝日郎の腕に、誰があてられるか」と言った。その放つ矢は、二重の鎧を打ちぬく。官軍は、みな、怖じ気づいた。菟代の宿禰は、あえて進軍しないで撃ち合わなかった。相対峙して二日一夜が経った。そこに、物部の目の連が、自分で大刀を手に取り、筑紫の聞の物部の大斧手に、楯を手にして軍中に叫びながら、一緒に進軍した。朝日郎は、遠くから見て、大斧手の楯と二重の鎧を打ちぬいた。そして、3cm位の手傷を負った。大斧手は、楯で物部の目の連を翳して隠した。目の連は、それで朝日郎を獲えて殺した。これで、菟代の宿禰は、自分が勝てなかったことを恥じて、七日間、命に服しなかった。天皇は、侍臣に「菟代の宿禰は、どうして命に服しない」と問いかけた。そこで讚岐の田蟲の別という人がそこに居て、進み出て「菟代の宿禰は、二日一夜の間怯えて、朝日郎を捕虜に出来なかった。それなのに物部の目の連が、筑紫の聞の物部の大斧手を引き連れて、朝日郎を獲えて殺した」と奏上した。天皇は、それを聞いて怒った。それで菟代の宿禰の所有する猪使部を取り上げて、物部の目の連に与えた。】とあり、標準陰暦と合致する。
漢直は神功皇后に「是時俘人等今桑原佐糜高宮忍海凡四邑漢人等之始祖」と新羅の捕虜や漢の工人や呉の工人の集団のように感じるが、新羅人をなぜ漢人と呼ぶのか理由が解らない。
それに対して、応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、履中天皇「時平群木菟宿禰物部大前宿禰漢直祖阿知使主三人啓於太子」と漢直の祖は十七縣を統治する王で、十七縣の漢人を十七縣の王が居るのに勝手に帰属させることなどできない。
すなわち、新羅の捕虜が阿知使主が支配する人たちの配下であり、新羅と戦って捕虜になった人々で、新羅と戦ったのは倭国、従って、阿知使主が倭王ということだ。
倭国は漢の倭奴国王を叙されて、漢の配下の王だったので、倭にいる漢の配下の王で倭漢王、雄略17年に正式に畿内政権の配下になり、倭国は編入され(倭)漢直だ。
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