2020年2月5日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇5

 『日本書紀』慶長版は
三年夏四月阿閇臣國見譖𣑥幡皇女與湯人廬城部連武彥曰武彥汙皇女而使任身武彥之父枳莒喩聞此流言恐禍及身誘卒武彥於廬城河偽使鸕鷀沒水捕魚因其不意而打殺之天皇聞遣使者案問皇女皇女對言妾不識也俄而皇女齎持神鏡詣於五十鈴河上伺人不行埋鏡經死天皇疑皇女不在恒使闇夜東求西覓乃於河上虹見如虵四五丈者掘虹起處而獲神鏡移行未遠得皇女
屍割而觀之腹中有物如水水中有石枳莒喩由斯得雪子罪還悔殺子報殺國見逃匿石上神宮四年春二月天皇射獵於葛城山忽見長人來望丹谷面貌容儀相似天皇天皇知是神猶故問曰何處公也長人對曰現人之神先稱王諱然後應噵天皇荅曰朕是幼武尊也長人次稱曰僕是一事主神也遂與盤于遊田駈逐一鹿相辭發箭並轡馳騁言詞恭恪有若逢仙於是日晩田罷神侍送天皇至來目水是時百姓咸言有德天皇也秋八月辛卯朔戊申行幸吉野宮庚戌幸于河上小野命虞人駈獸欲躬射而待虻疾飛來噆天皇臂於是蜻蛉忽然飛來囓蝱將去天皇嘉厥有心詔群臣曰爲朕讚蜻蛉歌賦之群臣莫能敢賦者天皇乃口號曰野磨等能嗚武羅能陀該伱之之符湏登拖例柯舉能居登飫裒磨陛伱麻嗚湏餒裒枳瀰簸賦據嗚枳舸斯題拖磨磨枳能阿娯羅伱陀陀伺施都魔枳能阿娯羅伱陀陀伺斯斯魔都登倭我伊麻西磨佐謂麻都登倭我陀陀西磨陀倶符羅爾阿武柯枳都枳都曽能阿武嗚婀枳豆波野倶譬波賦武志謀餒裒枳瀰伱磨都羅符儺我柯陀播於柯武婀岐豆斯麻野麻登因讚蜻蛉名此地爲蜻蛉野
【三年の夏四月に、阿閉の臣の國見が、栲幡皇女と湯人の廬城部の連の武彦とをそしって「武彦が、皇女を汚して妊娠させた」と言った。武彦の父の枳莒喩が、この根拠の無いうわさを聞いて、禍いが身に及ぶことを恐れた。武彦を廬城河に誘い従えて、偽って鵜を水中に潜らせて獲物の魚を捕らせ、それで不意に打ちで殺した。天皇は、聞いて使者を派遣して、皇女に考えを問いただした。皇女は、「私は、知らない」と答えた。急に皇女が、神鏡を持ち出して、五十鈴の河辺に出かけて、人が歩き回らないのを伺って、鏡を埋めて首をくくって死んだ。天皇は、皇女が居ないのを疑って、いつまでも闇夜の中を右往左往と探し求めた。そして河辺で虹が四五丈の蛇のように見えた。虹の出る所を堀って、神鏡を獲た。神鏡を遠くないところに移したら、皇女の屍を見つけた。腹を割いて観たら、腹の中に物が有って水の様だった。水の中に石が有って、枳莒喩は、これで、自分の子の雪のように潔白で罪が無いことが解った。かえって子を殺したことを悔いて、仕返しに國見を殺し、石上神宮に逃げ匿れた。四年の春二月に、天皇は、葛城山に矢を射て狩りをした。急に背が高い人が見えた。やって来て丹谷を望み見た。顔立ちや姿かたち立ち居振る舞いが天皇にとても似ていた。天皇は、これは神だと知っていたけれど、それでも由緒を聞こうと「どこの王だ」と言った。背が高い人は、「この世に生きている神だ。まず王の名を名乗れ。その後で答えよう」と答えた。天皇は、「私は、幼武の尊だ」と答えた。背が高い人が、後に続けて「私は、一事主神だ」と名のった。それで一緒に水田を遊びまわり廻って、一匹の鹿を追いかけて矢を放つことを譲り合って、くつわを並べて 馬を走らせた。言葉を恭しくつつしみ、高尚な人に会った様だった。そして、日暮れに田を出た。神は、天皇を傍に並んで送って、来目の川までやってきた。この時、百姓は、「徳が有る天皇だ」と誰もが言った。秋八月の朔が辛卯の戊申の日に、吉野宮に行幸した。庚戌の日に、河上の小野に行幸した。虞人に命令して獣を追って馬を走らせた。自分で射ようと待ち受けた。虻が、素早く飛んできて、天皇の腕に止まった。ここに、蜻蛉が、にわかに飛んで来て、虻を噛んで去った。天皇は、思慮深いことを「私の為に蜻蛉を誉めたたえて対の歌を読め」と詔勅した。臣下は、何とか上手く読もうという者がいなかった。天皇は、それで歌などを吟じた()それで蜻蛉を讃えて、この地を蜻蛉野と名づけた。】とあり、八月辛卯は8月2日で7月が小の月なので、大の月なら合致する。
前項の極悪非道の天皇に対して、この項では人が違うように優雅・有徳の天皇に記述しているが、『古事記』も同じ内容を記述していて、2代目の雄略天皇の可能性が高く、允恭天皇元年412年には雄略天皇は「市邊押磐皇子傅國而遥付囑後事」と天皇になる年齢になっていなかった。
もし、天皇になることが出来る年齢に達していたら、最初から雄略天皇に太子という地位が付与されていなければならないので、安康も雄略も13歳に達していなかったので市邊押磐皇子を皇太子にしたと考えられる。
太子が付与されていないということは、まだ若くて安康天皇の時代にも太子になれなかったので、初代雄略天皇は安康天皇の一世代前が即位し、長男が雄略2年に天皇と同等の皇太子になったと思われ、優しい皇太子と凶暴な天皇が記述されたのではないだろうか。
また、この年に蜻蛉野が命名されたということは、「廼生大日本豐秋津洲」、「猶如蜻蛉之臀呫焉由是始有秋津洲之號也」は別の国、豊国の安芸のことで、大和の蜻蛉は雄略天皇が雄略天皇4年以降に『日本書紀』を記述させた可能性が高く、孝安天皇の秋津宮は小野宮と呼ばれていた可能性がある。

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