『日本書紀』慶長版は
「瑞齒別天皇去來穗別天皇同母弟也去來穗別天皇二年立爲立爲皇太子天皇初生于淡路宮生而齒如一骨容姿美麗於是有井曰瑞井則汲之洗太子時多遲花落有于井中因爲太子名也多遲花者今虎杖花也故稱謂多遲比瑞齒別天皇六年春三月去來穗別天皇崩元年春正月丁丑朔戊寅儲君即天皇位秋八月甲辰朔己酉立大宅臣祖木事之女津野媛爲皇夫人生香火姫皇女圓皇女又納夫人弟弟媛生財皇女與髙部皇子冬十月都於河內丹比是謂柴籬宮當是時風雨順時五穀成熟人民富饒天下太平是年也太歲丙午六年春正月甲申朔丙午天皇崩于正寢」
【瑞齒別天皇は、去來穗別天皇の同母弟だ。去來穗別天皇の二年に、皇太子になった。天皇は、淡路の宮で生まれた。生まれつき歯が、一つの骨のようで、姿形は人の目にとまるほど美しかった。生まれた時、井戸が有って、瑞の井戸と言った。その井戸の水を汲んで太子を洗った。その時にタジイの花が井戸の中に有った。それで太子の名にした。タジイの花は、今のイタドリの花だ。それで、多遲比の瑞齒別の天皇ととなえた。六年の春三月に、去來穗別の天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁丑の戊寅の日に、儲の君が、天皇に即位した。秋八月の朔が甲辰の己酉の日に、大宅の臣の祖の木事の娘の津野媛を、皇夫人に立てた。香火姫皇女・圓皇女を生んだ。また、夫人の妹の弟媛を妃にして、財皇女と高部皇子とを生んだ。冬十月に、河内の丹比に都を造った。これを柴籬の宮といった。この時に、季節通りに、五穀が良く実り、人民は富んで豊かになり、天下太平だった。是年は、太歳が丙午だった。六年の春正月の朔が甲申の丙午の日に、天皇は
正殿で崩じた。】とあり、元年正月丁丑朔は前年の12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、六年春正月甲申朔は合致せず、伊丹屋善兵衛出版の原本には五年春正月甲申朔とあり、五年なら標準陰暦と合致し、元年八月甲辰朔も標準陰暦と合致する。
『古事記』前川茂右衛門寛永版では大宅臣の祖の木事を「天皇取丸迩之許碁登臣之女都怒郎女生御子甲斐郎女次都夫良郎女又娶同臣之女弟比賣生御子財王次多訶弁郎女」のように、木事は丸迩臣と記述し、丸迩臣は同じく『古事記』の品陀和気に「娶丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王」と日觸と同じだ。
しかも、『古事記』では大臣すなわち伊勢遺跡の王朝の皇太子で履中天皇は雌鳥皇女を皇后に出来なかったが、反正天皇は伊勢遺跡の王朝の直系の姫ではあるが、すでに皇后位継承の家系でない分家なので皇夫人とし、皇女の名が圓皇女と履中天皇と同じ屋敷の中で生まれた可能性がある。
そして、反正天皇の葦田の宿禰は仲皇子と兄弟で履中天皇である玉田の宿禰が葦田の宿禰の娘の黒媛の婿、すなわち、この履中天皇は2代目の玉田宿禰・1代目圓大使主で、叔父甥も系図で見れば兄弟で、雄朝津間稚子の宿禰が2代目の玉田宿禰・1代目圓大使主なのだろうか。
史書の天皇は宮のことなので、個々の王はその宮に当てはめただけなのだから、宮の交代イコール王の死亡とは言えず、記録として日干支を含めて残っているのは宮の始まりから終わりまでであり、短い宮は前後の天皇が遷都しただけの可能性を忘れてはならなず、反正天皇は太子を決めておらず、遷都の可能性を否定できない。
396年に始まった葛城氏の王朝が420年の「百濟直支王薨」を応神天皇二五年と記述して、少なくともこの時期まで建内の宿禰すなわち誉田から王朝が続いたということで、去來穗別・瑞齒別・雄朝津間稚子宿禰は葛城王朝の天皇名ではなく平群王朝の天皇に即位する以前の王名である。
反正天皇に説話が無いのは390年即位の応神天皇や396年即位の応神天皇の説話や仁徳天皇の説話に含まれている可能性があり、允恭天皇二四年より後の説話が無く、396年即位の応神天皇44年の439年まで続き、その後葦田の宿禰に継承された葛城王朝の中に含まれ、平郡王朝の仁徳天皇87年は390年即位の応神天皇で476年にあたると思われ、それ以降鮪が継承していると思われ、仁徳天皇は玉田の宿禰の妹磐之媛を皇后に、同じく平郡氏の雄略天皇は圓の娘を妃にしている。
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