2020年1月20日月曜日

最終兵器の目  允恭天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二十三年春三月甲午朔庚子立木梨輕皇子爲太子容姿佳麗見者自感同母妹輕大娘皇女亦艶妙也太子恒念合大娘皇女畏有罪而默之然感情既盛殆將至死爰以爲徒非死者雖有罪何得忍乎遂竊通乃悒懷少息因以歌之曰阿資臂紀能椰摩娜烏菟?(糸+勾)利椰摩娜箇弥斯哆媚烏和之勢志哆那企貳和餓儺勾菟摩箇哆儺企貳和餓儺勾菟摩去鐏去曽椰主區津娜布例二十四年夏六月御膳羹汁凝以作氷天皇異之卜其所由卜者曰有內亂蓋親親相姧乎時有人曰木梨輕太子姧同母妹輕大娘皇女因以推問焉辭既實也太子是爲儲君不得罪則流輕大娘皇女於伊豫是時太子歌之曰於裒企彌烏志摩珥波夫利布儺阿摩利異餓幣利去牟鋤和餓哆哆瀰由瑇去等烏許曾哆多瀰等異泮梅和餓菟摩烏由梅又歌之曰阿摩儾霧箇留惋等賣異哆儺介縻臂等資利奴陪瀰幡舍能夜摩能波刀能資哆儺企邇奈勾四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩時年若干於是新羅王聞天皇既崩驚愁之貢上調舩八十艘及種々樂人八十是泊對馬而大哭到筑紫亦大哭泊于難波津則皆素服之悉捧御調且張種種樂器自難波至于京或哭泣或歌儛遂參會於殯宮也冬十一月新羅吊使等喪禮既闋而還之爰新羅人恒愛京城傍耳成山畝傍山則到琴引坂顧之曰宇泥咩巴椰弥弥巴椰是未習風俗之言語故訛畝傍山謂宇泥咩訛耳成山謂瀰瀰耳時倭飼部從新羅人聞是辭而疑之以爲新羅人通采女耳乃返之啓于大泊瀬皇子皇子則悉禁固新羅使者而推
問時新羅使者啓之曰無犯采女唯愛京傍之兩山而言耳則知虛言皆原於是新羅人大恨更減貢上之物色及舩數冬十月庚午朔己卯葬天皇於河內長野原陵
【二十三年の春三月の朔が甲午の庚子の日に、木梨の輕皇子を皇太子に立てた。顔立ちが整っていて美しかった。見る者は、自然と心が動いた。妹の輕の大娘皇女もまた 妖しいほどに美し過ぎた。太子は、いつも大娘の皇女といっしょになろうと願い罪と畏れて默っていた。しかし、心を動かす気持ちが強くなって、死ぬほど気持ちが高ぶった。そこで思い直して、ただ空しく死ぬよりは、刑罰を受けようとも、どうして忍んで入れようかと考えた。それでひそかに通じ合った。それで、ふさぐ気持ちが少しはれた。それで歌った()。二十四年の夏六月に、御膳の吸い物が、凍ったように固まった。天皇は、奇妙に思って、その理由を占わせた。占い師が「身内に秩序を乱すことが有った。きっと、同祖がよこしまな関係に違いない」と言った。その時、ある人が「木梨の輕の太子が、妹の輕の大娘の皇女を犯した」と言った。それで、良く考えて問いただした。その話は本当のことだった。太子は、私の跡継ぎの王で、刑罰を加えることが出来ない。それで大娘の皇女を伊豫に移り住まわせる。その時、太子は、歌った()。四十二年の春正月の朔が乙亥の戉子の日に、天皇が崩じた。その時、年齢はまだ若かった。それで、新羅の王は、天皇が崩じたことを聞いて、驚きき悲しんで、年貢として船を八十艘、および種々の楽器奏者八十人を貢上した。それで、對馬で停泊して、大声をあげてないた。筑紫に着いて、また大声をあげてないた。難波の津に停泊して、それで皆、喪服を着た。全ての年貢捧げて、また種々の樂器の弦を張って、難波から京に着くまで、あるいは哭き叫び、あるいは舞い歌った。それで殯の宮に集まった。冬十一月に、新羅の弔使達は、葬礼が終わって帰った。ここで新羅人は、いつも京城の辺の耳成山や畝傍山を愛でた。それで琴引の坂に着いて、振り返って、「うねめはや、みみはや」と言った。このような風習や言葉を習ったことが無い。それで、畝傍山を訛って、うねめと言い、耳成山を訛って、みみというのだろう。その時、倭の飼部が、新羅人に一緒にいて、この言葉を聞いて、疑いを抱いて、新羅人が、采女に通じたと思った。それで返って大泊瀬の皇子に教えた。皇子は、それで残らず新羅の使者を監禁して、よく考えて問いかけた。その時、新羅の使者は、「采女を犯してはいない。ただ京の辺の二つの山を愛でて言っただけだ」と教えた。すなはち、でまかせと知らせて、皆の誤解をはらした。このことで、新羅人は、大変恨みに思って、貢ぎ物の種類や船の数を減した。冬十月の朔が庚午の己卯の日に、天皇を河内の長野の原の陵に葬った。】とあり、二十三年三月朔は乙未で甲午は2月30日で2月が小の月なら合致し、他は標準陰暦と合致する。
前項でも記述したように、木梨輕皇子兄弟は、実際のところは日觸使王の娘の宮主宅媛の子の菟道稚郎子皇子と菟道稚郎姫皇女か木事の娘の津野媛の子の圓皇女と圓大臣なのか解らない。
これまで考えてきたように、人名は同じ名の場合、義兄弟でも従弟でも同じ宮で生まれた場合、同じ名前が付けられ、直系の人物は同じ名前を襲名して、系図上は兄弟になってしまう。
また、延喜式祝詞の大祓詞には祓わなければならない罪科として兄弟の姦淫は含まれず、母子相姦や獣姦が記述されるだけで、古代においては取り立てて非難されるものではなかったようだ。
さらに、この允恭天皇は死亡時の年齢が若干と記述され、天皇は20歳にならないと即位できず、3代目の允恭天皇と考えられ、皇太子は弟か叔父なので、儲君と皇太子を呼んでいる。
また、この天皇は42年1月に崩じて10月に葬っているが230mの墳丘長で頂高45mの市野山古墳が9ヶ月もしないで盛り土をして踏み固めて竪穴を掘って石室を整え石棺を設置できたとは思えない。
現在残っている堀の跡には水が溜まらないから、建設当初から空堀と言われているが、外堀を埋め立てた場所の名前が長池と呼ばれていたそうで、水もない、あっても水たまりが池と呼ばれ、しかも、長い池などと名前を付けるのはナンセンスで、おそらく、名前が出来た頃は外堀に水がたっぷり有ったのではないだろうか。
同様に、履中天皇(3月崩→10月葬)も7ヶ月、神功皇后(4月→10月)も6ヶ月、垂仁天皇(7月→12月)も多くとも5ヶ月、崇神天皇(12月→10月)も11ヶ月、開化天皇(4月→10月)も6ヶ月、円墳の孝安天皇(1月→9月)も9ヶ月で、景行天皇は2年仁徳天皇は死亡する20年も前だが孝元天皇も5年、孝霊天皇も6年、ほとんどの大古墳に葬られた天皇も大きい陵墓に葬られなかった天皇と大差がなく、安寧天皇が8月で孝昭天皇は死後38年後の8月で、それ以降用明天皇が7月に葬るまで葬る月が9月から2月で埋葬を待ったのは農民の繁忙期を避けた時期を選んだ季節要因及び6ヶ月は埋葬しないという習慣と思われ、すなわち、既にある盛り土に陵墓を造った可能性が高い。
安康天皇の3年、反正天皇の5年や仁徳天皇の20年も差が有るのは前後の天皇がダブっていた可能性があり、仁徳陵は『日本書紀』を書いた平群王朝の木菟の宿禰の墓なので、実際に墓を造った溜池造りから墳墓の完成までの期間が解っていたから記述したと考えれる。
ちなみに、それ以外では神武天皇11月、綏靖天皇10月、懿徳天皇10月に葬られ、敏達天皇は「四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」と4月に葬り直しているが、既にある陵に安置し、しかも、横穴式石室なので、石棺を移動させるだけで、これ以降も9月から2月で、崇峻天皇は暗殺されたその日に葬られていて、この頃から寺が多く建立され、墳墓も横穴式石室で複数の人物を葬っていて無関係とは思えない。
孝昭天皇が死後38年後、天智天皇は記述されないように、宮という王朝の主が皇位を簒奪されても、宮が残る限り天皇陵を造らず、宮の主はもちろん宮の中に廟をつくり、宮の主が死んだとき宗廟も含めて天皇陵となることを示している。

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