2020年2月19日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇11

 『日本書紀』慶長版は
夏五月紀大磐宿祢聞父既薨乃向新羅執小鹿火宿祢所掌兵馬舩官及諸小官專用威命於是小鹿火宿祢深怨乎大磐宿祢乃詐告於韓子宿祢曰大磐宿祢謂僕曰我當復執韓子宿祢所掌之官不久也願固守之由是韓子宿祢與大磐宿祢有隙於是百濟王聞日本諸將縁小事有隙乃使人於韓子宿祢等曰欲觀國堺請垂降臨是以韓子宿祢等並轡而往及至於河大磐宿祢飲馬於河是時韓子宿祢從後而射大磐宿祢鞍瓦後橋大磐宿祢愕然反視射墮韓子宿祢於中流而死是三臣由前相競行亂於道不及百濟王宮而却還矣於是采女大海從小弓宿祢喪到來日本遂憂諮於大伴室屋大連曰妾不知葬所願占良地大連即爲奏之天皇勅大連曰大將軍紀小弓宿祢龍驤虎視旁?(眺)八維掩討逆節折衝四海然則身勞萬里命墜三韓冝致哀?()?()視葬者又汝大伴卿與紀卿等同國近隣之人由來尚矣於是大連奉勅使土師連小鳥作冢墓於田身輪邑而葬之也由是大海欣悅不能自默以韓奴室兄麿弟麿御倉小倉針六口送大連吉備上道蚊嶋田邑家人部是也別小鹿火宿祢從紀小弓宿祢喪來時獨留角國使倭子連奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰僕不堪共紀卿奉事天朝故請留住角國是以大連爲奏於天皇使留居于角國是角臣等初居角國而名角臣自此始也秋七月壬辰朔河內國言飛鳥戸郡人田邊史伯孫女者古市郡人書首加龍之妻也伯孫聞女産兒往賀聟家而月夜還於蓬蔂丘譽田陵下逢騎赤駿者其馬時濩略而龍翥欻聳擢而鴻驚異體峯生殊相逸發伯孫就視而心欲之乃鞭所乗驄馬齊頭並轡爾乃赤駿超攄絁於埃塵驅驅騖迅於滅沒於是驄馬後而怠足不可復追其乗駿者知伯孫所欲仍停換馬相辭取別伯孫得駿甚歡驟而入廐解鞍秣馬眠之其明旦赤駿變爲土馬伯孫心異之還覔譽田陵乃見驄馬在於土馬之間取而代而置所換土馬
【夏五月に、紀の大磐の宿禰は、父が既に薨じたと聞いて、新羅に向って、小鹿火の宿禰の兵馬と船官および諸々の家来を使って、大磐だけのために従わせた。そこで、小鹿火の宿禰は、根深く大磐の宿禰を怨んだ。それで詐して韓子の宿禰に「大磐の宿禰は、私に『私は、絶対に韓子の宿禰の配下の役人を使うことは無い』といった。できたら、堅固に守りなさい」と言った。それで、韓子の宿禰と大磐の宿禰に仲たがいが出来た。百済の王が、日本の諸將が、小さな事で仲違いしたと聞いた。それで人を韓子の宿禰達のもとに派遣して、「国の境界を見せたい。馬に乗ってきて降りてみてください」と言った。そこで、韓子の宿禰達は、轡を並べて赴いた。河に着いて、大磐の宿禰が、馬で河に行き水を飲んだ。この時に、韓子の宿禰は、後から大磐の宿禰の騎坐の後橋を射た。大磐の宿禰は、おどろいて振り返って、韓子の宿禰を射おとし、中流で死んだ。この三人の臣は、昔から競い合っていて、違う道を行進して、百済王の宮に行かないで帰った。そこで、采女の大海は、小弓の宿禰の喪に従って、日本に帰ってきた。それで大伴の室屋の大連に憂いて「私は、葬むる所を知らない。できたらよい所を占ってください」と頼んだ。大連は、すなわち大海の為に奏上した。天皇は、大連に「大將軍の紀の小弓の宿禰は、龍のように速く走り虎ように眼光鋭く、八方を纏めて眺める。時流に逆らう者を襲い討って、四つの海を股にかける。それで萬里の地に身を置いて力を尽くしてはたらき、三韓の地に命を堕とした。かなしんであわれみ、葬礼を担当する者をあてがおう。また大伴卿よ、紀卿達と、同じ国で近隣の者なのだから、繋がりが長い」と詔勅した。それで、大連は、詔勅を受けて、土師の連の小鳥が、冢墓を田身輪の邑に作り、葬った。これで、大海は、よろこんで、默っていることが出来ず、韓の奴の室と兄麻呂と弟麻呂と御倉と小倉と針の、六人を大連に送った。吉備の上道の蚊嶋田の邑の家人部が、これだ。別に小鹿火の宿禰が、紀の小弓の宿禰の喪のために帰ってきた。その時に一人で角國に留まった。倭子の連に八咫鏡をもたせて大伴の大連に奉上して、祈って「私は、紀の卿と一緒に天朝に奉職することに堪えられない。それでお願いします。角國に留り住わせ手ほしい」と願った。それで、大連は、その為に天皇に奏上して、角國に留り住まわせた。この角臣達は、最初、角國に居た。この時から角臣と名付けられた。秋七月の壬辰が朔の日に、河内の国が、「飛鳥戸の郡の人で田邊の史の伯孫の娘が、古市の郡の人で書の首の加龍の妻だ。伯孫の娘が、兒を産んだと聞いて、婿の家へ喜びの祝いに行って、月夜に帰った。蓬蔂の丘の誉田の陵の麓に、赤い駿馬に騎上する者に逢った。その馬は、時に雨だれのように軽やかに走り、龍のように勢いよく飛び、にわかに高く抜きんでて、おおとりのように驚かす。奇妙な体は刀のようで、特にすぐれた顔は世に知られていなかったがいまやっとわかった。伯孫は、近づいてみて、心から欲しいと思った。それで乗った葦毛の馬に鞭打って、頭を揃えて轡を並べた。それで、赤い駿馬は、拡げた太絹を飛び越えて塵を巻き上げて走りに走り、素早く駆け回り、見えなくなった。そして、葦毛の馬は遅れ、力のない走りで追いつけなかった。その駿馬に乗った者は、伯孫の願いを知って、停まって馬を取り換えて、挨拶を交わして別れた。伯孫は、駿馬を得て甚だ歓んで、走らせて廐に入った。鞍を降ろして馬にわらを引いて眠た。翌朝、赤い駿馬は、土馬に変わっていた。伯孫は、心から奇妙に思い、譽田の陵に戻って馬を探したが、葦毛の馬が土馬の間に見つけた。取り代えて、代わりに土馬を置いた」という。】とある。
『古事記』に「木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)」と注釈で木角は木臣都奴臣の祖と記述され、仁賢天皇の時代には都奴臣が賜姓されていたことを示している。
木国は『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内の宿禰のより以前、平群の氏を賜姓される前からの領地で、角鹿は神功皇后の都があった場所で、小鹿火が気ままに滞在し、雄略天皇が気ままに領地を与えていることから平群王朝の力の源泉であったようだ。
誉田陵で化けて出た亡霊の主が310年に崩じた応神天皇では465年現在の150年以上も前の亡霊でいかにも頓珍漢である。
もし、応神天皇の「廿五年百濟直支王薨即子久爾辛立爲王」が420年、396年が元年の応神天皇の44年、439年に死亡した応神天皇誉田の墓なら26年後、この一つの王朝は応神天皇が2・3代が襲名している。
合理的に考えれば允恭天皇も追葬され453年で13年後、巨大な前方後円墳が完成するのに10年以上、仁徳陵は20年かかっているので、葛城王家の為の前方後円墳も墓として造ったのなら13年後でまだ完成されていない誉田陵の亡霊、すなわち允恭天皇の亡霊で、葛城王朝の後継者を皆殺しにした亡霊を皆が恐れたとすれば、非常に理に適う。

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