『日本書紀』慶長版は
「是歲吉備上道臣田狹侍於殿側盛稱稚媛於朋友曰天下麗人莫若吾婦茂矣綽矣諸好備矣曄矣温矣種相足矣鈆花弗御蘭澤無加曠世罕儔當時獨秀者也天皇傾耳遙聽而心悅焉便欲自求稚
媛爲女御拜田狹爲任那國司俄而天皇幸稚媛田狹臣娶稚媛而生兄君弟君田狹既之任所聞天皇之幸其婦思欲求援而入新羅于時新羅不事中國天皇詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰汝冝往罰新羅於是西漢才伎歡因知利在側乃進而奏曰巧於奴者多在韓國可召而使天皇詔群臣曰然則宜以歡因知利副弟君等取道於百濟幷下勅書令獻巧者於是弟君銜命卒衆行到百濟而入其國國神化爲老女忽然逢路弟君就訪國之遠近老女報言復行一日而後可到弟君自思路遠不伐而還集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中託稱候風淹留數月任那國司田狹臣乃喜弟君不伐而還密使人於百濟戒弟君曰汝之領項有何窂錮而伐人乎傳聞天皇幸吾婦遂有兒息今恐禍及於身可蹻足待吾兒汝者跨據百濟勿使通於日本吾者據有任那亦勿通於日本弟君之婦樟媛國家情深君臣義切忠踰白日節冠青松惡斯謀叛盜殺其夫隱埋室內乃與海部直赤尾將百濟所獻手末才伎在大嶋天皇聞弟君不在遣日鷹吉士堅磐固安錢使共復命遂即安置於倭國吾礪廣津邑而病死者衆由是天皇詔大伴大連室屋命東漢直掬以新漢陶部髙貴鞍部堅貴畫部因斯羅我錦部定安那錦譯語卯安那等遷居于上桃原下桃原真神原三所」
【この歳、吉備の上道の臣の田狹が、大御殿の側で仕えて、盛んにに稚媛を朋友に自慢して「天下の麗人で、私の妻に勝るものが無い。才能や徳などがすぐれてりっぱで落ち着いてゆとりがあって、いろんな好いところが備わっている。輝かしくて心温まり、見栄えがよい。鉛花(化粧?)もつくろわず、匂いも(蘭澤:フジバカマ。芳香のある植物を意味)も足すことが無い。広い世間でもたぐいまれだ。現代にたった一人の秀でた者だ」と褒めた。天皇は、耳を傾けて遠くで聞いて、好きになってしまった。それでどんどん稚媛を寝所に仕えさせたくなった。田狹を拝み倒して、任那の国司にした。しばらくして、天皇は、稚媛を寵愛した。田狹の臣は、稚媛を娶って、兄君と弟君を生んだ。田狹は、すでに任所にあって、天皇が、その婦人を寵愛していることを聞いて、援軍を求めて新羅に行こうと思った。そのとき、新羅は、「なか国」に仕えておらず、天皇は、田狹の臣の子の弟君と吉備の海部の直の赤尾とに「お前たち、新羅に行って討伐しなさい」と詔勅した。そこで、西の漢の渡来人の歡因知利が近くに居た。それで「私より技術が上の者が、多く韓国にいます。招集して使うべきだ」と進み出て奏上した。天皇は、臣下に「それなら、歡因知利を、弟君達につかせて、行先を百済にして、一緒に勅書を下して、技術者を献上させなさい」と詔勅した。そこで、弟君は、承り、大ぜいの人を引き連れて、その国に入った。国神が、老女に化けて、突然道に現れた。弟君は、近づいて国が遠いか近いかを聞いた。老女は、「一日行くと着きます」と答えた。弟君は、路が遠いことに気が付いて、伐たないで還った。百済が貢いだ新しく来た技術者を大嶋の中に集めて、
風向きを見て、数か月留まり続けた。任那の国司の田狹の臣は、それで弟君が自分を伐たないで還ることを喜んで、密かに百済に使者を派遣して、弟君に「お前の襟頚が、どんなに固く守られていても、誰かがお前を討伐する。天皇は、私の妻を寵愛して、とうとう子供ができたと人づてに聞いた。今、恐れているのは、禍が身に及ぶことで、踏みつぶす準備をして待っていなさい。わが子のお前は、百済を拠点に日本と双方で行き来している。わたしは、任那に拠点にしているが、日本には行けない」と戒めた。弟君の婦人の樟媛は、国家を思う気持ちが深く、君臣の義を大切にしていた。忠義の心も昼日中を越えて1日中忘れることが無く、松が青々と茂る季節も越えるくらいだ。この謀反に怒り、密かにその夫を殺して、寝室の内に隱して埋め、それで海部の直の赤尾と一緒に百済が献上した物を造る技術者を連れて、大嶋にいた。天皇は、弟君の不在を聞いて、日鷹の吉士の堅磐固安錢を派遣して、一緒に復命させた。それで倭国の吾砺の廣津邑に置いた。病んで死んだ者が多かった。それで、天皇は、大伴の大連の室屋に東の漢の直の掬に命じて、新しく来た漢の陶部の高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等を、上桃原・下桃原・眞神原の三所に遷して居住させた。】とある。
新羅を攻撃した建内の宿禰の王朝の分家のため、平群王朝も新羅とは倭国ほどではないが、倭国は「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と日本の配下となった国であるので、『三国史記』の345年訖解尼師今三十六年「二月倭王移書絶交」と共に当然疎遠となるのは仕方がない。
しかし、412年實聖尼師今十一年に「以奈勿王子卜好質於高句麗」と高句麗と友好関係になると、414年允恭天皇三年に「遺使求良醫於新羅」と日本より上の立場で国交を再開したが、450年訥祇麻立干三十四年に「秋七月高句麗邊將獵於悉直之原何瑟羅城主三直出兵掩殺之麗王聞之怒使來告曰孤與大王修好至歡也今出兵殺我邊將是何義耶乃興師侵我西邊王卑辭謝之乃歸」と対高句麗に劣勢にり、453年允恭天皇四二年に「於是新羅人大恨更減貢上之物色及船數」と日本が上位の立場に立った。
その原因は、新羅は463年慈悲麻立干六年に「春二月倭人侵歃良城不克而去王命伐智・德智領兵伏候於路要擊大敗之王以倭人侵疆埸緣邊築二城」と倭国との戦いで疲弊したことに乗じたからである。
また、稚媛は「次有吉備上道臣女稚媛生二男長曰磐城皇子少曰星川稚宮皇子」と上道臣の女と記述されるが、『日本書紀』記述時に「玉田宿禰之女也」と親が異なっているが、ここでも、長女は一心同体の人物とする表現を示していて、実際は玉田宿禰の孫で、それならば、韓媛と同世代となって雄略天皇の妃にふさわしい。
東漢直掬が使われているが賜姓されず、倭漢直祖阿知使主を記述した時期と雄略天皇を記述した時期が異なることからくる誤記か描き分けたのか解らないが、履中天皇までは応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主」、履中天皇即位前紀「漢直祖阿知使主」倭漢直や漢直で、雄略天皇以降、雄略天皇七年「天皇詔大伴大連室屋命東漢直掬」、崇峻天皇五年「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」と東漢直、推古天皇から推古天皇十六年「遣於唐國學生倭漢直福因」、斉明天皇五年「便東漢長直阿利麻」と併用になっている。
「東漢直駒東漢直磐井子也」と筑紫国造磐井が東漢直なのだから、糟屋郡の王者が東漢直で筑紫君葛子が君に出世したため、筑紫君が任命した縣主が漢直ということになる。
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