2020年2月21日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇12

 『日本書紀』慶長版は
十年秋九月乙酉朔戊子身狹村主青將吴所獻二鵝到於筑紫是鵝爲水間君犬所囓死由是水間君恐怖憂愁不能自默獻鴻十?(俟・隻)與養鳥人請以贖罪天皇許焉冬十月乙卯朔辛酉以水間君所獻養鳥人等安置於輕村磐余村二所十一年夏五月辛亥朔近江國栗太郡言白鸕鷀居于谷上濱因詔置川瀬舍人秋七月有從百濟國逃化來者自稱名曰貴信又稱貴信吴國人也磐余吳琴彈壃手屋形麻呂等是其後也冬十月鳥官之禽爲菟田人狗所囓死天皇瞋黥面而爲鳥養部於是信濃國直丁與武藏國直丁侍宿相謂曰嗟乎我國積鳥之髙同於小墓旦暮而食尚有其餘今天皇由一鳥之故而黥人面太無道理惡行之主也天皇聞而使聚積之直丁等不能忽備仍詔爲鳥養部
十二年夏四月丙子朔己卯身狹村主青與檜隈民使博德出使于吴冬十月癸酉朔壬午天皇命木工鬪鶏御田始起樓閣於是御田登樓疾走四方有若飛行時有伊勢采女仰觀樓上恠彼疾行顚仆於庭覆所擎饌天皇便疑御田姧其采女自念將刑而付物部時秦酒公侍坐欲以琴聲使悟於天皇横琴彈曰柯武柯噬能伊制能伊制能奴能娑柯曳鳴伊裒甫流柯枳底志我都矩屢麻泥爾飫裒枳瀰爾柯?()倶都柯陪麻都羅武騰倭我伊能致謀那我倶母鵝騰伊比志?()倶弥皤夜阿?(拕羅陀倶弥皤夜於是天皇悟琴聲而赦其罪
【十年の秋九月の朔が乙酉の戊子の日に、身狹村主の青達は、呉が献上したつがいのシナガチョウを持って、筑紫に着いた。このシナガチョウが、水間の君の犬に噛み殺された。それで、水間の君は、恐れ憂いて、一人で黙っていることが出来ず、おおとり十つがいと鳥を養う人とを献上して、罪を贖うことを願った。天皇は、許した。冬十月の朔が乙卯の辛酉の日に、水間の君が献上した鳥を養う人達を、輕の村と磐余の村の二ヶ所に置いた。十一年の夏五月の辛亥が朔の日に、近江の国の栗太の郡が「白い鵜が、谷上の濱にいる」と言った。それで詔勅で川瀬の護衛を置いた。秋七月に、百済の国から逃げて来た者がいた。自ら貴信と名乗った。また、貴信は呉の国の人と名のったという。磐余の呉風の琴彈の壃手の屋形麻呂達は、その後裔だ。冬十月に、鳥の官の鶏が、菟田の人の犬に噛み殺された。天皇は怒って、顔に入れ墨をして鳥養部にした。そこで、信濃の国の雑役夫と武藏の国の雑役夫とが、寝所近くで警護していた。お互いに「ああ、わが国に群がる鳥は、小さい墓と同じくらいまで群がる。明日の夜まで食べても、まだ余ってしまう。今回、天皇は、一羽の鳥のために、人の顔に入れ墨をした。はなはだしく道理をわきまえていない。人の道に外れた悪い行いの主だ」と語り合った。天皇はそれを聞いて、雑役夫を集めた。雑役夫達は、すぐに護衛をする必要が無いと、詔勅して鳥養部にしてしまった。十二年の夏四月の朔が丙子の己卯の日に、身狹の村主の青と桧の隈の民使の博徳とを、呉に派遣した。冬十月の朔が癸酉の壬午の日に、天皇は、木工技術者の鬪鷄の御田に命令して、はじめて樓閣を造った。そこで、御田が、やぐらに登ると、四面に疾走し、飛んで行くような気がした。その時に伊勢の采女がいて、やぐら上を仰ぎ観て、その素早く行くのを怪しんで、庭に転んで倒れ、手に持った食べ物をこぼしてしまった。天皇は、すぐに天皇の田に、入って盗もうとしていると疑って、処刑しようと思って、物部に付託した。その時、秦の酒の公が、近くに待機していた。琴の音で、天皇に気づかせようと思った。琴を横にして彈いて()。天皇は、琴で弾き語りする声で気が付いて、その罪を赦した。】とあり、標準陰暦と合致する。
これまで、歌に関しては主観が入りすぎるため略してきたが、ここで少々触れようと思う。
琴彈曰『柯武柯噬能伊制能・・・』」と「神風の伊勢の」を分析してみよう。
『日本書紀』垂仁天皇二五年に「倭姫命爰倭姫命求鎮坐大神之處而詣菟田筱幡更還之入近江國東廻美濃到伊勢國時天照大神誨倭姫命曰是神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也傍國可怜國也」と記述され、垂仁天皇の項で伊勢に近い菟田から近江・美濃の遠回りは奇妙で名張や伊賀を通ったほうが近い。
近江の伊勢神宮、そして皇大神宮の分布から福知山・敦賀にも、美濃の安八郡にも皇大神宮が有り、日本海が出発点と述べたが、『日本書紀』の安康天皇までを雄略天皇が記述したことをふまえると、菟田は宇迦の可能性が高く、それで、筱幡「ささはた」を調べてもそれらしい地名が見つからなかったが、「ささはた(佐々畑)さん」という苗字が島根県に偏在すると「なまえさあち」に記載されていた。
宇迦は「なか国」の首都で、常世の国は橘を求めて常世の国から持ち込んだが、在来の橘は古くから自生しており、異なる種に高麗橘が萩市に自生しており、原産地は済州島で、常世の国は済州島の可能性が高い。
そして、萩市は常世の波が幾重もやってくる場所だから、萩市にある、すなわち、傍國が萩市で、その隣が可怜國で「なか国」、その都が太柱が立つ宇迦の地で、大国主の子の事代主が大和の地を支配していたが、その国が「東鯷国(神国)」だった。
そして、「六合」は黄海から日本海をつなぐ「天」がつく島々のある地域、神が生まれる地域で、そこから宇迦の土地に風が吹き、神風と言われたのであり、宇迦にあった伊勢神宮が分朝廷のある近江に移り、尾張氏も美濃に伊勢神宮を遷し、雄略天皇が三重県の伊勢に遷したと考えた方が合理的である。
神武天皇が「伽牟伽筮能伊齊能于瀰能」と歌ったのは道臣が活躍した戦いで、その配下に久米の兵がいて、その後裔の大伴氏は足仲彦に賜姓され、やはり「なか国」の豪族である。
そして、その足仲彦の父の倭武が伊勢を出発しているが、文脈からみると、近江の伊勢と思われ、その倭武は倭姫から草薙劒を渡されており、倭姫説話は足仲彦説話の1世代前の話だったことになり、足仲彦の子が390年くらいに即位した応神天皇で、伊勢神宮はその時代まで近江に存在した。
そして、神功皇后が「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神」と足仲彦の皇后で敦賀を宮(皇大神宮?)にしていた姫が伊勢を述べているのであるから、やはり、近江の可能性が高く、「與稚足姫皇女是皇女侍伊勢大神祠」と「若国」を支配する姫が伊勢神宮に仕え、稚足彦は「近江國居志賀」と近江の支配者だった。
すなわち、伊勢神宮を三重の伊勢に遷したのは二代目雄略天皇の娘の栲幡娘姫皇女がその最初だったのだろう。

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