2020年1月29日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇2

 『日本書紀』慶長版は
冬十月癸未朔天皇恨穴穗天皇曽欲以市邊押磐皇子傅國而遙付囑後事乃使人於市邊押磐皇子陽期狡獵勸遊郊野曰近江狹狹城山君韓帒言今於近江來田綿蛟屋野猪鹿多有其戴角類枯樹末其聚脚如弱木林呼吸氣息似於朝霧願與皇子孟冬作陰之月寒風肅殺之晨將逍遙於郊野聊娯情以?()射市邊押磐皇子乃隨馳獵於是大泊瀬天皇彎弓驟馬而陽呼曰猪有即射殺市邊押磐皇子皇子帳內佐伯部賣輪抱屍駭惋不解所由反側呼?()往還頭脚天皇尚誅之是月御馬皇子以曽善三輪君身狹故思欲遣慮而往不意道逢邀軍於三輪磐井側逆戰不久被捉臨刑指井而詛曰此水者百姓唯得飲焉王者獨不能飲矣十一月壬子朔甲子天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位遂定宮焉以平群臣真鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連
【冬十月の癸未が朔の日に、天皇、穴穗天皇が、市邊の押磐の皇子に、後々まで国を受け継いぐように頼もうとしたことを恨んで、人を市邊の押磐皇子に送り、昼間に郊外で狩を勧める様に見せかけて約束させようと、「近江の狹狹城山の君の韓帒が、『今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿が、たくさんいる。その頭に載った角は、枯樹の枝のようだ。その集まった脚は、若い木の林のようだ。呼吸する息は、朝霧のようだ』と言っていた。できたら、皇子と、厳冬の長い影を落とす寒風で静まり返った冬至の頃に、郊外の野でぶらぶらとさまよい歩いて、一寸した遊びで馬を走らせて矢を射てみよう」と言った。市邊の押磐皇子はそれで一緒に狩をした。そこで、大泊瀬天皇は、弓を引いて馬を走らせ、陽気に呼びかけて、「猪がいた」と言って、すなわち市邊の押磐皇子を射殺した。皇子の護衛の佐伯部の賣輪が、屍を抱いて驚き嘆いて、わけがわからず、反逆だと叫び回って、右往左往した。天皇は、なおも誅殺した。この月に、御馬皇子は、以前から三輪の君の身狹と仲が良くて、用心するようにと知らせに出かけて思いがけず、道に軍が待ち受けていて、三輪の磐井の側で反乱軍と戦って時を経ず捕らわれた。首をきられようとしたので井戸を指さして「この水は、百姓だけが飲むことができる。王者は、勝手に飲むことができない」とそしって言った。十一月の朔が壬子の甲子の日に、天皇は、役人に銘じて、祭壇を泊瀬の朝倉に設けて、天皇に即位した。そして宮を定めた。平群臣眞鳥を大臣とした。大伴連室屋と物部連目を大連とした。】とあり、標準陰暦と合致する。
市邊押磐皇子傅國」は雄略天皇が韓媛を得る前で皇位継承の要件を満たしていないため、葦田宿禰の姫の黒媛の子で荑媛が妃の市邊押磐皇子が要件を満たしているので、皇太子だったことがあることを示している。
すなわち、女系の葛城朝の皇位継承順は磐之媛→黒媛(髪長媛)→(大中姫)→中帯姫(?圓の義兄弟)→荑媛→韓媛でその夫が天皇で、男系は玉田→葦田(?妻大中姫)→蟻臣(大草香皇子)→(穴穂)→(義理の甥市邊押磐)→(大泊瀬)と考えられ、玉田から葦田は圓が若くて皇位継承できなかったと考えられ、蟻臣が大草香皇子で圓 が眉輪を匿った。
皇太后が仲姫・大中姫・中帯姫以降は欽明天皇まで皇太后に即位できず、韓媛は皇太夫人で皇太后に即位できる血統が存在することを意味し、皇太夫人も他に堅鹽媛のみで、皇太夫人に即位できるのは建内の宿禰の家系で皇后になった人物のみ、皇太后や皇太夫人に即位できなかった皇后や夫人は実際は、他に朝廷が存在した可能性がある。
『古事記』では皇后と呼ばれる人物すら本文では「長田大郎女爲皇后」しか存在せず、また、『舊事本紀』では中帯姫が皇太后に即位せず、矢田皇女が皇太后に即位していて、矢田皇女は和珥臣の家系で欽明天皇の時皇太后に即位したのも和珥臣の家系で橘仲皇女とやはり仲皇女である。
そして、市邊の押磐皇子の父は履中天皇ではなく、巨勢小柄宿禰の子の乎利と考えられ、乎利の兄弟に星川建日子がいて、吉備上道臣の妻が圓の兄弟の毛媛で、娘の稚媛が雄略天皇の妃で星川稚宮皇子を生んでいる。
すなわち、葛城の天皇にとっては雄略天皇は武内宿禰の子で家臣の平群木菟宿禰の子孫で娘婿に過ぎず、雄略天皇にとっては、自分は武内宿禰の正統な後継者で葛城襲津彦の子たちに奪われた皇位を奪い返したに過ぎず、前天皇の家系は葛城大臣の家系に過ぎず、後の『古事記』・『日本書紀』を記述した巨勢氏や蘇我氏にとっては、雄略天皇は平郡大臣の家系に過ぎず、蘇我氏や巨勢氏が天皇として記述している。

0 件のコメント:

コメントを投稿