2019年7月31日水曜日

最終兵器の目 崇神天皇7

 『日本書紀』慶長版は
四十八年春正月己卯朔戊子天皇勅豊城命活目尊曰汝等二子慈愛共齊不知曷爲嗣各宜夢朕以夢占之二皇子於是被命淨沐而祈寐各得夢也會明兄豊城命以夢辭奏于天皇曰自登御諸山向東而八廻弄槍八𢌞擊刀弟活目尊以夢辭奏言自登御諸山之嶺繩絙四方逐食粟雀則天皇相夢謂二子曰兄則一片向東當治東國弟是悉臨四方宜継朕位四月戊申朔丙寅立活目尊爲皇太子以豊城命令治東是上毛野君下毛野君之始祖也
【四十八年の春正月の朔が己卯の戊子の日に、天皇は、豐城命・活目尊に、「お前たち二人は我が子で、深い愛情は全く違わない。しかし、どちらかを跡取りにしてどちらかは統治できない。二人の夢を聞いて決めよう」と詔勅した。二人の皇子は、命令を受けて、沐浴して身を清めて祈って寝た。二人とも夢を見た。夜が明けて集まり、兄の豐城命は、天皇に「自ら御諸山に登って東を向いて、八度見回して槍をいじり、八度見回して刀を撃ちおろし」と夢の内容を奏上した。弟の活目尊は、「自ら御諸山の嶺に登って、繩をゆったり四方に張り、粟を食る雀を追い立てた」と夢の内容を奏上した。それで天皇は互いの夢を比較して、二人の子に「兄は一方の東を向いた。だから東国を治めなさい。弟は四方のこらず見た。私の皇位を継ぎなさい」と言った。夏四月の朔が戊申の丙寅の日に、活目尊を皇太子に立てた。豐城命は東を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の始祖だ。】とある。
四八年四月戊申朔は閏3月1日で春分が微妙なため閏3月は4月の可能性が有り、四十八年正月己卯朔は標準陰暦と合致する。
但し、『舊事本紀』は「三十八年春正月己卯朔戊子天皇勑豐城命」と10年の誤差があるが、『日本書紀』の懿徳紀に「元年春二月己酉朔壬子皇太子即天皇位」とあるのに、『舊事本紀』に「元年辛亥春正月己酉朔壬子太子尊即天皇」と一月異なるので、誤記とするべきかもしれないが、2人の崇神天皇がいて、10年違う宮創設者が居たと考えた方が良いと思う。
この皇位継承説話は奇妙で、皇后の長男が皇位を継ぐのにわざわざ説話を記述する必要が無く、本来は皇后が異なり、本来の皇太子を廃嫡したと思われ、『舊事本紀』は「山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男倭志紀彦女真鳥姫爲妾生一男」と「倭志紀彦女真鳥姫」が本来の皇后で、崇神天皇の都は磯城なので志紀の姫の真鳥姫が皇后とよく合致し、大彦が埴安彦の領地の山代を得て、その姫の長男が皇位を奪ったと考えられ、皇太子は実質天皇だ。
そして、まだ崇神朝の東方の領地は越・尾張・美濃までで所謂東国は領地ではなく、 豐城命が領有できず、『古事記』は「御子豊木入日子命」と豊の皇子が木国に婿入りした名前になって『舊事本紀』は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛」と母親が紀伊國の姫であり、安芸にある豊国にとっては東国となる。
『古事記』は「古伊佐知命者治天下也次豊木入日子命者(上毛野・下毛野君等之祖)妹豊鋤比賣命者(拝祭伊勢大神之宮也)」と『古事記』作成時に豊鋤比賣が伊勢神宮の宮に入ったと解説し、『日本書紀』は「以彦狹嶋王拜東山道十五國都督是豐城命之孫也」と豐城の孫が美濃の15国を治めたと、まさに、景行天皇が「冀欲巡狩小碓王所平之國乘輿幸伊勢轉入東海」と伊勢から東海に向かって彦狹嶋王は倭武の子のように見えてくる。
さらに、『舊事本紀』では「弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時紀伊荒川戸俾女中日女爲妻生四男」と大新河は豐城命の母と同じ紀伊国の荒川戸の娘で垂仁天皇の時に前天皇の皇太子だったが、廃嫡させられて大臣になっている。
すなわち、最後の崇神天皇の皇太子が大新河で、豐城入彦・大新河は紀伊に婿入りさせられてその子の豐城命は東山道を征服したことを示している。

2019年7月29日月曜日

最終兵器の目 崇神天皇6

 『日本書紀』慶長版は
冬十月乙卯朔詔群臣曰今返者悉伏誅畿內無事唯海外荒俗騷動未止其四道將軍等今忽發之丙子將軍等共發路十一年夏四月壬子朔己卯四道將軍以平戎夷之狀奏焉是歲異俗多歸國內安寧十二年春三月丁丑朔丁亥詔朕初承天位獲保宗廟明有所蔽德不能綏是以陰陽謬錯寒暑矢(?)序疫病多起百姓蒙災然今解罪改過敦禮神祇亦垂教而綏荒俗舉兵以討不服是以官無廢事下無逸民教化流行衆庶樂業異俗重譯來海外既歸化宜當此時更梜人民令知長幼之次第及課役之先後焉秋九月甲辰朔己丑始挍人民更科調役此謂男之弭調女之手末調也是以天神地祇共和享而風雨順時百穀用成家給人足天下大平矣故稱謂御肇國天皇也十七年秋七月丙午朔詔曰舩者天下之要用也今海邊之民由無舩以甚苦步運其令諸國俾造舩舶冬十月始造舩舶
【冬十月の乙卯の朔に、群臣に、「今反逆した者はことごとく咎めて平伏した。畿内には何事もなく平穏だ。ただし海外の荒れ狂った人々だけ、騒乱がまだ止まない。それで四道の將軍等は、今直ぐに出発しろ」と詔勅した。丙子の日に、將軍等は、共に出発した。十一年の夏四月の朔が壬子の己卯の日に、四道の將軍が、滅ぼされるべきまつろわない人々を平伏させた。この歳に、異なる風俗の人々が多数やって来て、国内は穏やかで平穏だった。十二年の春三月の朔が丁丑の丁亥の日に、「私は、初めて天位を承けて、王朝の祠を祀り続ける場を得ることができたが、明らかに徳を覆い隠すことが有って国を安らかにできなかった。そのため、陰と陽をまちがえ、寒暖の変化について行けなかった。疫病が多発し、百姓は災難を被った。それを今では罪を祓い、間違いを改めて、手厚く神祇の分を守って尽すように祭った。また、教え諭して荒廃した国々を安らかにし、従わない国々は挙兵して討った。それで、官僚は反乱を起こすことが無く、国民は逃げることが無く、教え導くことを広め、庶民は喜んで仕事を行っている。異民族は通訳を使って来朝し、海外の人々も既に帰化した。今に至って、さらに人民を調べ、長幼の序列と課役の時期を知らしめなさい」と詔勅した。秋九月の朔が甲辰の己丑の日に、始めて人民を調べて、調役を科した。これは男の獲物の貢納と女の織物の貢納をいう。これで、天神地祇に互い競争しないでお供えしたので、風や雨の時期に従って、たくさんの作物が実った。家が建ち、小作人も足りて、天下は大変平和だ。それで、天皇を褒めたたえて、御肇国の天皇と言った。十七年の秋七月の丙午の朔の日に、「船は天下の要だ。今、海辺の人達は、船が無いため荷物を歩いて運んでとても苦しんでいる。それで諸国に船舶を造るよう命じろ」と詔勅した。冬十月に、始めて船舶を造った。】とあり、十年十月乙卯朔と十二年春三月丁丑朔は標準陰暦と合致し、十一年夏四月壬子朔は3月30日で3月が小の月なら合致する。
しかし、九月甲辰朔は一月違いの10月1日であるが、この年は閏月がある年で、また、内容が律令に似通っているが、漢の武帝が教化という概念を導入していて、その中国人が帰化した可能性も有り内容に矛盾がない。 
初承天位獲保宗廟」は初代崇神天皇伊香色雄が『舊事本紀』に「伊香色雄命・・・班神物定天社國社・・・建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽」と皇祖の饒速日を祀る宗廟を建てて支配地の神々も其々祀って合致している。
『漢書』に「樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」と倭人の統一されていない百余の国々を記述し、さらに、「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」とやはり統一されていない二十余の国々を記述したが、『後漢書』には「倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國・・・倭國之極南界」と邪馬臺國を中心にした三十余国の倭国とその東に「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種」と拘奴国をはじめとする残りの七十余国が存在し、更に前漢時代まで存在した倭種でない東鯷人の国が崩壊し、漢は以降九州より東の地域を無視した。
すなわち、『後漢書』に「韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰馬韓在西有五十四國其北與樂浪南與倭接辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接凡七十八國伯济是其一國焉大者萬餘户小者數千家各在山海間地合方四千餘里東西以海為限皆古之辰國也」、『三国志』に「韓信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王・・・今辰韓人皆褊頭。男女近倭」とあるように、また、『遼史』は「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」と朝鮮半島の少なくとも西部は辰州、そして三韓は辰国と呼ばれ、その南部の辰に属していた弁辰は天神の天君を祀って、様相が倭人に近い、すなわち、辰国は倭人に近いとして、その辰人が漢と朝鮮半島で戦っていた辰国の辰人が東鯷人を滅ぼしてその朝鮮の南部地域を支配したことを示している。
まさに、前漢次代に、崇神朝の天神を祀る韓地に市を持った『山海經』「海内東經」に「大人之市在海中」と「大人国」の末裔、「国引き神話」で『出雲風土記』に「栲衾志羅紀乃三埼矣國之餘有耶見者國之餘有」と韓地を引いた国の末裔の伊香色雄は長髄彦の東鯷人二十余国を滅ぼしたと紀元前86年に高らかに宣言したのだ。
そして、神武・崇神天皇は河内・吉備・北陸・東海と勢力を拡げて、海外に進出することができるようになったため、海軍の整備で船を造らせたのであり、これ以前は、内陸の狭い領域が東征してきた神武・崇神天皇の領地だったことが解る。
また、『古事記』に西道の侵攻が記述されないのは、葛城氏の故地豊国の領域に吉備があったからで、現に『日本書紀』慶長版に「乙卯年春三月甲寅朔己未徙入吉備國起行宮以居之是曰髙嶋宮積三年間脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也」と神武東征のとき、吉備で軍備を整えていて、4道侵攻は天皇の豊国侵攻で、豊国は敗れたのである。
同じ氏族の王朝が記述しても、立場を変えると史書も変わる象徴的記述である。

2019年7月26日金曜日

最終兵器の目 崇神天皇5

  『日本書紀』慶長版は
未幾時武埴安彥與妻吾田媛謀反逆興師忽至各分道而夫從山背婦從大坂共入欲襲帝京時天皇遣五十狹芹彥命擊吾田媛之師即遮於大坂皆大破之殺吾田媛悉斬其軍卒復遣大彥與和珥臣遠祖彥國葺向山背擊埴安彥爰以忌瓮鎮坐於和珥武鐰坂上則卒精兵進登那羅山而軍之時官軍屯聚而蹢跙草木因以号其山曰那羅山更避那羅山而進到輪韓河埴安彥挾河屯之各相挑焉故時人改号其河曰挑河今謂泉河訛也埴安彥望之問彥國葺曰何由矣汝興師來耶對曰汝逆天無道欲傾王室故舉義兵欲討汝逆是天皇之命也於是各爭先射武埴安彥先射彥國葺不得中後彥國葺射埴安彥中胸而殺焉其軍衆脅退則追破於河北而斬首過半屍骨多溢故号其處曰羽振苑亦其卒怖走屎漏于褌乃脱甲而逃之知不得免叩頭曰我君故時人号其脱甲處曰伽和羅褌屎處曰屎褌今謂樟葉訛也又号叩頭之處曰我君是後倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻然其神常晝不見而夜來矣倭迹迹姫命語夫曰君常晝不見者分明不得視其尊顏願暫留之明旦仰欲覲美麗之威儀大神對曰言理灼然吾明旦入汝櫛笥而居願無驚吾形爰倭迹迹姫命心裏密異之待明以見櫛笥遂有美麗小蛇其長大如衣紐則驚之叫啼時大神有耻忽化人形謂其妻曰汝不忍令羞吾吾還令羞汝仍踐大虛登于御諸山爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居則箸撞陰而薨乃葬於大市故時人号其墓謂箸墓也是墓者日也人作夜也神作故運大坂山石而造則自山至于墓人民相踵以手遞傳而運焉時人歌之曰飫明佐介珥菟藝廼煩側屢伊辭務邏塢多誤辭珥固佐縻固辭介氐務介茂
【まだそれほど経たずに、武埴安彦と妻の吾田媛と、反逆を企てて、挙兵してたちまちやって来た。夫々の道に分かれて、男は山背から、女は大坂から、一斉に入り込んで、帝都を襲撃しようとした。その時に天皇は、五十狹芹彦命を派遣して、吾田媛の軍を攻撃した。すなわち大坂からの軍を遮って、大破した。吾田媛を殺して、のこらずその軍兵を斬った。また大彦と和珥臣の遠祖の彦國葺とを派遣して、山背に向って、埴安彦を撃たした。そこで、神に供える甕を、和珥の武鐰の坂の上に供えた。そうすると精兵を率いて、那羅山に登って進軍した。その時に官軍が一堂に集まり、蹄で草木を踏んだ。それでその山を、那羅山と名付けた。また那羅山を避けて、進んで輪韓河に着いて、埴安彦と、河を挾んで留まって、互いに挑みあった。それで、人は、改めてその河を、挑河と名付けた。今、泉河というのは訛ったものだ。埴安彦は望み見て、彦國葺に「どうして、お前は挙兵してやって来た」と聞いた。「お前は、海人にそむいて道を外した。王室を傾けようとしている。だから、義兵を集めて、お前の反逆軍を討とうとしている。これは、天皇の命令だ」と答えた。そこで各々先を争って射ちあった。武埴安彦は、先に彦國葺を射ったが、当たらなかった。後に彦國葺が、埴安彦を射ったら胸に当てて殺した。反逆軍達は脅えて退げた。それを追って河の北で破った。それで首を斬られた反逆軍は半数を超えた。屍がたくさん溢れかえった。それで、そこを羽振苑となづけられた。また、その反逆軍が怖れて逃げて、屎が、褌から漏れおちた。それで甲を脱いで逃げた。殺されることが逃れられないと知って、頭を叩いて、「我が君」といった。それで、人は、その甲を脱いだところを伽和羅となづけて、褌より屎したところをを屎褌といった。いま、樟葉というのは訛ったものだ。又、頭を叩いたところを、我君となづけた。この後に、倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻なった。しかしその神は常に昼間は会えず、夜だけやって来た。倭迹迹姫命は、夫に「あなたはいつも昼間に会えず、その尊顔をよく視ることができない。できましたら暫く留っていてください。夜が明けて、仰ぎ見てうるわしい振る舞いを見たいです」と語った。大神は「言いたいことは解った。私は明朝、お前の化粧道具入れに入っている。できたら私の姿に驚かないでくれ」と答えた。そこで倭迹迹姫命は、心の中に密に怪しんだ。夜が明けるのを待って化粧道具入れを見たら、とてもうるはしい小蛇がいた。その長さと太ささは衣の紐のようだった。それで驚いて啼き叫んだ。その時大神は恥じて、直ぐに人の姿に化けた。その妻に「お前は、表情を隠さずに私を辱めた。私は帰って、お前を辱めるぞ」と言った。それで広い荒野を踏み行き、御諸山に登った。それで倭迹迹姫命は仰ぎ見て、悔やんでしゃがみこんだ。それで箸を陰に撞いて薨じた。すなわち大市に葬った。それで、人は、その墓を、箸墓となづけた。この墓は、昼間は人が作り、夜は神が作った。それで、大坂山の石を運んで造った。すなわち山から墓に至るまで、人民があいついで、手渡しで運んだ。人は()と歌った。】とある。
この時の天皇の領土は山代の南と河内の東ということが解り、淀川が激戦地だったようだ。
また、大物主説話も『古事記』の「勢夜陀多良比賣其容姿麗美故美和之大物主神見感而其美人爲大便之時化丹塗矢自其爲大便之溝流下突其美人之富登尓其美人驚而立走伊須須岐伎乃將來其矢置於床邊忽成麗壮夫即娶」が原本で、もちろん、国譲り神話の説話だ。
崇神天皇の時代なのに、縄文から続く蛇の神の大物主と描かれているのは、人型の神ではなく動物の神、猿や烏・蜘蛛を国神とした、天神が侵入する以前の神として記述され、『古事記』の出典どおり神武東侵の記事が崇神紀に紛れ込ませた説話、神武東征とセットの説話、神武天皇の皇后の母親、「富登多多良伊須須岐比賣命」の母「勢夜陀多良比賣」の説話であることが解る。
そして、「大虛登于御諸山」と空虚な空を天ではなく「大虛」と記述し、天が空ではなく、『山海經』と同じ感覚の上流の領域が天で、日本では対馬海流の上流が天で、『山海經』でも海內經の「有國名曰朝鮮天毒其人水居・・・西南黑水之閒有都廣之野后稷葬焉其城方三百里蓋天地之中素女所出也」と黄海に天毒がいて天地之中があり、地が中国本土を含むのだから海內經の天は黄海の南である。

2019年7月24日水曜日

最終兵器の目 崇神天皇4

 『日本書紀』慶長版は
九年春三月甲子朔戊寅天皇夢有神人誨之曰以赤盾八枚赤矛八竿祠墨坂神亦以黑盾八枚黒矛八竿祠大坂神四月甲午朔己酉依夢之教祭墨坂神大坂神十年秋七月丙戌朔己酉詔群卿曰導民之本在於教化也今既禮神祇灾害皆耗然遠荒人等猶不受正朔是未習王化耳其選群卿遣于四方令知朕憲九月丙戌朔甲午以大彥命遣北陸武渟川別遣東海吉備津彥遣西道丹波道主命遣丹波因以詔之曰若有不受教者乃舉兵伐之既而共授印綬爲將軍壬子大彥命到於和珥坂上時有少女歌之曰瀰磨紀異利寐胡播揶飫迺餓鳥塢志齊務苫農殊末句志羅珥比賣那素寐殊望於是大彥命異之問童女曰汝言何辭對曰勿言也唯歌耳乃重詠先歌忽不見矣大彥乃還而具以狀奏於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命聰明叡智能識未然乃知其歌恠言于天皇是武埴安彥將謀反之表者也吾聞武埴安彥之妻吾田媛密來之取倭香山土裹領巾頭祈曰是倭國之物實則反之是以知有事焉非早圖必後之於是更留諸將軍而議之
【九年の春三月の朔が甲子の戊寅の日に、天皇の夢に神が立ち、「赤盾を八枚・赤矛を八竿で、黒坂神を祠りなさい。また黒盾を八枚・黒矛を八竿で、大坂神を祠りなさい」と諭された。四月の朔が甲午の己酉の日に、夢の教えに従って、墨坂神・大坂神を祭った。十年の秋七月の朔が丙戌の己酉の日に、群卿に「人民を指導する基本は、説き教えることにある。今、既に神祇を礼拝して、災害は全て見られなくなったが、遠くの荒果てた国の人達は、まだ天子の統治を受け入れていない。これはいまだに天子の徳によって人々が従うことを知らないからだ。群卿を選んで、四方に派遣して、私の掟を知らしめろ」と詔勅した。九月の朔が丙戌の甲午の日に、大彦命を北陸に派遣した。武渟川別を東海に派遣した。吉備津彦を西道に派遣した。丹波道主命を丹波に派遣した。それで「もし教を受け入れない者がいたら、直ちに挙兵して伐て」と詔勅した。すでにみな印綬を授けられて將軍に就任していた。壬子の日に、大彦命が、和珥坂のほとりに着いた。その時に少女がいて、()と歌った。そこで大彦命はあやしいと思って、童女に「お前の言葉は何事だ」と聞くと、「何も言っていない。ただ歌っただけだ」と答えた。それで、再び今の歌を歌って、たちまち見えなくなった。大彦はそれで帰還して、つぶさに状況を奏上した。そこで、天皇の姑の倭迹迹日百襲姫命は、賢い知恵で、よく何事かが起こる前に考えなさい。すなわちその歌の疑わしさが解って、天皇に、「これは、武埴安彦が謀反を起こす兆しだ。私は、武埴安彦の妻の吾田媛が、密かにやって来て、倭の香山の土を取って、ひれを頭に被って『私は、倭国の大本にしてほしい』と祈り、そうして帰っていったと聞いた。この祈りで、異変を知った。早く対処しなければ、必ず後れを取ります」と言った。そこで、さらに將軍達を留めて、話し合った。】とある。
紀元前89年の崇神九年四月甲午朔は3月30日で九年春三月甲子朔は標準陰暦と合致せず、紀元前58年崇神40年なら共に合致し、前項の紀元前53年の元号の開始となる王朝建国の直前で、理に適い、神武東征の時の「國見丘上則有八十梟帥又於女坂置女軍男坂置男軍墨坂置焃炭其女坂男坂墨坂之号由此而起也復有兄磯城軍」と同じ内容で、楯・矛の代わりに「此埴造作八十平瓮天手抉八十枚」で、武埴安彦が兄磯城で大彦が弟磯城で、伊香色雄が神武天皇となり同じ構図である。
武埴安彦の妻の吾田媛の名は『日本書紀』の神武紀「太子長而娶日向國吾田邑吾平津媛爲妃」の吾田邑の姫すなわち吾田姫で、「火闌降命即吾田君小橋等之本祖也」と『日本書紀』の神武天皇の世界と重なってしまう。
『舊事本紀』の崇神紀にはこの説話が無く、神武東征に記述され、『古事記』は崇神記に記述され、『古事記』の崇神記が『舊事本紀』の神武紀で、『日本書紀』は神武紀が『古事記』の崇神記で『日本書紀』の崇神紀が『舊事本紀』の神武紀に対応しているようだ。

2019年7月22日月曜日

最終兵器の目 崇神天皇3

  『日本書紀』慶長版は
當歸伏秋八月癸卯朔己酉倭迹速神浅茅原目妙姫穗積臣遠祖大水口宿祢伊勢麻績君三人共同夢而奏言昨夜夢之有一貴人誨曰以大田田根子命爲祭大物主大神之主亦以市磯長尾市爲祭倭國魂神主必天下太平矣天皇得夢辭益歡於心布告天下求大田田根子即於茅渟縣陶邑得大田田根子而貢之天皇即親臨于神浅茅原會諸王卿及八十諸部而問大田田根子曰汝其誰子對曰父曰大物主大神母曰活玉依媛陶津耳之女亦云奇日方天日方武茅渟祇之女也天皇曰朕當榮樂乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者吉之又卜便祭他神不吉十一月丁卯命伊香色雄而以物部八十平所作祭神之物即以大田田根子爲祭大物主大神之主又以長尾市爲祭倭大國魂神之主然後下祭他神吉焉便別祭八十萬群神仍定天社國社及神地神戸於是疫病始息國內漸謐五穀既成百姓饒之八年夏四月庚子朔乙卯以髙橋邑人活日爲大神之掌酒冬十二月丙申朔乙卯天皇以大田田根子令祭大神是日活日自舉神酒獻天皇仍歌之曰能瀰枳破和餓瀰枳那羅孺椰磨等那殊於明望能農之能介瀰之瀰枳伊句臂佐伊久臂佐如此歌之宴于神宮即宴竟之諸大夫等歌之曰磨佐開瀰和能等能能阿佐妬珥毛伊弟氐由介那瀰和能等能渡塢於茲天皇歌之曰宇磨佐階瀰和能等能能阿佐妬珥毛於辭寐羅箇祢瀰和能等能渡焉(烏)即開神宮門而幸行之所謂大田田根子今三輪君等之始祖也
【秋八月の朔が癸卯の己酉の日に、倭迹速神淺茅原目妙姫穗積臣の遠祖の大水口宿禰と伊勢麻績君の三人が共に同じ夢を見て、「昨夜、夢を見て、一人の貴人がいて、『大田田根子命に、大物主大神を祭る神主として、また、市磯長尾市を、倭の大國魂神を祭る神主とすれば、必ず天下は穏やかに治まる』と諭された」と奏上した。天皇は、夢の話を聞いて、益々心から歓んだ。広く一般に告げ知らせて、大田田根子を求めて、茅渟縣の陶邑に大田田根子を見つけた。天皇は親ら神淺茅原に行って、諸王卿及び八十諸部を集めて、大田田根子に「お前は誰の子だ」と聞いた。「父は大物主大神という。母は活玉依媛という。陶津耳の娘だ」と答えた。また「奇日方天日方武茅渟祇の娘だ」と言った。天皇は「私は、これで豊かに栄えるだろう」と言った。すなわち物部連の祖の伊香色雄に、神のお告げを聞く者にしようと占うと吉と出た。また、他の神を祭ることを占うと不吉とでた。十一月の朔が丁卯の己卯日に、伊香色雄に物部の八国風の十の盞で、神を祀る物とするよう命じた。すなわち大田田根子に、大物主大神を祭る神主とさせた。また、長尾市に、倭の大国魂神を祭る神主とさせた。この後、他の神を祭ることを占うと、吉と出た。それで別に八国の十柱の萬神の群神を祭った。それで天杜・国杜、及び神地・神戸を定めた。それで、やっと疫病が終息しだして、国内が段々安らかになった。五穀が実り、百姓は豊かになった。八年の夏四月の朔が庚子の乙卯の日に、高橋邑の人の活日を、大神の酒造にした。冬十二月の朔が丙申の乙卯の日に、天皇は大田田根子に、大神を祭らせた。この日に、活日が自ら神酒を捧げて、天皇に献上した。それで、()此のように歌って、神宮で酒盛りした。すなわち宴会が終わって、諸大夫等が()と歌ったので、天皇も()と歌って三輪の殿門、即ち神宮の御門を開いて、行幸した。大田田根子は、今の三輪君等の始祖だ。】とある。
七年八月癸卯朔と八年四月庚子朔は標準陰暦と合致するが、七年十一月丁卯朔は合致せず、合致するのは崇神44年の紀元前54年で、伊香色雄が神と国民の間に立つ天皇に就任し、三輪宮の門が御門と呼ばれ、すなわち朝廷のことで、翌紀元前53年から元号が始まったと『二中歴』が記述している。
『二中暦』に「継体五年 元丁酉」と517年に継体元年、そして、前文に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と年号が始まって569年経って、その間結縄刻木だったが、年号が始まって569年後の517年に継体年号が紙もしくわ扶桑の皮に記述されたと述べている。
そして、「物部連等祖宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也・・・大夫者今大連大臣」とあるように、物部氏の伊香色雄と三輪君の祖の大田田根子が皇太子と同等の地位を得たと記述している。

2019年7月18日木曜日

最終兵器の目 崇神天皇2

 『日本書紀』慶長版は
五年國內多疾疫民有死亡者且大半矣六年百姓流離或有背叛其勢難以德治之是以晨興夕惕請罪神祇光是天照大神和大國魂二神並祭於天皇大殿之內然畏其神勢共住不安故以天照大神託豊鍬入姫命祭於倭笠縫邑仍立磯堅城神籬亦以日本大國魂神託渟名城入姫命令祭然渟名城入姫髮落體痩而不能祭七年春二月丁丑朔辛卯詔曰昔我皇祖大啓鴻基其後聖業逾髙王風博盛不意今當朕世数有災害恐朝無善政取咎於神祇耶蓋命神龜以極致灾之所由也於是天皇乃幸于神浅茅原而會八十萬神以卜問之是時神明憑倭迹迹日百襲姫命曰天皇何憂國之不治也若能敬祭我者必當自平矣天皇問曰教如此者誰神也荅曰我是倭國域內所居神名爲大物主神時得神語隨教祭祀然於事無驗天皇乃沐浴齋戒潔淨殿內而祈之曰朕禮神尚未盡耶何不享之甚也冀亦夢教之以畢神恩是夜夢有一貴人對立殿戸自稱大物主神曰天皇勿復爲愁國之不治是吾意也若以吾兒大田田根子令祭吾者則立平矣亦有海外之國自當歸伏
【五年に、国内に疫病が多発して、死亡する人が有って国民の半数に達するほどだった。六年に、百姓が土地を放棄して逃げ出した。あるいは反乱を起こすものもいた。その勢力は、仁徳で治めることが難しかった。それで、朝から夕まであやぶみ恐れ、神祇に咎めを頼んだ。これより先に、天照大神・倭大国魂の二柱の神を、天皇の大殿の中に並べて祭った。それでその神の勢いを畏れ、天皇が神と共に住むことが不安だった。それで、天照大神を、豐鍬入姫命に託し、倭の笠縫邑に祭った。れで磯堅城の臨時の依り代を建てた。また、倭大国魂神を、渟名城入姫命に託して祭らせた。しかし、渟名城入姫は、髪が抜け落ち窶れて祭ることが出来なかった。七年の春二月の朔が丁丑の辛卯の日に、「昔、我が皇祖は、大業の基をひらいた。その後に、神聖な事業はいよいよ高まり、王風は盛んに広がった。いま我が世になって、数々の災害が有ろうとは思わなかった。おそらく、朝廷が善政を行わず、咎を神祗が原因とした。どうして神や占いに頼まないで、災いを来した理由を知ることができるのか」と詔勅した。そこで、天皇は、神淺茅原に出向いて、八国の十の萬神を集めて、占いを聞いた。この時に、天照大神が倭迹迹日百襲姫命に憑いて「天皇よ、どうして国が治まらないことを憂いている。もしよく私を敬って祭れば、必ず自から平らぐ」と言った。天皇は、「このように教えるのはどの神か」と問いかけた。「私は倭国の域内にいる神、名は大物主神という」と答えた。その時に、神の言葉を得て、教えのとおりに祭祀した。それでもなお効果が無かった。天皇は、沐浴して身を清め、殿内を浄めて、「私の、神に対する拝礼はまだ不十分で、全く受けたまわっていない。出来ましたら夢の中で教えて、神の恵みで禍を終わらせてください」と祈った。この夜の夢に、一人の貴人が出てきて御殿の戸をじっと睨んで、自ら大物主神と名乗って「天皇よ、嘆くな。国が治らないのは、私の意思だ。もし我が子の大田田根子に、私を祭らせれば、たちどころに平ぐだろう。また海外の国が有って、自から服従するだろう」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は『古事記』にも記述され大物主は伊須氣余理比賣の父だが、『舊事本紀』には記述されず、『日本書紀』はこの記述が大物主の初見で、『古事記』に「大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毗賣生子名櫛御方命之子飯肩巣見命之子建甕槌命之子・・・御諸山拝祭意富美和之大神前」としているが、『舊事本紀』は「兒大己貴神孫都味齒八重事代主神三世天日方奇日方命四世建飯勝命と出雲臣女子の子五世建甕槌命六世建甕依命七世大御氣主命八世建飯賀田須命九世孫大田田祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻生一男」と異なり『古事記』も大物主を祀らないで「意富美和之大神前」と記述するのみで、実際は神武天皇の義父事代主を祀っていると考えられ、出雲氏と大きなかかわりがある。
『舊事本紀』は葦原中国に天下りする時に、高皇産靈が大物主に娘三穂津姫を娶らせ、「大物主神冝領八十萬神永爲皇孫奉護」と「八十萬神を率いよ」と実質は葦原中国を支配したとしていて、すなわち、この大田田祢古説話は出雲周辺の説話を流用した説話で、大巳貴に国譲りさせた時、「遣經津主神武甕槌神」と大田田祢古の父と同名の武甕槌が派遣され、「櫛玉八神以爲膳夫獻御饗」と曽祖父と似た名前の櫛御方と似た櫛玉八神がお祝いの席を設けた。
すなわち、『古事記』の葛城神武天皇は「なか」国で地位を得た話と畿内に侵入した話が合算された説話ということで、大田田祢古は崇神天皇の時に三輪神が祀られていたが、三輪神に大田田祢古の先祖の事代主や大国主を襲名した大巳貴も祀らせ、全く異なる神だが、大国主イコール大物主イコール三輪神という伝説を作ったということだ。
やはり、崇神紀も神武紀と同様に「なか国」の説話を大和の説話に挿入している、すなわち、複数の神武天皇の片割れが崇神天皇である。

2019年7月15日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第五 崇神天皇1

 『日本書紀』慶長版は
御間城入彥五十瓊殖天皇稚日本根子大日日天皇第二子也母曰伊香色譴命物部氏遠祖大綜麻杵之女也天皇年十九歲立爲皇太子識性聰敏幼好雄略既壯寛博謹愼崇重神祇恒有經綸天業之心焉六十年夏四月稚日本根子彥大日日天皇崩元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位尊皇后曰皇太后二月辛亥朔丙寅立御間城姫爲皇后先是后生活目入彥五十狹茅天皇彥五十狹茅命國方姫命千千衝倭姫命倭彥命五十日鶴彥命又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豊城入彥命豊鍬入姫命次妃尾張大海媛生八坂入彥命淳名城入姫命十市瓊入姫命是年也太歲甲申三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮
【御間城入彦五十瓊殖天皇は、稚日本根子彦大日日天皇の第二子だ。母を伊香色謎命という。物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘だ。天皇は、年齢が十九歳で、皇太子に立った。物事をすばやく判断し幼いうちからすぐれた計画を立てることを好んだ。幼いうちから勇ましく、自分が間違っていたらすぐに認めるように(雖褐寬博吾不惴焉:孟子)慎み深く、神祇を崇んで重んじた。つねに天子の事業を秩序を以て治めた。六十年の夏四月に、稚日本根子彦大日日天皇が崩じた。元年の春正月の朔が壬午の甲午の日に、皇太子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后とよんだ。二月の朔が辛亥の丙寅の日に、御間城姫を皇后に立てた。これより前に、后は、活目入彦五十狹茅天皇・彦五十狹茅命・國方姫命・千千衝倭姫命・倭彦命・五十日鶴彦命を生んだ。又、妃に紀伊國の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛は、豐城入彦命・豐鍬入姫命を生んだ。次妃の尾張大海媛は、八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命を生んだ。この年は、太歳甲申だった。三年の秋九月に、都を磯城に遷した。これを瑞籬の宮いった。】とあり、元年二月辛亥朔は1月30日、『舊事本紀』も同じで1月が小の月なら合致し、元年正月壬午朔は標準陰暦と合致する。
天皇は長男なので皇后の御間城姫の宮の磯城に遷都して、義父は「母皇后曰御間城姫大彦命之女」と大彦の娘で磯城縣主の娘婿の子の孝元天皇と正統の物部氏の欝色謎の長男で正統の皇太子だった人物の娘で磯城縣主の宮に遷都した。
この天皇の妃とする「紀伊國荒河戸畔女」、『古事記』「木國造名荒河刀弁之女」と記述され子が豐城入彦命・豐鍬入姫で豊国で生まれていて、木國造は「木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿祢の家系で建内宿祢が豊国を支配したことを示し、もう一人の妃は「尾張大海媛」で尾張氏の系図を示した。
『舊事本紀』天孫本紀 は「弟伊香色雄命此命春日宮御宇天皇御世以爲大臣磯城瑞籬宮御宇天皇御世詔大臣」と磯城瑞籬宮でも大臣と記述するが、天皇本紀では春日宮に記述するだけで、磯城瑞籬宮では天皇になったことを示し、垂仁天皇の時に「大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と物部連公の姓を与えられ、天皇でなくなった。
さらに、『日本書紀』慶長版は
四年冬十月庚申朔壬午詔曰惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者豈爲一身乎蓋所以司収人神經綸天下故能世闡玄功時流至德今朕奉承大運愛育黎元何當聿遵皇祖之跡永保無窮之祚其群卿百僚竭爾忠貞並安天下不亦可乎
【四年の冬十月の朔が庚申の壬午の日に、「我が皇祖である祖父は、諸天皇を敬ってこの国にやって来たので、(父が引き継いだ)帝位は、自分一人のものではないので、人神を養い治めて、天下を治めととのえた。だから、世の根源を(玄:老荘思想)大きな政策とした功績で、最上の徳を得ることができた。今、私は大きな定めを承って、人民を愛んで養う。皇祖の功績の道筋に従わないで、どの様にして永遠に天子の位を保つ事が出来ようか。群卿百僚よお前たちが私によく仕えて、一緒にに天下を安らかにするのもよいではないか」と詔勅した。】と訳してみたが、この干支は11月1日か崇神35年10月1日で、内容としては3代目の天皇の就任の辞で崇神35年が妥当で、崇神12年が2代目で実質の王朝建国となる。
そして、崇神天皇から詳細な記述が始まるが、これまでの宮の始まりの干支や宮の創建時の儀式や宮を閉じるときの儀式の記録に対し、より細かな記録が文字の導入によって記述されたことを意味する。
そして、目を引くのが『三国史記』の記事の絶対年代は合致していないが、中国の『三国志』の記事とは合致していることで、その理由は、漢から元号という絶対年代が登場したことと、倭奴国が中国の冊封体制に入ったからと考えた。
だから、欠史八代が発生するのであり、もし、創作なら適当に創ってしまえばよいのであり、それが無いのは創作でない証拠で、『二中歴』は漢に影響されたのか紀元前53年から元号を始めたと記述している。
そして、もう一つ不思議なことが、立太子以前に皇太子がいるにもかかわらず立太子記事があり、私は、この記事が中国元号と対応させることが出来る目印だと考えた。
立太子するということは、長男でない皇子が皇太子になることを意味し、『日本書紀』は本来、王朝を閉じる時が長男でない皇子の皇位継承であり、それと別枠で立太子させているのは死亡記事の王朝と別の王朝が立太子して王朝交代したことを意味している。
たとえば、綏靖天皇二五年に立太子しているが、これは、綏靖朝と別の王朝の25年目にその別の王朝が倒れて新たな長男でない王朝が始まったことを意味し、別の王朝の綏靖天皇二五年は別の王朝の安寧元年を意味するということである。
この方法で、別王朝の年表を作成すると垂仁天皇のときに、景行・成務・仲哀・神功が垂仁天皇にすっぽり入ってしまい、垂仁朝のとき3から4王朝が並行して存在し、神功40年を「四十年魏志云正始元年」と240年にすると、漢の恵帝の時の元号の孝恵元年・紀元前194年頃から神武天皇に当てはめる倭奴国の王朝が始まり、その32年後に綏靖朝に当てはめた倭奴国の王朝が始まったということだ。

2019年7月12日金曜日

最終兵器の目 開化天皇

 『日本書紀』慶長版は
稚日本根子彥大日日天皇大日本根子彥國牽天皇第二子也母曰欝色譴命穗積臣達祖欝色雄命之妹也天皇以大日本根子彥國牽天皇二十二年春正月立爲皇太子年十六五十七年秋九月大日本根子彥國牽天皇崩冬十一月辛未朔壬午太子即天皇位元年春正月庚午朔癸酉尊皇后曰皇太后冬十月丙申朔戊申遷都于春日之地是謂卒川宮是年也太歲甲申五年春二月丁未朔壬子葬大日本根子彥國牽天皇于剱池嶋上陵六年春正月辛丑朔甲寅立伊香色譴命爲皇后后生御間城入彥五十瓊殖天皇先是天皇納丹波竹野媛爲妃生彥湯彥隅命次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王二十八年春正月癸巳朔丁酉立御間城入彥尊爲皇太子年十九六十年夏四月丙辰朔甲子天皇崩冬十月癸丑朔乙卯葬于春日卒川坂本陵
【稚日本根子彦大日日天皇は、大日本根子彦國牽天皇の第二子だ。母を、欝色謎命という。穗積臣の遠祖の欝色雄命の妹だ。天皇は、大日本根子彦國牽天皇の二十二年の春正月に、皇太子に立った。年齢は十六歳だった。五十七年の秋九月に、大日本根子彦國牽天皇が崩じた。冬十一月の朔が辛未の壬午の日に、太子は、天皇に即位した。元年の春正月の朔が庚午の癸酉の日に、皇后を尊んで皇太后という。冬十月の朔が丙申の戊申の日に、都を春日の率川に遷した。この年は太歳甲申だった。五年の春二月の朔が丁未の壬子の日に、大日本根子彦國牽天皇を劒の池の嶋の上の陵に葬った。六年の春正月の朔が辛丑の甲寅の日に、伊香色謎命を立てて皇后とした。后は御間城入彦五十瓊殖天皇を生んだ。これより先に、天皇は、丹波竹野媛を召して妃とした。彦湯産隅命を生む。次妃の和珥臣の遠祖の姥津命の妹の姥津媛は、彦坐王を生んだ。二十八年の春正月の朔が癸巳の丁酉の日に、御間城入彦尊を、皇太子に立てた。年齢は十九歳だった。六十年の夏四月の朔が丙辰の甲子の日に、天皇は崩じた。冬十月の朔が癸丑の乙卯の日に、春日の率川の坂本の陵に葬った。】とあり、六年春正月辛丑は12月30日、六十年夏四月丙辰は3月30日で、他は標準陰暦と合致する。
開化天皇は兄大彦から政権を奪って欝色雄の春日宮に遷都して磯城の天皇の皇后を春日に迎えいれ、『舊事本紀』に「八年春正月以大祢大綜押命為大臣・・・二月伊香色雄命爲大臣」と皇太子と同じ権力を持つ大臣となり、伊香色雄は「大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神以為國家」と石上神宮に天皇の璽を奉納し伊香色雄が天皇ということになる。
出雲の醜から鬱の色雄そして伊香の色雄と色雄の名を襲名し、色雄が天皇の璽を持って、神武天皇の侵略前夜、物部氏から神武天皇が天皇の璽を得て即位することになる。
天皇になった伊香色雄は「山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男倭志紀彦女真鳥姫爲妾生一男」と何人も妃のための後宮を持ち、伊香色雄が皇太子大臣で「在山代國我之庶兄建波迩安王」と山代は埴安の支配する土地、その土地を義父に与えて、義父は大彦すなわち尾張氏で、大彦の家系は次代の天皇で、皇子に倭彦がいる。
『古事記』は「娶葛城之垂見宿祢之女鸇比賣生御子建豊波豆羅和氣・・・迦迩來米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王」と孝元記の建内宿祢と同様に息長帯比賣の葛城氏との血縁関係を強調し、葛城氏も宿祢という天皇に対抗する氏族になり、本家の葛城氏に対して分家の建内宿祢の葛城氏は「稚」国の根子の地位となった。
注目すべきは、同じく『古事記』に「日子坐王・・・娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王・・・其美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女生子比婆須比賣命次真砥野比賣命次弟比賣命次朝庭別王此朝庭別王」と近淡海に銅鐸を持つ伊勢遺跡の朝庭がもう一つあり、『日本書紀』「次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王」と和珥臣が別朝廷で、「天足彥國押人命此和珥臣等始祖也」、『舊事本紀』に「七世孫大御氣主命此命大倭國民磯姫生二男八世孫阿田賀田須命和迩君等祖」と和珥臣は天日方奇日方の家系のようだ。
この開化朝廷は天日方奇日方・磯城津彦の建()氏と宇摩志麻治の物部氏と高倉下の神武天皇・尾張氏が重なった『舊事本紀』が記述する神武東征の舞台背景で、葛城氏の稚日本根子彦のような倭の官職名が消えた、すなわち、神倭国や大(国の)倭国の直属の配下から違う勢力の配下、天皇の直属の配下となったことを示している。

2019年7月10日水曜日

最終兵器の目 孝元天皇

 『日本書紀』慶長版は
大日本根子彥國牽天皇大日本根子彥太瓊天皇太子也母曰細媛命磯城縣主大目之女也天皇以大日本根子彥太瓊天皇三十六年春正月立爲皇太子年十九七十六年春二月大日本根子彥太瓊天皇崩元年春正月辛未朔甲申太子即天皇位尊皇后曰皇太后是年也太歲丁亥四年春三月甲申朔甲午遷都於輕地是謂境原宮六年秋九月戊戌朔癸卯葬大日本根子彥太瓊天皇于片丘馬坂陵七年春二月丙寅朔丁卯立欝色譴命爲皇后后生二男一女第一曰大彥命第二曰稚日本根子彥大日日天皇第三曰倭迹迹姫命妃伊香色譴命生彥太忍信命次妃河內青玉繋女埴安媛生武埴安彥命兄大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖也彥太忍信命是武內宿祢之祖父也二十二年春正月己巳朔壬午立稚日本根子彥大日日尊爲皇太子年十六五十七年秋九月壬申朔癸酉大日本根子彥牽天皇崩
【大日本根子彦國牽天皇は、大日本根子彦太瓊天皇の太子だ。母を細媛命という。磯城縣主の大目の娘だ。天皇は、大日本根子彦太瓊天皇の三十六年の春正月に、皇太子に立った。年齢は十九歳だった。七十六年の春二月に、大日本根子彦太瓊天皇が崩じた。元年の春正月の朔が辛未の甲申の日に、太子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と呼んだ。この年は太歳丁亥だ。四年の春三月の朔が甲申の甲午の日に、都を輕の地に遷した。これを境原の宮といった。六年の秋九月の朔が戊戌の癸卯の日に、大日本根子彦太瓊天皇を片丘の馬坂の陵に葬った。七年の春二月の朔が丙寅の丁卯の日に、欝色謎命をたてて皇后とした。后は、二柱の男児と一柱の女児を生んだ。第一を大彦命という。第二を稚日本根子彦大日日天皇という。第三の柱を倭迹迹姫命という。妃の伊香色謎命は、彦太忍信命を生む。次妃の河内の青玉繋の娘の埴安媛は、武埴安彦命を生む。兄の大彦命は、阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹狹城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣、すべてで七族の始祖だ。彦太忍信命は、武内宿禰の祖父だ。二十二年の春正月の朔が己巳の壬牛の日に、稚日本根子彦大日日尊を皇太子に立てた。年齢は十六歳だった。五十七年の秋九月の朔が壬申の癸酉の日に、大日本根子彦國牽天皇が崩じた。】とあり、元年春正月辛未は12月30日、四年春三月甲申は前月が小の月で3月2日、六年秋九月戊戌は8月30日でどの月が大の月でどの月が小の月なのかの判断の違いで、他は標準陰暦と合致する。
この天皇は長男(実際は次男で長男は天皇と一心同体で記述されない可能性が高い)なので、皇后の住む宮に入り婿で遷って、前天皇の皇后を新しい宮の輕地に呼び寄せたのであり、この天皇は義兄欝色雄(出雲出身で欝に住む)の物部氏を背景とした天皇となり、そして、長男の大彦は 筑紫國造・越國造の祖と大国主が領地にした土地を領有したと記述する。
「河内青玉繋女埴安媛」は『舊事本紀』に「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と河内と鳥見は隣り合わせで、神武東征で五瀬が負傷したのは茅淳で河内の近辺だった。
そして、『舊事本紀』に「欝色雄命・・・活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻生一兒」と長髄彦とよく似た名前の王の妹が欝色雄の妃で、『舊事本紀』に大彦と武埴安彦の戦いや大田田根子の説話が無いなどから、『舊事本紀』の神武説話が大彦と武埴安彦の戦いと述べた。
そして、『古事記』は「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」とあり、もちろん、比古布都押之信から建内宿祢までに数代の長男継承があるが、葛城氏の領地に婿入りした比古布都押之信の末裔が倭国造の本家で後に木國造になる宇豆比古の妹との子が建内宿祢で、建内宿祢の名の建は名門の建氏の人物で、欝の王である。
すなわち、この天皇説話は物部氏を背景とした朝廷で「鬱色雄命爲大臣」と鬱色雄(出雲醜・出雲色雄)大臣は皇太子と同等となり、物部氏の分家で磯城瑞籬宮で崇神天皇(実質の神武天皇)が即位し、皇太后の父が磯城王(縣主)と長髄彦の王朝が記述され、葛城氏は倭国造で重職にあり、葛城王の皇子を婿に迎え入れることになる尾張氏と義兄弟の王である。
すなわち、この天皇の時に饒速日(出雲)が天降して磯城彦大目の娘真鳥(御炊屋姫)を妃として宇摩志麻治(鬱色雄)が生まれた物部王朝の始まりを記述したのである。

2019年7月8日月曜日

最終兵器の目 孝靈天皇

 『日本書紀』慶長版は
大日本根子彥太瓊天皇日本足彥國押人天皇太子也母曰押媛蓋天足彥國押人命之女乎天皇以日本足彥國押人天皇七十六年春正月立爲皇太子百二年春正月日本足彥國押人天皇崩秋九月甲子朔丙午葬日本足彥國押人天皇于玉手丘上陵冬十二月癸亥朔丙寅皇太子遷都於黑田是謂廬戸宮元年春正月壬辰朔癸卯太子即天皇位尊皇后曰皇太后是年也太歲辛未二年春二月丙辰朔丙寅立細媛命爲皇后后生大日本根子彥國牽天皇妃倭國香媛生倭迹迹日百襲姫命彥五十狹芹彥命倭迹迹稚屋姫命亦妃絙某弟生彥狹嶋命稚武彥命弟稚武彥命是吉備臣之始祖也三十六年春正月己亥朔立彥國牽尊爲皇太子七十六年春二月丙午朔癸丑天皇崩
【大日本根子彦太瓊天皇は、日本足彦國押人天皇の太子だ。母を押媛という。おもうに天足彦國押人命の娘か。天皇は、日本足彦國押人天皇の七十六年の春正月に、皇太子に立った。百二年の春正月に、日本足彦國押人天皇が崩じた。秋九月の朔が甲午の丙午の日に、日本足彦國押人天皇を玉手の丘の上の陵に葬った。冬十二月の朔が癸亥の丙寅の日に、皇太子は、都を黒田に遷した。これを廬戸の宮いった。元年の春正月の朔が壬辰の癸卯の日に、太子は、天皇に即した。皇后を尊んで皇太后と言った。この年は太歳辛未だった。二年の春二月の朔が丙辰の丙寅の日に、細媛命を立てて、皇后した。后は、大日本根子彦國牽天皇を生んだ。妃の倭國香媛、は倭迹迹日百襲姫命・彦五十狹芹彦命・倭迹迹稚屋姫命を生む。次の妃の絙某弟は彦狹嶋命・稚武彦命を生んだ。弟の稚武彦命は、吉備臣の始祖だ。三十六年の春正月の己亥朔の日に、彦國牽尊を皇太子に立てた。七十六年の春二月の朔が丙午の癸丑の日に、天皇が崩じた。】とあり、七十六年春二月丙午は1月30日で概ね、他は標準陰暦と合致する。
孝安天皇には孝靈天皇しか皇子がいないので、宮を移っただけで、その宮黒田は普通に考えれば皇后の宮で、現代でも磯城郡に黒田があって、皇后は「細媛命磯城縣主大目之女」と磯城縣主の娘なのだから、葛城から磯城に遷都して、前皇后を迎え入れたと記述している。
このように、天皇が居て皇后が居て、皇太后が居て、記述されない長男皇太子がいることで王朝が成立し、宮を朝廷として経営し、長男が生まれなかった時に、次男の大日本根子彦太瓊天が妻の宮の秋津嶋に婿入りしていたので、その宮で即位したという最小の系図を表し、そのような他の王家の系図を一纏めにしたのが雄略天皇の時代で、次代の宮の王家の姫を亦の名や一書を纏められた王家としたことを表している。
そして、この天皇から複数の妃を持つようになったが、『舊事本紀』の物部氏の妃は複数いないので、実際は葛城彦と倭国造と磯城彦の3つ巴の状態だった可能性があり、『舊事本紀』は「磯城津彦玉手看尊母日五十鈴媛命事代主神之少女」、『古事記』は「片塩浮穴宮治天下也此天皇娶河俣毗賣之兄縣主波延」と実際の皇后が磯城縣主波延の妹かどうか解らないが、『日本書紀』には記録としてではないが、記述時の考察として安寧天皇に「一書云磯城縣主葉江女川津媛」、懿德天皇に「一云磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛」、孝昭天皇に「一云磯城縣主葉江女渟名城津媛」、孝安天皇に「一云磯城縣主葉江女長媛」と記述され、これらに加えている。
在位三十四年の懿德天皇が「一云磯城縣主葉江男弟。猪手女泉媛一云磯城縣主太眞稚彦女飯日媛也。」、在位百二年の孝安天皇も「一云磯城縣主葉江女長媛一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也」と在位年数にかかわらず2人で合計3世代しかないので、3人の天皇が継承と考えたがやはり3世代100年は異常なので、3王朝の並立を考えるに至った。
すなわち、葛城王朝は「葉江」に宮を置く2王朝が有り、その姫が倭國香媛(亦名絙某姉)と絙某弟で「珍彥爲倭國造」と珍彦が兄磯城に代わって倭国造になり「葉江姉姫」と葉江に婿入りし、「弟磯城名黑速爲磯城縣主」と弟磯城もやはり「葉江」に磯城県主の宮を持ってそこの姫は「葉江姉姫」ということになる。
すなわち、代々磯城県主の姫を継承した弟磯城の家系の王家が孝安天皇まで皇位を継承してきて、孝靈天皇は磯城県主の本家を背景にした宮に遷ったので、この時、磯城県主が天皇家と同等の王家、そして倭国造も同等の王家と記述したことを意味すると考えられる。
『舊事本紀』は「三年春正月宇摩志麻治命裔孫大水口命大矢口命並為宿祢」と天皇家にたいして、更にもう一つの王家があることを記述した。
葛城氏は大倭根子と呼ばれたが、『日本書紀』は「廣田國即以山背根子之女葉山媛令祭」、「是有壹伎直真根子者」、「和珥臣祖難波根子武振熊而誅之」、『舊事本紀』には「九世孫大田田祢古命 亦名大直祢古命」、「播磨稻日太郎姬立為皇后誕生三男第一大碓命次小碓命次稚根子命矣其一」と根子は祢古、宿祢の子分のような名前、天皇家とは別王朝の王族の名前で、倭国造の直属の配下だった葛城氏は天皇家から外れ、倭国造は王を宿祢と呼んだと考えられる。

2019年7月5日金曜日

最終兵器の目 孝安天皇

 『日本書紀』慶長版は
日本足彥國押人天皇觀松彥香殖天皇第二子也母曰世襲足媛尾張連遠祖瀛津世襲之妹也天皇以觀松彥香殖稻天皇六十八年春正月立爲皇太子八十三年秋八月觀松彥香殖稻天皇崩元年春正月乙酉(巳或本)朔辛卯皇太子即天皇位秋八月辛巳朔尊皇后曰皇太后是年也太歲己丑二年冬十月遷都於室地是謂秋津嶋宮二十六年春二月己丑朔壬寅立姪押媛爲皇后后生大日本根子彥太瓊天皇三十八年秋八月丙子朔己丑葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵七十六年春正月己巳朔癸酉立大日本根子彥太瓊尊爲皇太子年二十六百二年春正月戊戌朔丙午天皇崩
【日本足彦國押人天皇は、觀松彦香殖稻天皇の第二子だ。母を世襲足媛という。尾張連の遠祖瀛津世襲の妹だ。天皇は、觀松彦香殖稻天皇の六十八年の春正月に、皇太子に立った。八十三年の秋八月に、觀松彦香殖稻天皇が崩じた。元年の春正月の朔が乙酉の辛亥の日に、皇太子は天皇に即位した。秋八月朔の辛巳に、皇后を尊んで皇太后とした。是の年は、太歳己丑。二年の冬十月に、都を室の地に遷した。これを秋津嶋の宮という。二十六年の春二月の朔が己丑の壬寅の日に、姪の押媛を立てて皇后とした。后は、大日本根子彦太瓊天皇を生んだ。三十八年の秋八月の朔が丙子の己丑の日に、觀松彦香殖稻天皇を掖上の博多山の上陵に葬った。七十六年の春正月の朔が己巳の癸酉の日に、大日本根子彦太瓊尊を、皇太子に立てた。年齢は二十六歳だった。百二年の春正月の朔が戊戌の丙午の日に、天皇が崩じた。】とあり、標準陰暦と合致する。
三十八年に前天皇を葬っているが、この年に天皇が崩御したと思われ、おそらく、この天皇も遷都のみ行ったための崩御年の異常で、この時兄弟相続が発生した可能性があり、『古事記』は「大倭帯日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也此天皇娶姪忍鹿比賣」と葛城の王である瀛津世襲の宮に遷都し、遷都の25年後、皇后に姪を立てているが、これも皇位継承が起こったことを示している。
『舊事本紀』は「妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生二皇子則彦國押人命次日本足彦國杵人天皇是也孫天戸國命天忍人命之子此命葛󠄀木避姫為妻生一男」とある。
これは天戸国が葛城に宮を持つ孝安天皇、そこの葛󠄀木王の姫を娶ったのだから姪で、天足彦國押人の娘なら和珥臣の祖で開化天皇まで出現せず、『古事記』は「天『押』帯日子」、『舊事本紀』は「彦國『押人』」と「天戸國」・「天『忍人』」と名が酷似している。
そして、三十八年に叔父の瀛津世襲の子が皇位を奪い(世襲足姫が孝昭天皇の皇后になったことで瀛津世襲と孝昭天皇は一心同体の系図になる)、腋上池心宮が置津與曽の宮で「世襲足姫」は「日置姫」すなわち置の姫だ。
そして、『舊事本紀』は「二年十月都遷室地謂秋津嶋宮三年八月宇摩志麻治命裔孫六兒命三兒命並爲足尼次爲宿祢」と宿祢の地位を物部氏に与え、同じく『舊事本紀』に「四世孫大木食命・・・出雲大臣之子弟六見宿祢命・・・弟三見宿祢命此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」と宿祢が始まったとしているが、当然これは自称で、「瀛津世襲」朝廷に対して、饒速日の宮に宿殿を建てて、その主になったことを宣言したのであろう。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に「弟出雲醜大臣命・・・倭志紀彦妹真鳥姬爲妻生三兒弟出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神」と出雲大臣・出石心大臣と皇太子と同等の権力者の子が王朝を打ち建て、磯城彦の甥が宿祢だ。
そして。葛城氏も「大倭帯日子」と大倭を統治するまでに出世したのは当然で、天皇の父羸津世襲の義兄弟が葛城氏で、「天戸國命天忍人命之子 此命葛󠄀木避姫為妻」と天皇の子の妃も葛城氏で、天皇と義兄弟の可能性が高い。
この孝安天皇の時に武氏を王家として物部氏と尾張氏と葛城氏という名門の王族が顔を揃えたことになり、出雲醜大臣が饒速日、・倭志紀彦が長髄彦、真鳥姬が御炊屋姫、弟磯城が葛城彦で天皇が天忍人といったところが神武東征に組み込まれていて、孝昭天皇以前は磯城彦の王朝氏で雄略天皇まで続く鰹木を屋根に掲げる名門の王家である。

2019年7月3日水曜日

最終兵器の目 孝昭天皇

 『日本書紀』慶長版は
觀松彥香殖稻天皇大日本彥耜友天皇太子也母皇后天豊津媛命息石耳命之女也天皇以大日本彥耜友天皇二十二年春二月丁未立爲皇太子三十四年秋九月大日本彥耜友天皇崩明年冬十月戊午朔庚午葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵元年春正月丙戌朔甲午皇太子即天皇位夏四月乙卯朔己未尊皇后曰皇太后七月遷都於掖上是謂池心宮是年也太歲丙寅二十九年春正月甲辰朔丙午立世襲足媛爲皇后后生天足彥國押人命日本足彥國押人天皇六十八年春正月丁亥朔庚子立日本足彥國押人尊爲皇太子年二十天足彥國押人命此和珥臣等始祖也八十三年秋八月丁巳朔辛酉天皇崩
【觀松彦香殖稻天皇は、大日本彦耜友天皇の太子だ。母の皇后天津媛命は、息石耳命の娘だ。天皇は、大日本彦耜友天皇の二十二年の春二月の朔が丁未の戊午の日に、皇太子に立った。三十四年の秋九月に大日本彦耜友天皇が崩じた。明年の冬十月の朔が戊午の庚午の日に、大日本彦耜友天皇を畝傍山の南の纖沙谿の上の陵に葬った。元年の春正月の朔が丙戌の甲午の日に、皇太子は、天皇に即位した。夏四月の朔が乙卯の己未の日に、皇后を尊んで皇太后と言った。秋七月に、都を掖上に遷した。これを池心の宮といった。この年は太歳丙寅である。二十九年の春正月の朔が甲辰の丙午の日に、世襲足媛を立てて皇后とした。后は、天足彦國押人命と日本足彦國押人天皇とを生んだ。六十八年の春正月の朔が丁亥の庚子の日に、日本足彦國押人尊を立てて、皇太子とした。年齢は二十だった。天足彦國押人命は、和珥臣等の始祖だ。八十三年の秋八月の朔が丁巳の辛酉の日に、天皇が崩じた。】とあり、二十九年春正月甲辰朔は前年の紀元前447年もしくは紀元前416年とどうして違うのかは情報が少なく判断できないが、これまでと違う皇后擁立で、皇后の擁立の記述は元年もしくは2年に多く記述され、紀元前447年に尾張王朝の始まりなのだろうか、そして六十八年春正月丁亥朔は12月30日で12月が小の月なら合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
この天皇は長男で妃も29年まで娶っていないので、ただ遷都したのみ、『舊事本紀』に「乃立靈疇於鳥見山中其地号曰上小野榛原下山小野榛原用祭皇祖天神焉于時皇輿巡桒因登腋々上嗛間丘而廻望國」とあり、腋上と鳥見はそれほど離れていないようで、前皇后が生存している時に遷都しているようだ。
そして、『舊事本紀』は「三十一年春正月瀛津世襲命爲大臣」と瀛津世襲が天皇の姻戚になるとすぐに皇太子と同等の大臣に就任し、瀛津世襲は同じく『舊事本紀』に「三世孫天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫非生二男次天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻生二男一女妹忍日女命四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖天忍男命之子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫為妻生一男妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生二皇子則彦國押人命次日本足彦國杵人天皇是也孫天戸國命天忍人命之子 此命葛󠄀木避姫為妻生一男」と高倉下の家系でまだ葛城と呼ばれていない地神の葛城氏の祖の劔根の娘を妃にした子が羸津世襲で、この皇子は葛城を統治する葛城彦で、羸津世襲の従弟も葛城氏の姻戚で、觀松彦は『舊事本紀』に「髙尾張邑或本云髙城邑有赤鯛八十梟帥」と髙尾張邑・髙城邑と同等で、「磯城邑有磯城八十梟帥」の磯城邑は磯城縣主と呼んだこともあるので、髙尾張縣主・觀松縣主と呼んでも良いのかもしれず、葛城氏は觀松八十梟帥と呼ばれた十勇士の一人で八国の流れをくむ氏族で、葛󠄀木彦が後に天皇となって、觀松彦が葛城氏を名乗るのである。
さらに、4世瀛津世襲が孝昭天皇と義兄弟なのに『舊事本紀』は「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」と後代の7世の人物も孝昭天皇の大臣としているように、羸津世襲と重複させていて、さらに、「十世孫淡夜別命・・・次大原足屋筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子」と「羸津世襲」の王朝が4世から10世の孫まで続いた。
すなわち、尾張王朝は紀元前447年から『舊事本紀』に「十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣」と応神天皇の前まで、9世弟彦の子で弟彦は景行天皇紀に出現したことから、神功皇后のころまで続いたことを示している。

2019年7月1日月曜日

最終兵器の目 懿德天皇

 『日本書紀』慶長版は
大日本彥耜友天皇磯城津彥玉手看天皇第二子也母曰渟名底仲媛命事代主神孫鴨王女也磯城津彥玉手看天皇十一年春正月壬戌立爲皇太子年十六三十八年冬十二月磯城津彥玉手看天皇崩元年春二月己酉朔壬子皇太子即天皇位秋八月丙午朔葬磯城津彥玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵九月丙子朔乙丑尊皇后曰皇太后是年也太歲辛卯二年春正月甲戌朔戊寅遷都於輕地是謂曲峽宮二月癸卯朔癸丑立天豊津媛命爲皇后后生觀松彥香殖稻天皇二十二年春二月丁未朔戊午立觀松彥香殖稻尊爲皇太子年十八三十四年秋九月甲子朔辛未天皇崩
【大日本彦耜友天皇は、磯城津彦玉手看天皇の第二子だ。母を渟名底仲媛命という。事代主神の孫で、鴨王の娘だ。磯城津彦玉手看天皇の十一年の春正月の壬戌の日に、皇太子となった。年齢は十六歳だった。三十八年の冬十二月に、磯城津彦玉手看天皇が崩じた。元年の春二月の朔が己酉の壬子の日に、皇太子は、天皇に即位した。秋八月の朔の丙午の日に、磯城津彦玉手看天皇を畝傍山に南の御陰の井上陵に葬った。九月の朔が丙子の乙丑の日に、皇后を尊んで皇太后言った。この年は太歳辛卯。二年春正月の朔が甲戌の戊寅の日に、都を輕の地に遷した。これを曲峽宮いう。二月の朔が癸卯の癸丑の日に、天豊津媛を皇后に立てた。后は、觀松彦香殖稻天皇を生む。二十二年の春二月の朔が丁未の戊午の日に、觀松彦香殖稻尊を皇太子に立てた。年齢は十八歳だった。三十四年の秋九月の朔が甲子の辛未の日に、天皇が崩じた。】とあり、元年八月丙午朔は7月30日、二月癸卯朔も1月30日、二十二年春二月丁未も1月30日と前月が小の月なら合致し、概ね標準陰暦と合致する。
しかし、三十四年秋九月甲子の崩御は8月で9月朔が甲子の日は紀元前446年の孝昭天皇29年で遅い世襲足媛が皇后位に就いた年になり、この年にある天皇が崩御したの可能性を否定できない。
母は磯城彦に勝った弟磯城側の鴨王建飯勝の姫で、おそらく、その宮がある輕地に遷都して、お決まりの前皇后を新しい宮に迎え入れて皇太后として、旧領地の人々も安寧させ、父親を記述しない天豐津媛を皇后にしたが、孝昭紀に「天豊津媛命息石耳命之女」とやはり正統後継の安寧天皇の皇太子の姫を娶って、一層堅固な体制にしていて、余程具合の悪い皇位継承だったのだろう。
懿德天皇は大国を背景にした天皇のようで、『舊事本紀』に「三月申食國政大夫出雲色命為大臣也」と出雲色が皇太子と同等の地位を得た。
そして、『古事記』に「軽之境崗宮治天下也此天皇娶師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命亦名飯日比賣命生御子」と、磯城縣主になる前の姫を妃にしていて、前項で述べた通り、もう一度この天皇以降に神武建国があることを示し、玉手看は大倭彦の配下となった。
『舊事本紀』に「饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見」と大倭は鳥見があるところで、出雲色が饒速日ならこの地は鵄で、長髄彦の配下になったことを意味する。
さらに、『舊事本紀』に「建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后誕生四兒即大日本根子彦耕支天皇・・・四世孫建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫生一男」と懿德天皇の叔父が出雲色の娘を妃として、さらに続けて「六世孫豊御氣主命亦名建甕依命・・・七世孫大御氣主命」と「饒速日尊便娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃」と「『みか』しきや」と同じ土地に住む姫で高倉下を祀る姫と饒速日を祀る皇子が義兄弟になり、天皇は磯城彦を義父にした、天日方奇日方の家系の天皇で『舊事本紀』の神武東侵と重なる。
ただし、渟中底姫の夫は片鹽の天皇で、『日本書紀』は綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊の妃が磯城縣主の娘と一書で記述して、孝霊天皇まで磯城王朝とする考えがあったことを意味し、孝霊天皇が建飯勝で出雲色の軍門に下り、妹が孝元天皇の妃になったことを意味しているのかもしれない。
『古事記』雄略記に「山上望國内者有上堅魚作舎屋之家天皇令問其家云其上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家」と磯城縣主の家は天皇の宮と同じ堅魚がある家で、尾張王朝が崩壊するまで千年も天皇と同じ構造の宮を持っていたことになる。