2020年1月27日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十四 雄略天皇1

  日本書紀』慶長版は
大泊瀬幼武天皇雄朝津間稚子宿祢天皇第五子也天皇産而神光滿殿長而伉健過人三年八月穴穗天皇意將沐浴幸于山宮遂登樓兮遊目因命酒兮肆宴爾乃情盤樂極間以言談顧謂皇后曰吾妹汝雖親眤朕畏眉輪王眉輪王幼年遊戲樓下悉聞所談既而穴穗天皇枕皇后膝晝醉眠臥於是眉輪王伺其熟睡而刺殺之是日大舍人驟言於天皇曰穴穗天皇爲眉輪王見殺天皇大驚即猜兄等被甲帶刀卒兵自將逼問八釣白彥皇子皇子見其欲害嘿坐不語天皇乃拔刀而斬更逼問坂合黑彥皇子皇子亦知將害嘿坐不語天皇忿怒弥盛乃復幷爲欲殺眉輪王案劾所由眉輪王曰臣元不求天位唯報父仇而已坂合黑彥皇子深恐所疑竊語眉輪王遂共得間而出逃入圓大臣宅天皇使使乞之大臣以使報曰蓋聞人臣有事逃入王室未見君王隱匿臣舍方今坂合黑彦皇子與眉輪王深恃臣心來臣之舍誰忍送歟由是天皇復益興兵圍大臣宅大臣出立於庭索脚帶時大臣妻
持來脚帶愴矣傷懷而歌曰飫瀰能古簸多倍能波伽摩鳴那那陛鳴絶伱播伱陀々始諦阿遙比那陀湏暮大臣裝束已畢進軍門跪拜曰臣雖被戮莫敢聽命古人有云匹夫之志難可奪方属乎臣伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區請以贖罪天不皇許縱火燔宅於是大臣與黒彦皇子眉輪王倶被燔死時坂合部連贄宿祢抱皇子屍而見燔死其舍人等收耴所焼遂難擇骨盛之一棺合葬新漢擬本南丘冬十月癸未朔天皇恨穴穗天皇
【大泊瀬の幼武天皇は、雄朝嬬の稚子の宿禰の天皇の第五子だ。天皇は、産れてから、神聖な姿が殿中に満ちていた。成長してつよくすこやかで、人より優れていた。三年の八月に、穴穗天皇が、沐浴をしようと思って、山の宮に行幸した。それで高殿に登ってあちこち眺めて目を楽しませた。それで酒の準備を命令して楽しみ笑い興じた。それで思いっきり遊んで楽しい心情が極まって、合間に談笑して、皇后を思って「私の妻よ、お前は縁つづきでなれ親しんでいるといっても、私は、眉輪王を恐れている」と言った。眉輪王は、幼少で高殿の下で楽しんで遊んでいて、残らず話す事柄を聞いてしまった。それで穴穗天皇は、皇后の膝枕で、昼から酔って寝ころんでいた。そこに、眉輪王が、そのぐっすりとよく眠っているのを伺って、刺し殺した。この日に、大舍人が天皇に「穴穗天皇が、眉輪王のために殺された」と速やかに連絡した。天皇は、大変驚いて、すぐに兄等をうたがって、甲冑を被って刀を帯びて、軍をを率いて自から将軍となって、八釣の白彦皇子に迫って問い正した。皇子は、その殺そうとするのを見て、黙って座って何も語らなかった。天皇は、それで刀を拔いて斬った。また坂合の黒彦皇子に迫って問いただした。皇子は、また殺そうとしていることを知って、黙って座って何も語らなかった。天皇は、怒り心頭だった。それでまた一緒に眉輪王も殺そうと思ったので、その殺害をどう考えているか正した。眉輪王は「私は、元から、天皇位を求めていません。ただ父の仇に報いようとしただけだ」と言った。坂合の黒彦皇子は、執念深く疑うことを畏れて、密かに眉輪王に語った。とうとう共にころあいを待って、屋敷を出て圓の大臣の家に逃げ入った。天皇は、使者を送って願った。大臣は、使者に、報告して「たしか聞いたところ、人臣は、何かあったら、逃げて王室に入るという。いまだ王君が、臣下の屋敷に隠れたところを見たことが無い。今まさに坂合の黒彦皇子と眉輪王が、思慮深く私の心情にたのんで、私の家にやってきた。どうして、忍んで送り返せましょうか」と言った。これで、天皇は、また増兵して、大臣の屋敷を取り囲んだ。大臣は、庭に出てきて、脚帯を探した。その時に大臣の妻が、脚帯を持って来て、悲しみに心がいたんで歌った()大臣は、既に身なりを整え終わって、陣営の門に進んで両ひざをついてお辞儀をして「私が、槍で突きさされても、命令に服することは有りません。いにしえの人が、身分の低い人の志でも、奪うことは難しいと言うのは、まさに私のことだ。土下座して願うのは、大王が私の女の韓媛と葛城の屋敷の七区画を献上することで、罪を贖わせてください」と言った。天皇は、許さないで、火を着けて屋敷を焼いた。そこで、大臣と、黒彦皇子と眉輪王と、ともに焼き殺された。その時、坂合部の連の贄の宿禰が、皇子の屍を抱いて焼き殺された。その護衛達は、焼死体を引き取ったが、贄の宿禰の骨をよることが出来なかったので、一つの棺に積み重ねて、新漢の擬本の南の丘に合葬した。】とある。
『日本書紀』は黒彦と眉輪と大臣が一緒に殺されたが、『古事記』は黒彦は別で白彦より前に殺害している。
これは、『日本書紀』が正史で記録としては雄略天皇側に立った記述であり、『古事記』は『日本書紀』と異なる葛城・巨勢氏の歴史を記述し、平群氏から政権を奪っているので、平群氏のことは客観的に記述されている可能性が高いし、雄略紀以降はまだ記述されていないので、『日本書紀』をまねる必要も無い。
したがって、真実は『古事記』の可能性が高く、眉輪と大臣より前に黒彦・白彦を先に殺害しないと皇位継承順が雄略天皇より高いので、雄略天皇が皇位に就くためには、先に白彦・黒彦を殺害し、本来の皇太子の大臣およびその甥を最後に殺害したのである。
黒彦と眉輪と大臣が仲間内だったと思わせる必要があったため、このような資料を残し、巨勢氏は雄略天皇が皇位を簒奪するため、皇位継承の権利を有する人々を容赦なく殺害したと記述したようだ。
安康天皇と前天皇の長男の圓大臣はどちらが天皇になっても正統な相続で、より権勢が強い安康天皇が前天皇の長女の中帯姫を奪い、皇位に就いていたのであり、実際の皇位は中帯姫が皇位継承者であったのであり、『日本書紀』の世界は女系によって持統天皇まで継承されている可能性が高い。

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