2020年1月13日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十三  允恭天皇1

 『日本書紀』慶長版は
雄朝津間稚子宿祢天皇瑞齒別天皇同母弟也天皇自岐㠜至於総角仁惠儉下及壯篤病容止不便六年春正月瑞齒別天皇崩爰群卿議之曰方今大鷦鷯天皇之子雄朝津間稚子宿祢皇子與大草香皇子然雄朝津間稚子宿祢皇子長之仁孝即選吉曰跪上天皇之璽雄朝津間稚子宿祢皇子謝曰我不天久離篤疾不能步行旦我既欲除病獨非奏言而密破身治病猶勿差由是先皇責之曰汝患病縱破身不孝孰甚於茲矣其長生之遂不得繼業亦我兄二天皇愚我而輕之群卿共所知夫天下者大器也帝位者鴻業也旦民之父母斯則聖賢之職豈下愚之任乎更選賢王宜立矣寡人弗
敢當群臣再拜言夫帝位不可以久曠天命不可以謙距今大王留時逆衆不正号位臣等恐百姓望絶也願大王雖勞猶即天皇位雄朝津間稚子宿祢皇子曰奉宗廟社稷重事也寡人篤疾不足以稱猶辭而不聽於是群臣皆固請曰臣伏計之大王奉皇祖宗廟最宜稱雖天下萬民皆以爲冝願大王聽之元年冬十有二月妃忍坂大中姫命苦群臣之憂吟而親執洗手水進于皇子前仍啓之曰大王辭而不即位位空之既經年月群臣百寮愁之不知所爲願大王從群望強即帝位然皇子不欲聽而背居不言於是大中姫命惶之不知退而侍之經四五剋當于此時季冬之節風亦烈寒大中姫所捧鋺水溢而腕凝不堪寒以將死皇子顧之驚則扶起謂之曰嗣位重事不得輙就是以於今不從然今群臣之請事理灼然何遂謝耶爰大中姫命仰歡則謂群卿曰皇子將聽群臣之請今當上天皇璽符於是群臣大喜即日捧天皇之璽符再拜上焉皇子曰群卿共爲天下請寡人寡人何敢遂辭乃即帝位是年也太歲壬子二年春二月丙申朔己酉立忍坂大中姫爲皇后
【雄朝津間の稚子の宿禰天皇は、瑞齒別天皇の同母弟だ。天皇は、知恵が伸びる子供のころから(詩經の生民「誕實匍匐克岐克嶷以就口食」より)あげまきをする頃まで、思いやりの心が有ってつつましくへりくだっていた。大人になって重病を患って、たちいふるまいが滞った。六年の春正月に、瑞齒別天皇が崩じた。そこで群卿は、相談して「ちょうど今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝津間の稚子の宿禰皇子と、大草香皇子がいる。しかし雄朝津間の稚子の宿禰皇子は、年長でいつくしみの心があって孝行だ」と言った。それで吉日を選んで、ひざまずいて天皇の璽を上呈した。雄朝津間の稚子の宿禰皇子は、「私に天の助けが無く、長い間、重病を患って歩けなかった。また私はすでに病を治そうと、ひとりで誰にも言わないで、しかも密に体を壊すまで病を治そうとしたが、まだ大した差が無い。それで、先皇が『お前は病を治そうとしたとはいえ、勝手に体を傷めた。親に従わないで、誰がこのように酷くした。それで長く生きても、何時まで経っても皇位を継ぐことが出来ない。』と責めた。また、我の兄の二柱の天皇は、私を愚かと軽んじた。群卿の皆に知れわたっている。天下は、大きなる器だ。帝位は、大業だ。また民の父母と同じだ。すなはち賢く徳が高てあがめられる勤めだ。どうして愚かな私に任せられるだろうか。私より賢い王を選んで立てるべきだ。徳の無い者が敢えて担当すべきでない」とことわった。群臣は、「帝位は、長く空白にしてはならない。天命は、遠慮して拒むことは出来ない。今、大王は、時の流れを止めて、人々の願いに逆らって、地位を正統に名乗ることをせず、臣下達は、百姓が絶望することを恐れている。大王、出来ましたら、困憊ではありましょうが、それでも天皇に即位してください」と再度、拝んで願った。雄朝津間の稚子の宿禰皇子は「皇統や朝廷の地位に就くのは重大な事だ。私は、重病を患って、天皇には能力が足りない」と言ってなお固辞してきかなかった。それで、臣下は「私たちは、頭を突き合わせて考えたが、大王が、皇祖を祀る社の管理を守る天皇に、最もふさわしい人です。天下は広く大袈裟と思うでしょうが、すべての民が皆、宜しくと願っています。出来ましたら、大王、聞き入れてください」と揃って固く願い求めた。元年の冬十二月に、妃の忍坂の大中姫命は、臣下が憂いを口にしているのを苦にして、みづから洗手水を携えて、皇子の前へ進み出た。それで「大王は、辞退して天皇に即位しないで空位のまま、既に年月を経てしまった。臣下や役人は思いなやんで成す術がない。できましたら、大王、群臣の望みどおりに、しいて帝位に就いてください」とみちびいた。それでも皇子は、きかないで背を向けて何も言わなかった。そこで、大中姫の命は、かしこまって、退くことを知らないかのように側にいて、四五刻の時間が過ぎた。この時は、冬だったので、風も烈しく寒かった。大中姫は両手で持った容器の水が、溢れて腕で凍った。寒さに堪えられずに死にそうだった。皇子は、驚いて思いめぐらした。それで「皇位を継ぐのは、重大な事だ。かるがるしく就任することは出来ない。それで、いままで皆に従わなかった。しかし、今、臣下が願うことは、ものごとの道理に明らかに適っている。どうしていつまでも断り続けられようか」と言って助け起こした。それで大中姫の命は、天を仰いで喜んで、「皇子が、臣下の願い聞き入れた。今こそ天皇の璽符を献上しなさい」と群卿にいった。それで、臣下は、大変喜んで、すぐその日に、天皇の璽符を捧げて、二度拝礼して献上した。皇子は「群卿が、一緒に天下の為に私にいった。私は、どうしていつまでも断り続けられようか」と言って、それで帝に即位した。是歳は、太歳が壬子だった。二年の春二月の朔が丙申の己酉の日に、忍坂の大中姫を皇后に立てた。】とあり、二年二月丙申朔は標準陰暦と合致する。
反正天皇には高部皇子がいるのだから、高部皇子が皇太子で、反正天皇が葦田の宿禰なら高部皇子は蟻臣で黒媛が履中天皇の玉田の宿禰の妃で子が圓大臣でその妃が圓皇女の可能性がある。
すなわち、允恭天皇は正統の天皇ではなく、簒奪した天皇で、大王と呼ばれた雄朝津間の稚子の宿禰というある地域の王だったことを意味し、大王は天皇ではなく、天皇でなかった人物が天皇になったのであり、天皇(大王)が天皇に即位するなどという日本語は存在しない。
そして、ここで活躍するのが大中媛で、仲皇子は大鷦鷯の正統な王で、額田の大中彦の子と想定されると述べたが、大中媛は『古事記』の品陀和気に「娶迦具漏比賣生御子川原田郎女次玉郎女次忍坂大中比賣次登富志郎女次迦多遅王」と応神天皇と迦具漏比賣との子で、同じく『古事記』の大帯日子游斯呂和気に「若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之是等(柴)野入杵之女此等(柴)野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命故此之大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖也」、「品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日賣真若比賣命生子大郎子亦名意富々杼王次忍坂之大中津比賣命」とあるように、大中比賣は「香坂王忍熊王之御祖」で、応神天皇の親の世代が大中比賣で応神天皇の孫に大中津媛のように当然大中媛も襲名で足仲彦も対の襲名、当然、足仲彦の親が大中彦、大中媛は仲彦皇子の兄弟若しくは妃だった可能性が高い。
すなわち、譽田王が王位を譽田別王に簒奪されたのを取り返し、同じく正統な血統の「なか国」の大中姫の協力で取り返したことを意味し、『古事記』では若帯日子、『日本書紀』では足仲彦と「なか国王」で「若国王」という大王だった。
そして、正統な皇后の血筋の大中姫を皇后に迎え入れ、天皇の璽も手に入れた。

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