『日本書紀』慶長版は
「五年春三月戊午朔於筑紫所居三神見于宮中言何奪我民矣吾今慚汝於是禱而不祠秋九月乙酉朔壬寅天皇狩于淡路嶋是日河內飼部等從駕執轡先是飼部之黥皆未差時居嶋伊奘諾神託祝曰不堪血臰矣因以卜之兆云惡飼部等黥之氣故自是後頓絶以不黥飼部而止之癸卯有如風之聲呼於大虛曰剱刀太子王也亦呼之曰鳥往來羽田之汝妹者羽狹丹葬立往亦曰狹名來田蔣津之命羽狹丹葬立往也俄而使者忽來曰皇妃薨天皇大驚之便命駕而歸焉丙午自淡路至冬十月甲寅朔甲子葬皇妃既而天皇悔之不治神崇而亡皇妃更求其咎或者曰車持君行於筑紫國而悉校車持部兼取充神者必是罪矣天皇則喚車持君以推問之事既實焉因以數之曰爾雖車持君縱檢校天子之百姓罪一也既分寄于神祇車持部兼奪取之罪二也則負惡解除善解除而出於長渚崎令秡禊既而詔之曰自今以後不得掌筑紫之車持部乃悉收以更分之奉於三神六年春正月癸未朔戊子立草香幡梭皇女爲皇后辛卯始建藏職因定藏部二月癸丑朔喚鯽魚磯別王之女大姫郎姫髙鶴郎姫納於后宮並爲嬪於是二嬪恒歎之曰悲哉吾兄王何處去耶天皇聞其歎而問之曰汝何歎息也對曰妾兄鷲住王爲人強力輕捷由是獨馳越八尋屋而遊行既經多日不得面言故歎耳天皇悅其強力以喚之不參來亦重使而召猶不參來恒居於住吉邑自是以後廢以不求是讚岐國造阿波國脚咋別凢二族之始祖也三月壬午朔丙申天皇玉體不悆水土不調崩于稚櫻宮冬十月己酉朔壬子葬百舌鳥耳原陵」
【五年の春三月の朔が戊午の日に、筑紫に居た三柱の神が、宮中にやって来て、「どうして私の領民を奪うのだ。私は、今、お前に恥をかかせてやろう」と言った。そこで、祠で祈らなかった。秋九月の朔が乙酉の壬寅の日に、天皇は、淡路嶋に狩に出かけた。この日に、河内の飼部達が、轡を引いて駕籠に付き従った。これより前に、墨の刑に処せられた飼部の顔が腫れて見分けがつかない時、嶋に居る伊奘諾神は「血の匂いが臭くて耐えられない」と知らせた。それで、その兆しを占った。「飼部達の墨の刑の気配が嫌だ」とでた。それで、これ以後、急遽、墨の刑を廃止して飼部も止めた。癸卯の日に、風の音のように、天から呼ぶ声がして「剱と刀の大王の子」と言った。また、「鳥が行き来する羽田に住むお前の妹は、羽狹に立ったまま葬った」と叫んだ。また、「狹名の來田蒋津の命は、羽狹に立ったまま葬った」と言った。急に使者がやって来て、「皇妃が薨じた」と言った。天皇は、大変驚いて、駕籠で帰るよう命じた。丙午の日に、淡路から着いた。冬十月の朔が甲寅の甲子の日に、皇妃を葬った。すでに天皇は、神の祟を鎮めることが出来ず、皇妃を死なせてしまったことを悔いて、さらにその罪科の理由を探し求めた。ある人が「車持の君が、筑紫国に行って、ことごとく車持部を取り調べ、その時一緒に車持部の充神を取り上げたことがきっとこの罪に違いない」と言った。天皇は、それで、車持の君を呼んで、よく考えて問いただすと、本当のことだった。それで、「お前は、車持の君と言って、思うがまゝに天子の百姓を調べて召し上げた。ひとつの罪だ。もう神祇に分けて送った車持部を、百姓と一緒に奪い取った。二つ目の罪だ」と数え上げて責めた。それで、善悪の祓い除く業を負わせて、長渚の崎に送り出して、お祓をして禊がせた。「いまより以後、筑紫の車持部を配下にしてはならない」と詔勅した。それで、すべて残らず取り上げて別け三柱の神に奉納した。六年の春正月の朔が癸未の戊子の日に、草香の幡梭皇女を皇后に立てた。辛亥の日に、はじめて藏を建てて。それで藏部の職を定めた。二月の朔が癸丑の日に、鯽魚磯別の王の娘の太姫の郎姫と高鶴の郎姫を呼んで、後宮に召し入れて、一緒に女官にした。そこで、二人の女官は、「何と悲しい事か、私の兄王がどこかへ去ってしまった」といつも嘆いていた。天皇は、その歎きを聞いて、「お前は、何を嘆いて溜め息をついているのだ」と問いかけた。「私の兄の鷲住の王は、風体が力強くして、軽快で素早い。そのため、一人で八尋の屋根をさっと越えてあてもなくいってしまった。すでに何日も経って、会って言葉を交わすことが出来ない。それで、歎いています」と答えた。天皇は、その力強いことを悦んで呼んだが来なかった。また使者を何度も派遣して呼び出したがそれでも来なかった。かわらず住吉の邑に居た。これ以後、呼ぶのをやめた。これが、讚岐の国造と阿波国の脚咋別の二族の始祖だ。三月の朔が壬午の丙申の日に、天皇は、体が病みで不調になった。稚櫻宮で崩じた。冬十月の朔が己酉の壬子の日に、百舌鳥の耳原の陵に葬った。】とあり、五年十月甲寅朔は9月30日で9月が小の月なら合致し、他は標準陰暦と合致する。
草香幡梭皇女を皇后に立てたと記述しているが、ここで初めて葛城氏が真の天皇に即位できたことになる。
尾張大海媛の子の八坂入彦、その娘の八坂入媛、その子の五百城入彦、その娘の仲媛、その子の大鷦鷯、その子の去來穗別と尾張氏と葛城氏の血を引き、伊勢遺跡の女王の宮主宅媛の娘の雌鳥皇女が持っていた足玉手玉という天皇の璽、そして、息長氏の女王神功皇后、もしかしたら、宮主宅媛を皇太后として迎えて、雌鳥皇女を皇后に出来なかったが、稚櫻宮天皇という天皇システムの皇位継承を実現させ、この去來穗別は圓大使主の父の玉田宿禰、儲の君は葦田宿禰の可能性が高い。
「筑紫所居三神」は筑紫の近くにいる3神といえば宗像3神しかおらず、この説話は、筑紫にも天子の駕籠を司る王がいて、かなりの権力をもち、宗像氏に影響力を持ち出したことが記述されているようだ。
葛城王朝にとって、倭国の力がかなり強大になってきたことを示しているようで、その背景が、朝鮮半島の鉄を独占し、「十七縣而來歸」と17縣の王が後に『宋書』で朝鮮南半よりやや大きい領域を「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國」と自負する、おそらく、この領域は「磐井掩據火豐二國」と肥・豊・筑紫のことと考えられる。
このように強大な力をもつ倭国であっても、畿内政権と朝鮮諸国が同盟すれば倭も困るので、宗像の訴えに身を引かざるを得なかったのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿