2020年2月7日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇6

 『日本書紀』慶長版は
五年春二月天皇狡獵于葛城山靈鳥忽來其大如雀尾長曳地而且嗚曰努力努力俄而見逐嗔猪從草中暴出逐人獵徒縁樹大懼天皇詔舍人曰猛獸逢人則止宜逆射而且刺舍人性懦弱縁樹失色五情無主嗔猪直來欲噬天皇天皇用弓刺止舉脚踏殺於是田罷欲斬舍人舍人臨刑而作歌曰野湏瀰斯志倭我餒裒枳瀰能阿蘇磨斯志斯斯能宇拖枳舸斯固瀰倭我尼㝵能裒利志阿理嗚能宇倍能婆利我曳陀阿西嗚皇后聞悲興感止之詔曰皇后不與天皇而顧舍人對曰國人皆謂陛下安野而好獸無乃不可乎今陛下以嗔猪故而斬舍人陛下譬無異於豺狼也天皇乃與皇后上車歸
呼萬歲曰樂哉人皆獵禽獸朕獵得善言而歸夏四月百濟加湏利君飛聞池津媛之所燔殺而籌議曰昔貢女人爲采女而既無禮失我國名自今以後不合貢女乃告其弟軍君曰汝宜往日本以事天皇軍君對曰上君命不可奉違願賜君婦而後奉遺加湏利君則以孕婦既嫁與軍君曰我之孕婦既當産月若於路産冀載一舩隨至何處速令送國遂與辭訣奉遣於朝六月丙戌朔孕婦果如加湏利君言於筑紫各羅嶋産兒仍名此兒曰嶋君於是軍君即以一舩送嶋君於國是爲武寧王百濟人呼此嶋曰主嶋也秋七月軍君入京既而有五子
【五年の春二月に、天皇は、葛城の山で狩をして獲物を比べ合った。不思議な鳥が急にやってきた。その大きさは雀位だった。尾が長くて地面を引きずっていた。しかも声が、「ゆめゆめ(つつしめつつしめ)」と鳴く。にわかに、追い払われて怒った猪が、草の中から暴れ出てきて人を追い払う。狩りの人は、樹に影に隠れてとてもびくついた。天皇は、護衛に「猛々しい獣も人に逢うと、おとなしくなる。撃ち返してさらに刺し殺せ」と詔勅した。護衛は、性格は意気地がなく弱々しくて、樹の陰で、気落ちして、心ここに有らずだった。怒った猪は、すぐにやって来て、天皇に噛みついた。天皇は、弓で刺し殺して、さらに脚で蹴り踏み殺した。そして、田を出て、護衛を斬ろうとした。護衛は、処刑されそうになって、歌を作った()皇后が、それを聞いて悲しみ、心を動かされて止めた。「皇后は天皇に組せず、護衛を心にかける」と詔勅した。「国中の人は皆、陛下を称して、野生の獣を好んで押さえつけるのも良くないが、今、陛下は、噛む猪がいるから、護衛を斬った。陛下は、喩えていえば、むごいことをする人に違いない」と答えた。天皇は、それで皇后と車で帰った。「萬歳」と叫んで、「何と楽しい。人は皆禽や獣を狩る。私は狩りで善い言葉を得て帰る」と言った。夏四月に、百済の加須利君が噂で池津媛が焼き殺されたと聞いて、何回も話し合って「昔、女人を貢いで女官にした。それなのにもう何の断りもなく、我が国からの貢ぎの証しが無くなってしまった。これからは、女を貢げない」と言った。それでその弟の将軍に「お前は、日本に行って天皇にこの事を言ってきなさい」と言った。将軍は「あなたの命令を間違えたくありません。出来ましたら、あなたの婦人をいただいてから奉遣したい」と答えた。加須利君は、それで妊娠した婦人を、将軍に嫁がせて、「私の子を妊娠した夫人は、すでに産月になっている。もし途中で産んだら、出来たら同じ船に乗せて、何処に行こうと一緒に行き、すみやかに国に送りなさい」と言った。そして、互いに別れの挨拶をして、朝廷にに奉遣した。六月の朔の丙戌に、妊娠した婦人が、やはり加須利君の言うとおり、筑紫の各羅の嶋で子が産まれた。それでこの子を嶋君と名付けたという。そこで、将軍は同じ船で、嶋君を国に送った。これを武寧王という。百済人は、この嶋を主嶋と呼んだという。秋七月に、将軍は、京に入った。すでに五人の子がいた。】とあり、標準陰暦と合致する。
加須利君を『日本書紀』は盖鹵王と想定し、盖鹵王の弟が崑攴君で義理の子が武寧王としているが、『三国史記』では「蓋鹵王或云近蓋婁諱慶司毗有王之長子」、「文周王或作汶洲蓋鹵王之子也」、「三斤王或云壬乞文周王之長子」、「東城王諱牟大或作摩牟文周王弟昆支之子」、「武寧王諱斯摩或云隆牟大王之第二子也」と盖鹵王の長子の文周王の弟が崑攴で、武寧王は東城王の子となっている。
この相違は、日本の観点と朝鮮の観点の違いによる相違と思われ、『日本書紀』を検証してきたとおり、日本では長男は親子が一心同体で、『三国史記』では個々の王が日本から見れば同じ王で、蓋鹵王・文周王・三斤王は同じ加須利君で、東城王は弟軍君ではなく王となるのだから別名で、斯摩は実際のところ文周王の子となる。
『日本書紀』どおりに461年に武寧王が生まれたとすれば、父東城王は20歳以上で「末多王幼年聰明」は幼年ではなくなり、常識的に考えれば、461年に生まれたのは東城王で、本来20歳以上が王位継承年齢だが、19歳とまだ年少だったということで、その子の武寧王が人質として残され、東城王の長男なので「諱斯摩」が襲名されたと考えれば理に適う。
すなわち、『日本書紀』は父と長男は一心同体で同名という特殊なシステムを取っていたことがここでも証明されるのである。
百済も東城王や武寧王が20歳前後に即位しているので、20数年の在位でも40代前半の若死で聖王も30年在位しても50歳程度、威徳王は40年以上在位して長命だったので、次の弟恵王もその子の法王も短期の政権だった。

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