2020年2月14日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇9

 『日本書紀』慶長版は
「八年春二月遣身狹村主青檜隈民使博德使於吳國自天皇即位至于是歲新羅國背誕苞苴不入於今八年而大懼中國之心脩好於髙麗由是髙麗王遣精兵一百人守新羅有頃髙麗軍士一人取假歸國時以新羅人爲典馬而顧謂之曰汝國爲吾國所破非久矣其典馬聞之陽患其腹退而在後遂逃入國說其所語於是新羅王乃知髙麗僞守遣使馳告國人曰人殺家內所養鶏之雄者國人知意盡殺國內所有髙麗人惟有遣髙麗一人乗間得脱逃入其國皆具爲說之髙麗王即發軍兵屯聚筑足流城遂歌舞興樂於是新羅王夜聞髙麗軍四面歌舞知賊盡入新羅地乃使人於任那王曰髙麗王征伐我國當此之時若綴旒然國之危殆過於累卵命之脩短大所不計伏請救於日本府行軍元帥等由是任那王勸膳臣斑鳩吉備臣小梨難波吉士赤目子往救新羅膳臣等未至營止髙麗諸將未與膳臣等相戰皆怖膳臣等乃自力勞軍令軍中促爲攻具急進攻之與髙麗相守十餘日乃夜鑿險爲地道悉過輜車設奇兵會明髙麗謂膳臣等爲遁也悉軍來追乃縱奇兵步騎夾攻大破之二國之怨自此而生膳臣等謂新羅曰汝以至弱當至強官軍不救必爲所乗將成人地殆於此役自今以後豈背天朝也」
【八年の春二月に、身狹の村主の青と桧隈の民使の博徳を呉国に使者として派遣した。天皇に即位してから、この歳になるまで、新羅国は、背いてでたらめを言いい、土地の産物が日本に入らないことが八年になった。それでいて、なか国の怒りを大変恐れて、高麗とよしみを通じた。これで、高麗王は、精兵を百人派遣して新羅を守った。しばらくして、高麗の軍士が一人、暇を取って国に帰った。その時、新羅の人を馬の世話役にした。それで「お前の国は、私の国に破れるのは遠くない」と周りを見回して言った。その馬の世話役は、聞いて、腹が病んだ真似をして、後方に後ずさりした。そして国に逃げ帰って、その語った事を説いた。そこで、新羅王は、高麗が偽って守るふりをしていたことを知って、使者を派遣して馬で国中の人に、「家中に養う鷄の雄を殺せ」と告げて回った。国中の人は、真意を知って、残らず国中に居る高麗人を殺した。ここに生き残った高麗人の一人が、隙に乗じて脱出することが出来て、高麗に逃げ帰って、全てを詳しく説明した。高麗王は、それで軍を起こして、筑足流城に集まった。そして、舞い歌って軍楽隊を起こした。ここで、新羅王は、夜に、高麗の軍が四方取り囲んで歌い舞うのを聞いて、賊がの残らず新羅の土地に入ったことを知った。それで任那の王のもとに使者を送って、「高麗王が、我が国を攻撃した。この時に、吹き流しが風に吹かれるようだった。国のあやうさは、卵をブツケ合って割るよりも危うかった。命の長短は、大きな視野でも測れない。日本府の元師等を引き連れて救ってもらえることを土下座してお願いします」と言った。これで、任那王と膳の臣の斑鳩と吉備の臣の小梨と難波の吉士の赤目子とを繰り返し、新羅を救いに行かせた。膳の臣達はまだ着く前で野営してとどまった。高麗の諸將は、まだ膳の臣達と対戦しないで皆、怖れた。膳の臣達はそれで自分の力で軍衆を労った。軍中に命じて、せきたてて攻撃する準備をし、急いで進軍して攻撃した。高麗と相対すること十日余の後、夜、急峻な穴を掘って、地下道を造り、兵糧を運ぶ車をのこらずそのままにして、急襲する部隊を編成した。夜明けに、高麗は、膳の臣達が何かに身をかくして逃げたと言った。軍隊がのこらずやって来て敵軍を追った。それで急襲する部隊を、歩兵と騎兵を挟撃して、大破した。二国の怨はここから始まった。膳の臣達は、新羅に「お前は、弱いくせに強い相手と戦った。官軍が救わなかったら、きっとつけこまれた。この戦いで危うく人の土地に成るところだった。これ以後、朝廷に決して叛いてはならない」と言った。】とある。
前項の『三国史記』の412年實聖尼師今十一年に「以奈勿王子卜好質於高句麗」 、418年訥祇麻立干二年に「春正月親謁始祖廟王弟卜好自高句麗與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還」424年年訥祇麻立干八年「春二月遣使高句麗修聘」、高句麗長壽王十二年「春二月新羅遣使修聘王勞慰之特厚」、450年訥祇麻立干三十四年に「秋七月高句麗邊將獵於悉直之原何瑟羅城主三直出兵掩殺之麗王聞之怒使來告曰孤與大王修好至歡也今出兵殺我邊將是何義耶乃興師侵我西邊王卑辭謝之乃歸」、高句麗長壽王三十八年「新羅人襲殺邊將王怒將擧兵討之 羅王遣使謝罪乃止」 とある。

高句麗に裏切られた説話は464年の話ではなく、新羅を叱ったのが464年で、話は450年よりも前で、雄略天皇になって8年で、それより以前の416年から朝貢が滞っていて、414年允恭天皇三年に「遺使求良醫於新羅」以降453年允恭天皇四二年まで国交が記述されていない。
すなわち、新羅は412年に高句麗と友好を結び、414年に日本と絶縁し、418年倭国とも絶縁していたが450年に高句麗と対立関係になった。
そして、453年に新羅が泣きついてきた時に丁度允恭天皇が崩じ、454年高句麗 長壽王 四十二年「秋七月遣兵侵新羅北邊」、新羅訥祇麻立干三十八年に「八月高句麗侵北邊」と高句麗が侵略してきたので、日本が配下の百済とともに新羅と同盟して、455年訥祇麻立干三十九年には「冬十月高句麗侵百濟王遣兵救之」と記述され、新羅を救っている。
しかし、459年百済蓋鹵王十五年「秋八月遣將侵高句麗南鄙」まで戦いが記述されず、455年の戦いは日本と新羅が主体の戦いと思われる。 

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