2019年5月31日金曜日

最終兵器の目 神武東征6

  『日本書紀』慶長版は
弟猾大設牛酒以勞饗皇師焉天皇以其酒宍班賜軍卒乃爲御謠之曰(略)是謂来目歌今樂府奏此歌者猶有手量大小及音聲巨細此古之遺式也是後天皇欲省吉野之地乃從菟田穿邑親率輕兵巡幸焉至吉野時有人出自井中光而有尾天皇問之曰汝何人對曰臣是國神名爲井光此則吉野首部始祖也更少進亦有尾而披磐石而出者天皇問之曰汝何人對曰臣是磐排別之子此則吉野國樔部始祖也及縁水西行亦有作梁取魚者天皇問之對曰臣是苞苴擔之子此則阿太養鸕部始祖也
【それで弟猾は、大宴席を設けて、皇軍を労って饗応した。天皇は、その肉や酒を兵士に分け与えた。そして節を付けて(略)と謡った。これを来目歌という。今、楽をつかさどる役所がこの歌を奏するのに、手拍子の大きい小さい、及び歌声の太い細いがある。これは古式に法ったものである。この後に、天皇は吉野の地を観察しようと思い、菟田の穿邑から天皇自らら護衛兵を引き連れて廻った。吉野に着いた時に、人がいて井戸の中から出てきた。後光がさして尾が有った。天皇は「お前は誰だ」と問いかけた。「私は国神です。名を井光と言います」と答えた。これが則ち吉野首部の始祖だ。さらに少し進むと、また尾が有り磐石を押し別けてきた子がいて、天皇が「お前は誰だ」と問いかけると「私は磐排別の子」と答えた。これが則ち吉野国の樔部の始祖だ。川に並行して西に行くと、またやなを作って魚を取る者がいた。天皇が同じように問いかけると、「私は苞苴擔の子です」と答えた。これは則ち阿太の養部の始祖だ。】とある。
菟田の勝利の宴席でクジラを切り分ける来目歌を謡うが、これも、平戸に7千年前のクジラ漁に必要な石器が大量に出土したつぐめのはな遺跡があり、平戸近辺の出身かも知れない来目氏が宇迦の山の戦いに協力した説話を挿し込んでいる。
続いて、『日本書紀』慶長版は
九月甲子朔戊辰天皇陟彼菟田髙倉山之巓瞻望城中時國見丘上則有八十梟帥又於女坂置女軍男坂置男軍墨坂置焃炭其女坂男坂墨坂之号由此而起也復有兄磯城軍布滿於磐余邑賊虜所據皆是要害之地故道路絶塞無處可通天皇惡之是夜自祈而寢夢有天神訓之曰宜取天香山社中土以造天平瓮八十枚幷造嚴瓮而敬祭天神地祇亦爲嚴呪詛如此則虜自平伏天皇祇承夢訓依以將行時弟猾又奏曰倭國磯城邑有磯城八十梟帥又髙尾張邑(或本云葛城邑也)有赤銅八十梟帥此類皆欲與天皇距戰臣竊爲天皇憂之宜今當取天香山埴以造天平瓮而祭天社國社之神然後擊虜則易除也天皇既以夢辭爲吉兆及聞弟猾之言益喜於懷
【九月朔が甲子戊辰の日に天皇がその菟田の高倉山の頂きのぼって領域の中心を望みその時に国見の丘の上に八十梟帥がいた。又、女坂に女の軍を置き、男坂に男の軍を置いて、墨坂に炭おこして置いた。その女坂・男坂・墨坂の由来である。また兄磯城の軍が有って、磐余邑に布を敷くように満ち、賊軍は攻防の要衝をここにしていた。それで、道路を塞いで通る所が無かった。天皇はこれを不快に思い、夜、自ら祈って寝た。夢枕に天神が出てきて「天の香山の社の中の土を取り、これで天の平な盞を八十枚造り、あわせて嚴瓮を造って天神地祇をうやまって祀り、また厳かに呪詛をしなさい。こうすれば敵は自から平伏する。」と教えた。天皇は祇の夢のお告げを承って、お告げの通りにしようとした。その時、弟猾はまた「倭国の磯城の邑に磯城の八十梟帥がいる。又、高尾張の邑に赤銅の八十梟帥がいる。こやつらはは皆、天皇を拒んで戦おうとしている。私は、ひそかに天皇の爲に憂いています。天の香山の土を取って、それで天の平らな盞を造って天社・国社の神を祭り、その後で敵を撃てば排除しやすいでしょう」と奏上した。天皇は既に夢のお告げで吉兆としていた。弟猾の言葉を聞いて、益々心から喜んだ。】とある。
日干支は標準陰暦と合致し、髙倉山に上ったのは高倉下と思われるが、この説話は今までの神話の焼きまわしではなく、逆に後代の尾張氏の神武天皇である大彦を記述する崇神紀の埴安彦の説話を挿し込んだ説話で、埴安彦が兄磯城で弟磯城が大彦で、大彦が磯城縣主となるので、懿徳天皇の妃も『古事記』では磯城縣主の祖で縣主になっていない。

2019年5月29日水曜日

最終兵器の目 神武東征5

 『日本書紀』慶長版は
既而皇師欲趣中洲而山中嶮絶無復可行之路乃棲遑不知其所跋渉時夜夢天照大神訓于天皇曰朕今遣頭八咫烏宜以爲鄕導者果有頭八咫烏自空翔降天皇曰此烏之来自叶祥夢大哉赫矣我皇祖天照大神欲以助成基業乎是時大伴氏之遠祖日臣命帥大来目督將元戎蹈山啓行乃尋烏所向仰視而追之遂達于菟田下縣因号其所至之處曰菟田穿邑于時勅譽日臣命曰汝忠而且勇加能有導之功是以改汝名爲道臣
【すぐに皇軍は中洲に向かおうしたが山の中が険しく路が無かった。それでどう足を踏み入れるたらよいか解らなかった。そんな時に夜、夢を見た。天照大神が天皇に、「私は、今、八咫の頭目の烏を派遣するから、うまく使いこなして郷の案内人としなさい」と教えた。言われた通り八咫の頭目の烏がいて、空から駆け降るように素早くやってきて、天皇は、「此の烏が来たということは、吉祥の夢が叶った。大いなるか、赫灼としている。我が皇祖天照大神が、私のすべき仕事を助けようとなさっているのか」と言った。是の時に、大伴氏の遠祖の日臣の命が、大来目を率いて、未開の人を取り締まる将軍として、山に踏み入り分け入って行き、烏の向う所を追い求めて、上目遣いで追う。ついに菟田下縣に達した。それでその着いたところを名付けて菟田の穿邑という。その時に、日臣の命に「お前は、忠臣でしかも勇敢だ。それに加えて誤りなく導いた功績が有る。それでお前の名を改めて道臣とする」と誉めて詔勅した。】とある。
ここも神話と融合した為、烏が鳥になってしまって、飛ぶとりに追いつけるはずもないのに空を仰ぎ見てとして納得させたのだろうが、実際は「八咫鏡」と同じで八咫鏡を祀る国の首領の烏のこととする方が理に適い、実際は久米氏を率いた「日(火)国」・「三身国」の日臣・道臣のことで、国譲り後の続きの説話で、『出雲風土記』の国引きの「八束水臣」の臣と共通の地位だ。
神話を5世紀の常識で記述すると、トンチンカンな表現になってしまい、烏もおそらく烏を神として祀る氏族で、蛇を祀る「於漏知」など、自然を敬い神とする縄文の信仰である。
続けて、『日本書紀』慶長版は
秋八月甲午朔乙未天皇使徴兄猾及弟猾者是兩人菟田縣之魁帥者也時兄猾不来弟猾即詣至因拜軍門而告之曰臣兄兄猾之爲逆狀也聞天孫且到即起兵將襲望見皇師之威懼不敢敵乃潛伏其兵權作新宮而殿內施機欲因請饗以作難願知此詐善爲之備天皇即遣道臣命察其逆狀時道臣命審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰虜爾所造屋爾自居之因案剱彎弓逼令催入兄猾獲罪兄於天事無所辭乃自蹈機而壓死時陳其屍而斬之流血沒踝故号其地曰菟田血原已而
【秋八月朔が甲午乙未の日、天皇は兄猾及び弟猾を呼び出した。この二人は、菟田縣で先頭に立って戦う兵士だ。その時、兄猾は来ず、弟猾は直ぐに詣でて来た。それで陣営をみて「私の兄の兄猾が反逆しようとしていて、天孫が来たと聞いて、直ぐに兵を挙げて襲撃しようとしていた。しかし、皇軍の勢力を望み見たところ、あえて敵対するのを怯えて、兵を潜伏させて、無理やり従わせて新しく砦の宮を作り、御殿の中にからくりを施し、饗宴を求め部下に苦しい思いをさせている。出来ましたら、この狡猾さを頭に入れて、正しく備えてください」と告げた。天皇は、即ち道臣の命を派遣し、その反逆の様子を観察させた。その時に、道臣の命は賊が天皇を殺害しようとしている様子を詳細に知って、大声で怒り叫んで「奴らは、お前らが作った家にはお前ら自身が居ればよい」(私が屋敷に踏み込んで殺してやる)と言った。それで、剱を準備し、弓を引き絞り、戦いが差し迫った。兄猾は、天罰で言葉も何も無く、自ら、からくりを踏み圧死した。その後にその屍をさらして斬り、流れる血はくるぶしまで没しった。それで、そこを菟田の血原と名付けた。】とある。
日付は標準陰暦と合致し、説話の内容は『古事記』の「宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理」、『舊事本紀』の「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理」と宇迦の山の説話を流用した話だ。いつでも、跡取りの兄は国の人々を守るために戦い、弟は新しい支配者について、氏族を残そうとしたのだろう。

2019年5月27日月曜日

最終兵器の目 神武東征4

 『日本書紀』慶長版は
六月乙未朔丁巳軍至名草邑則誅名草戸畔者遂越狹野而到熊野神邑且登天磐盾仍引軍漸進海中卒遇暴風皇舟漂蕩時稻飯命乃歎曰嗟乎吾祖則天神母則海神如何厄我於陸復厄我於海乎言訖乃拔剱入海化爲鋤持神三毛入野命亦恨之曰我母及姨並是海神何爲起波瀾以灌溺乎則蹈浪秀而往乎常世鄕矣天皇獨與皇子手硏耳命帥軍而進至熊野荒坂津因誅舟敷戸畔者
【六月朔が乙未の丁巳の日、皇軍は名草邑についた。名草戸畔という人物を生贄で誅殺した。そして狹野を越え、熊野の神邑についた。そして天磐盾に上陸し、また、軍を引いてしばらく海を進む。途中にわかに暴風に遇い、舟が漂流した。その時に稻飯命が歎いて、「ああ、我が祖先は天神で、母は海神だ。どうして私を陸で祟り、また私を海で祟る」と言い。言いおわると、剣を拔いて海に入り、鋤持神となった。三毛入野命も、恨んで、「我が母及び姨は二人とも海神だ。どうして大波を起こして溺れさせようとするのか」と言った。良い波に乗って、常世郷に往った。天皇は皇子手耳命一人と軍を進軍させ、熊野の荒坂津についた。それで丹敷戸畔という者を生贄に誅殺した。】と記述し、乙未は5月30日で5月が小の月なら合致し、稻飯は暴風で海に落ちて死んだので、海の守り神として祀り、三毛入野は海に踏み入ると記述して事代主と同じ死に方で、責任を取って自殺し、航海の失敗で名草・舟敷を生贄として誅殺したのだろうか。
そして、舟敷の誅殺は主語が天皇と記述し、神武天皇はまだ即位していないので、後代の天皇の説話を混入させたのかもしれず、「海中」が出現し、「中洲」・「六合」と『日本書紀』作成時の共通認識のある語句を使用しているので、神話時代の説話の混入、特に三毛入野命の常世は済州島と思われるので黄海の説話でないと成り立たない。
熊野は神話で訳した『日本書紀』に「少彥名命行至熊野之御碕遂適於常世鄕」も熊野と常世が出現し、『舊事本紀』に「速素戔鳥尊坐出雲國熊野築杵神宮矣」と出雲の熊野と出現し、「さの」の「さ」は対馬の可能性を証明しており、日本で一番有名だった「さの」の名前が熊野とセットで隠岐の素、出雲の杵築、宗像の速、紀伊の建に有り、『舊事本紀』は「狹野尊」をそのまま建国説話に使用し、国名も熊野の神邑の王がヤマトで建国した「神倭」で『山海經』大荒東經の「大人之市」は神邑の可能性がある。
続けて『日本書紀』慶長版は
時神吐毒氣人物咸瘁由是皇軍不能復振時彼處有人号曰熊野髙倉下忽夜夢天照大神謂武甕雷神曰夫葦原中國猶聞喧擾之響焉(聞喧擾之響焉此云左揶霓利奈離)宜汝更往而征之武甕雷神對曰雖予不行而下予平國之剱則國將自平矣天照大神曰諾(諾此云宇毎那利)時武甕雷神登謂髙倉下曰予剱号曰韴靈今當置汝庫裏宜取而獻之天孫髙倉曰唯唯而寤之明旦依夢中教開庫視之果有落剱倒立於庫底板即取以進之于時天皇適寐忽然而寤之曰予何長眠若此乎尋而中毒士卒悉復醒起
【熊野についた時に神が毒氣を吐いて人々がことごとくやつれさせた。それで、皇軍はまた何も振る舞うことができなかった。その時にこの地に人がいて、熊野の高倉下と言われていた。急に夜、夢を見た。天照大神が武甕雷神に、「葦原中国はまだ騒々しいが、お前が行って対応して討ちなさい」と言った。武甕雷神は「私が行かなくとも、私が国を平定した剣を下賜すれば、国は自ずと平定される」と答えた。天照大神は、「なるほど」と言い、その時に武甕雷神が、高倉下に、「私の韴靈と名付けられた剱を今すぐにお前の倉庫の裏に置く。適当に受け取って天孫に献上しなさい」と言った。高倉下は、ああと言って目覚めた。朝に夢の中の敎えに従って、倉庫を開けて見たところ、やはり剱が落ちていて、逆さまに倉庫の底板に立っていたので直ぐに取り上げて献上した。その時、天皇はよく寝ていたがにわかに寝覚めて、「私はどうして長く眠っていたのか」と尋ねた。毒にあたっていた兵士もまた毒から覚めて起きた。】と、「武甕雷神」すなわち同音の「武甕槌神」は天降りの立役者でこの説話は天降りの続編の説話、武氏は高倉下から尾張氏につながる姓で、生駒山の合戦とまったく趣が異なり、到着した日干支はあっているが、その日干支に尾張氏の神話を付加している。
『日本書紀』は葛城氏の歴史が基本と考えられ、葛城氏の先祖が紀元前660年頃にヤマトに侵入した説話を後代の物部氏が尾張氏の神話を結合させた説話で、武甕雷が剱を神宝とし、『舊事本紀』に「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と尾張氏と姻戚となったのが葛城氏の祖先が剱根と記述していて、無関係とは思えない。

2019年5月24日金曜日

最終兵器の目 神武東征3

 『日本書紀』慶長版は
戊午年春二月丁酉朔丁未皇師遂東舳艫相接方到難波之碕會有奔潮太急因以名爲浪速國亦曰浪華今謂難波訛三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河內國草香邑青雲白肩之津夏四月丙申朔甲辰皇師勒兵步趣龍田而其路狹嶮人不得並行乃還更欲東踰膽駒山而入中洲時長髄彥聞之曰夫天神子等所以来者必將奪我國則盡起属兵徼之於孔舍衞坂與之會戰有流矢中五瀬命肱脛皇師不能進戰天皇憂之乃運神策於冲衿曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道也不若退還示弱禮祭神祇背負日神之威隨影壓躡如此則曾不血刃虜必自敗矣僉曰然於是令軍中曰且停勿復進乃引軍還虜亦不敢逼却至草香津植盾而爲雄誥焉(雄誥此云烏多鶏縻)因改号其津曰盾津今云蓼津訛也初孔舍衞之戰有人隱於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也五月丙寅朔祭()酉軍至茅淳山城水門時五瀬命矢瘡痛甚乃撫剱而雄誥之曰慨哉大丈夫被傷於虜手將不報而死耶時人因號其處曰雄水門進到于紀伊國竈山而五瀬命薨于軍因葬竈山
【戊午年の春二月朔日が丁酉の丁未の日皇軍は遂に東征に出発した。船首と船尾がたがいに接っするような船団で難波の𥔎についたら、勢いよくとても急な潮の流れにあった。それに因んで浪速国と名付けた。または浪花という。今難波というのは訛ったものだ。三月朔が丁卯の丙子の日に流れを遡ってのぼり、真っすぐ河内国の草香邑の青雲の白肩の津についた。夏四月朔が丙申の甲辰の日に皇軍はくつわを引いた兵が列をなして行進して、龍田に向かった。しかしその路は狭くて険しく人が並んでいけなかったので引き返して、更に東の膽駒山をこえ、中洲(?)に入る時に長髓彦がそれを聞いて「天神の子等が来る理由は、きっと我が国を奪おうとしてだ」といった。全軍を使って孔舎衞坂で待ち受けて、合戦となった。流矢で五瀬命の肘と脛に命中して皇軍は進軍して戦うことが出来なくなった。天皇はこれを憂いて、神のお告げに従いこだわりなく運を天に任せて「今私は日神の子孫で日に向って敵を征つことは、天の道に逆らうことだ。それで、撤退して弱そうに見せ、神祇を年に一度の例祭のように盛大に祀り、太陽を背に、影が進むとおりにのおし掛かるように足を踏もう。こうすれば、血を流さず自から敵は負ける」というと。皆も、「その通りだ」と言った。それで軍中に「しばらくは停まりなさい。再度進軍してはいけない」と命じて、軍を引き返した。敵軍もあえて追ってこなかった。草香の津に帰って、盾を立てかけ雄々しく叫んだ。それでその津を盾津と名付けた。 今、蓼津というのは訛ったものだ。初め孔舎衞の戦いに、人がいて大きな木に隠れて難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」と言い、その時、人はそれに因んで母木邑と名付けた。 今「おものき」というのは訛ったものだ。五月朔が丙寅癸酉の日、軍が茅渟の山城水門についた。その時、五瀬命の矢の傷の痛みが甚しく剣を掴んで雄々しく叫んで、「なげかしい、ますらおなのに敵によって手傷を負って、報復しないで死ぬのか」。その時の人たちはそれに因んで雄水門と名付けた。進軍して紀国の竈山について、五瀬命は軍中で薨じた。それで竈山に葬むった。】とある。
紀元前663年2月朔日は「戊戌」だが、前日1月30日が丁酉で、4月朔日が丁酉で丙申は3月30日、3月朔日は丁卯で5月は丙寅と合い大小の月の誤差範囲で概ね標準陰暦と合致している。
そして、大阪平野が海だった頃の様子が記述され、難波は狭くなっていたので海流が速く、東大阪市の日下に船を停め、背後から攻めようと龍田に向かったが険しくて行けなかったので、生駒山越えの正面攻撃に転じたが、待ち伏せにあって五瀬が負傷し、反撃を止めて策略を練り、日を背に山の上から戦おうと決定した。
そして、長男の五瀬は紀国に葬り、武内宿禰の由来説話が紛れ込み、長髓彦のいる場所が「中洲」と意味不明な地が出現するが、「なか国」侵攻の説話の流用で紛れ込んだのだろうか。
ここでいう、天道・天皇は、空を履中天皇五年まで「有如風之聲呼於大虚曰」のように大虚と記述しているので、履中天皇以前の天は海人の国の天国のことのようだ。

2019年5月22日水曜日

最終兵器の目 神武東征2

 『日本書紀』慶長版は
其年冬十月丁巳朔辛酉天皇親帥諸皇子舟師東征至速吸之門時有一漁人乗艇而至天皇招之因問曰汝誰也對曰臣是國神名曰珍彥釣魚於曲浦聞天神子来故即奉迎又問之曰汝能爲我導耶對曰導之矣天皇勅授漁人椎㰏末令執而牽納於皇舟以爲海導者乃特賜名爲椎根津彥此即倭直部始祖也行至筑紫國菟狹時有菟狹國造祖號曰菟狹津彥菟狹津媛乃於菟狹川上造一柱騰宮而奉饗焉是時勅以菟狹津媛賜妻之於侍臣天種子命天種子命是中臣氏之遠祖也
【その年の冬十月丁巳の朔辛酉の日に天皇親ら諸皇子・船団を率いて東を征伐するため。速吸之門についた。その時一人の海人がいて、舟に乗ってやってきた。天皇は漁師を招き入れて、近づいてきたのでわけを聞いた。「お前は誰だ」と聞くと、「私は国神です。名は珍彦と言います。曲浦で魚を釣っていましたが、天神の子が来たと聞いて迎え来ました」と答えた。また、「お前は私を案内できるか」と聞くと、「案内しましょう」と答えた。天皇は椎の水竿を操る最後尾の舵役を担当させ、皇舟の海の案内人にした。そして特に、椎根津彦の名を賜った。椎根津彦は倭直部の始祖である。筑紫の菟狹についたとき、菟狹国造の祖を名付けて菟狹津彦・菟狹津媛がいて、菟狹の川上に一柱騰宮を造って饗応した。この時、菟狹津彦は命じて菟狹津媛を、侍臣の天種子命に賜った。天種子命は、中臣氏の遠祖である。】とある。
しかし、紀元前667年10月朔は丁亥で丁巳は11月朔日と1ヶ月異なり、この速吸之門は豊後水道だが、珍彦は『古事記』に「木國造之祖宇豆比古」で、吉備の出発後速吸之門に出現する人物の「槁根津日子」は共通で、本来「宇豆比古」は「槁根津日子」と別人で鳴門海峡の名前にふさわしい名前である。
『古事記』は「椎根津彦(此者倭國造等之祖)」とするが、「宇豆比古」の娘婿「建内宿祢」の兄弟「味師内宿祢」は葛城氏の子で、『古事記』に従えば父「比古布都押之信」がこの東征の主で、『古事記』に記述されない「屋主忍男武雄心」が伊予を得て、子供たちが紀伊・大和で生まれたことを述べている。
そして、天の岩戸で大神を導き、東征では神武を導いたと活躍を述べる菟狹国造は葛城王朝の重要な役割を担った人物と解り、結婚を命じたのも神武天皇はまだ邑長で権力が無く考えにくく、菟狹津彦か京都郡の王としか考えられない。
続けて『日本書紀』慶長版は
十有一月丙戌朔天皇至筑紫筑紫國岡水門十有二月丙辰朔壬午至安藝國居于埃宮乙卯年春三月甲寅朔己未徙入吉備國起行宮以居之是曰髙嶋宮積三年間脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也
【十一月丙戌の朔、天皇は筑紫國の岡水門についた。十二月朔が丙辰壬午の日に安藝國について、塵のように小さい宮に留まり乙卯年の春三月朔が甲寅己未の日に吉備國に歩いて行き、行宮に留まった。これを高嶋宮という。三年日を連ねる間に、舟や舵を準備し、兵糧を蓄えて、一挙に天下を平定しようとした。】とある。
この11月朔の日干支は丁巳で丙戌は12月朔、丙辰は翌年の1月朔とすべて丁度1ヶ月違いで大の月小の月が混じる中での誤差は偶然とは思えないが、実際の時期はおそらくかなり後代で検証できなが、乙卯年の春三月朔は甲寅と合う。
そして、吉備国で軍備を整えていているが、三史すべて、筑紫・豊・菟狹・安藝・吉備と国が存在し、神武邑長の支配者はこれらの国の支配者で、東征して畿内を征服するのであるが、後代、このような人物が一人存在し、神武天皇が「日向襲津彥」・「葛城襲津彥」で筑紫から豊・安芸・吉備を領有する父「武内宿禰」が一番ふさわしく、「武内宿禰」は皇太子忍熊王を殺害していて、この戦いが神武東征の一部となっているようだ。

2019年5月20日月曜日

最終兵器の目 神武東征1

 『日本書紀』慶長版は
年十五立爲太子長而娶日向國吾田邑吾平津媛爲妃生手硏耳命及年四十五歲謂諸兄及子等曰昔我天神髙皇産靈尊大日孁尊舉此豊葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊於是火瓊瓊杵尊闢天關披雲路駈仙蹕以戻止是時運属鴻荒時鍾草昧故蒙以養正治此西偏皇祖皇考乃神乃聖積慶重暉多歴年所自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲而遼邈之地猶未霑於王澤遂使邑有君村有長各自分疆用相凌躒抑又聞於鹽土老翁曰東有美地青山四周其中亦有乗天磐舩飛降者余謂彼地必當足以恢弘大業光宅天下蓋六合之中心乎厥飛降者謂是饒速日歟何不就而都之乎諸皇子對曰理實灼然我亦恒以爲念宜早行之是年也太歲甲寅
【十五歳の時に太子に立った。生長して日向國の吾田邑の吾平津媛を娶り妃とし、手研耳命を生んだ。四十五歳になって、諸兄及び子等に「昔我が天神の高皇産靈尊・大日孁尊がこの豊葦原瑞穗国を選び企てて、私の天祖の彦火瓊々杵尊に授けた。そこで、火瓊々杵尊は天の扉を開いて、出雲への路の、先駆けとして働いたが一旦引き戻った。この時、運は遠い昔のようで光明が見えず、無秩序でこれからという時であった。それで、道理が通じない世を観察して何が正しいかを知り、この西の辺境を治めた。皇祖の尊い考え、すなわち皇祖の神聖で光り輝く行いを積み重ね、多くの年月を経た。天祖が降った功績から今までで、一百七十九萬二千四百七十餘歳経ち、しかしにはるか遠い地は、いまだ王道の世がうるおっていない。ついにこの邑に君主となるべき人物が現れて、村の長となった。各自の境を決め、競わせることで村を支配した。鹽土老翁に聞くと、『東に良い地が有る。木が生い茂って山が四方を廻らせ、その中にまた天磐船に乗ってとびに降った人がいる』といった。私がおもうに、その地を、かならず治めて 大きく拡げ、天下を光り輝く家のようにして帝王として治め、先祖が六合を国の中心としたように成し遂げよう。そこに降った者は、饒速日というらしい。どうしてその土地に行かないで王朝の主になれよう」と言った。諸皇子が「道理が通って明らかだ。私も常に思っていました。すみやかに行来ましょう」と答えた。この年は甲寅歳だった。】とある。
この神武天皇は「日向襲津彥」で「日向国」建国後すなわち景行天皇の熊襲征伐後に吾田村の邑長になり成功を収めたので、かつて饒速日が天降った現代の都を侵略して都の主になろうと決起集会を開いた。
この、1792470歳は、1年366日を知らない人々が1日を1歳とし、姫を含めた兄弟全てが統治した日数を合計したものと考えていて、その理由は、神代文字で書かれた文書を読んだとき、高千穂宮の世代が姫を含めた兄弟全てがくみいれられての70代以上と記述していたからで、ただ、荒唐無稽な記述が有ったらすぐに虚構と決めつけるべきでなく、どのように理解したら良いかを考えるべきである。
たとえば、1792470歳を1日とするなら4900年程度すなわち日向国が既に存在する西暦500年より4900年前の紀元前4500年くらいになり『山海經』の中国の国家成立以前の紀元前3千から4千年前の大人国や三身国、君主国が中心だった時代の前段階として矛盾が無く、吾平津媛の家系は三身国成立前からの歴史があると述べているのだろうか。
何度も繰り返すが、古代は女系が基本で、氏族や村を継続して支配できるのは女性で、男性は村から出て他の地域で婿入りして子を成し、媛の家系の跡継ぎとなり、男系は親族婚となってしまうため存続は難しい。
そして、この氏族が邑長になるまでに、天国から先駆けとして出雲を経て目的地は中国だったが、引き返して出雲との国境可愛山近辺に止まったところからかなりの断絶があり、神武東征は、出雲国境から豊秋津へと日向国から安芸へのいくつかの説話を融合させることになる。
『日本書紀』に対して『古事記』は「東行即自日向發幸御筑紫故到豊國宇沙」と日向国建国前で京都郡の王が東征の中心と解り、『舊事本紀』は「日向國吾田邑君平津媛爲妃生手研耳命也」と、日向国建国後で妃が吾田邑君の姫とこの神武天皇は日向氏に婿入りしたことが解り、やはり、「行至築紫㝹狹」と京都郡近辺に向かっている。

2019年5月17日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第三 神武誕生

  『日本書紀』慶長版は
彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊以其姨玉依姫爲妃生彥五瀬命次稻飯命次三毛入野命次神日本磐余彥尊凡生四男久之彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊崩於西洲之宮因葬日向吾平山上陵神日本磐余彥天皇諱彥火火出見彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也母曰玉依姫海童之小女也天皇生而明達意礭如也年
【彦波瀲武草葺不合尊はその姨の玉依姫を妃として、彦五瀬命を生む。次に稻飯命。次に三毛入野命。次に神日本磐余彦尊。すべて、四男を生む。その後、彦波瀲武草葺不合尊西洲の宮に崩じたので日向の吾平山の上の陵に葬った。神日本磐余彦天皇は諱を彦火々出見という。彦波瀲武草葺不合尊の第四子だ。母は玉依姫と言い、海童の少女である。天皇は生まれながらにして聡明で道理をわきまえ意思が磐が水流をはじくようにしっかりして揺るぎが無い。】とある。
「彥波瀲武鸕鷀草葺不合」は先代の「彥火火出見」と「彦」の地位を継承していて、最高位の王に役職名は不要で、内容のみならず、系図も王家の火闌降・火明命に火火出見を付け足し、子の磐余彦が彦火々出見を襲名していることから「彥波瀲武鸕鷀草葺不合」は「彥火火出見」の嫡男では無かった可能性があるが、それでも、彦の前に地域名が付加されないのだから、彦の中の彦の可能性がある。
そして、やはり、磐余彦も王家の稻飯と分家の三毛入野に付加して彦五瀬とともに王家の系図に付加されていて、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊天孫彦火々出見尊弟三子兒也 亦云火芹尊也母曰豐玉姬命海童之大女也・・・弟玉依姬命立爲皇妃・・・誕生四御子矣兒彦五瀨命次稻飯命三毛野命次磐余彦命磐余彦命 天孫彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊第四子母曰玉依姬・・・神武天皇・・・諱神日本磐余彦天皇亦云彦火火出見尊即少年時号狭野尊也母曰玉依姬海童少女也天皇
「兒火明命 次火進反命 次火折命 次彦火々出見尊」とされていた系図が「三子兒也 亦云火芹尊」と四子目が三子目になって三・四子が合体された同一人物で、さらに諱が交替して既に隠すべき名前ではなくなり、更に新しい狭野尊の名前も付加された。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は
天津日高日子波限建鵜葺草不葺合命娶其姨玉依毘賣命生御子名五瀬命次稲冰命次御毛沼命次若御毛沼命亦名豊御毛沼命亦名神倭伊波禮毘古命故御毛沼命者
と、「天津日高日子番能迩々藝」・「天津日高日子穂々手見命」・「天津日高日子波限建鵜葺草不葺合」のように「天津」の「日高」の「日子」と「彦」の中の「彦」の地位が『三国志』の「特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國」でいう「一大率」の可能性がある。
『古事記』と『日本書紀』の背景は共に葛城氏の家系の王が記述しており、『古事記』が遠慮して下位の地位に貶める必要が無く、自家の史書にはさらに皇子に「伊波禮毘古」以外は役職が付かず、五瀬・稲冰と同列に御毛沼を記述して、神武天皇にはこの3名の人物を記述し、御毛沼も「若」国の「御毛沼」と「豊」国の「御毛沼」の内容を併せて記述したと述べているのだ。
そのことから、『舊事本紀』の「狭野」は物部氏の史書の神武天皇で、神武東征時に「紀伊國竈山」→「名草」→「狹野」→「熊野」と経過地を述べて「高倉下」の説話を記述しており、物部氏と共に王朝を立ちあげた「尾張氏」の神武天皇の可能性がある。
『舊事本紀』と『日本書紀』は朔の日干支を記録した2王朝の王を中心に、それ以上の王家の王が初代の神武天皇を始め何代もの天皇に複数の王を記述している。
例えば、これから述べる神武天皇は時代も名前も異なる人物を、しかも、長男相続は一人の天皇として記述し、その前例は、大国主が大物主などを含めた複数の神を一緒くたにしていて、本来異なる、別々の土地の別々の時代の神様を一人の神様と扱うように記述した。
それと同じことが天皇にも応用されていて、神武天皇も「大和」、「なか国」、「京都郡」、「筑紫」の初代王親子のことを、特に、大和への侵略は複数の王朝の複数の時代の神武天皇を記述していて、それは当然で、『日本書紀』は畿内が中心の朝廷史だからである。

2019年5月15日水曜日

最終兵器の目 歴史時代

 この項以降は暦のある歴史時代に突入するが、東洋世界は干支で表す60年周期の年と日で朔日を基準にした日付を用いることで例えば旧暦の1月1日の日干支が同じ干支年の日干支になることが限定されることになる。
そして、『尚書』堯典に「命羲和欽若昊天曆象日月星辰敬授人時分命羲仲宅嵎夷曰暘谷・・・帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歲」と辺境の暘谷に住む羲和と羲仲に暦を作らせたが、『山海經』大荒南經に「東南海之外甘水之間有羲和之國有女子名曰羲和」および「帝堯帝嚳帝舜葬于岳山」、海外南經にも「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰」と、すなわち、日本列島に住む羲和に日本列島に葬られた帝堯が暦を作らせた。
そして、日本列島には夏至や冬至を知ることができる5千年以上前の縄文遺跡がたくさん存在し、海外東經に「下有湯谷上有扶桑」と「暘谷」と類似した国が有り、日本は農業カレンダーを持ち、中国建国前にこれを伝えた。
そして、中国建国前、国ではなく山と呼ばれた時代に中国の周りには国が存在し、君子がいて、大人がいたのだから、この、大人・君子は中国にとっては外来語で、この象形文字もしくは記号は日本発の可能性があり、「帝堯帝嚳帝舜」がこれらの国の王の可能性すらある。
私は、グレゴリー暦で紀元前700年から現代までの標準カレンダーを作成してユリウス日を振り、2000年に冬至となる太陽視黄経が 270°となる 2000/12/21 22h38mを基準に1太陽年毎の計算式Y=365.2421896698-0.00000615359×T-7.29×10^(-10)×T^(2)+2.64×10^(-10)×T^(3)で毎年の冬至日を算出した。
但し、Tはユリウス日で日本は9時間の時差があるので21時にユリウス日は更新されるので3時間分0.125を差し引いて24時に更新するように計算し、日付はデジタルなので小数点を切り捨てた。
そして、2000年に月・太陽黄経差が朔の となる2000/12/26 2h22mを基準に地球と共に太陽を回るので、月周期として定数29.530589で朔日を、中気の月を得るため恒気法で雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪・冬至・大寒を当てはめ、中気の無い月を閏月にし、朔日から次の朔日の前日まで日付を順に割り振って大小の月を決めて標準の旧暦を作り上げた。
従って、60日周期で延々と続く日干支と人間の見た目で決めるので1日の誤差がある可能性がある朔日とそれによる大小の月は古代人の実感の暦に近いと考えられ、閏月は江戸時代に藩により異なったようなので正誤は保留にして、『続日本紀』などと確認したところ良く符合した。
そして、古代人が標準時や日本の9時間の時差となる場所を知るはずが無いので、どの場所を基準として朔としたかは不明なので、どの頃を一日の始まりとしたか、どの場所で暦をつくったかによて大小の月や閏月が微妙にズレることは覚悟しなければならない。
そして、『日本書紀』の神武天皇の建国年はかなり特殊な日で「辛酉年春正月庚辰朔」の日は紀元前660年以降現代まで存在せず、特異日で、建国日の部分を記述した古代人はグレゴリー暦を知らないため、100年に一度閏年が無くその4回に1回に閏年が有るなどと言う法則を知らない。
そして、『二中歴』には「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と517年継体元年より569年前、紀元前53年から始まったのだから、普通に読めば元号が始まったという意味で、「無号不記」は天皇即位元年に建元をせず新天皇の即位の干支を数代分のみ39年間は刻木して残し、紀元前14年から建元して元号と干支を木に刻んだと読まないと、39年間の意味が通らず、最初から530年前から元号が始まったと書けばよい。
それを示すかのように、最近は弥生式土器の編年が早まって『日本書紀』の歴史時代の紀元前660年頃は弥生時代ということになり、そのころから宮の元年を記述し、紀元前50年頃は尾張氏が力をつけ、紀元前14年頃は尾張氏が政権を取って、2代目の垂仁天皇が即位したとしても矛盾が無く、そして、景行天皇「元年秋七月己巳朔卯己卯太子即天皇位因以改元」と改元しており、天皇が交替した時は改元した可能性がある。
そして、これ以降、年干支と月干支と朔日干支が私の作成した標準旧暦と符合するかも確認していくことになり、多くが符合し、符合しないものは、符合する日付を探すと、不自然だった内容が他の史書や文献に合致するようになった。
ちなみに、『三国史記』は赫居世「前漢孝宣帝五鳳元年甲子四月丙辰・・・二十四年夏六月壬申晦日有食之」と中国年号を知っていて朔の日干支は記述せず、すでに、建国時から歴史時代で記録を持ち、『史記』は始皇帝の時「二十六年・・・始皇推終始五德之傳以為周得火德秦代周德從所不勝方今水德之始改年始朝賀皆自十月朔」が朔日の初出、孝武帝の「十一月辛已朔旦冬至昧爽天子始郊拜泰一」と日干支の日付の初出で記述していない。
グレゴリー暦を知らない人々が計算で西暦と合致させて朔日を記述することが不可能であり、中国や朝鮮の史書でも朔の日干支を知ることが出来ないことから、この、日干支は計算ではなく刻木による記録だったことが解る。

2019年5月13日月曜日

最終兵器の目 海幸・山幸3

 『日本書紀』に対して『古事記』前川茂右衛門寛永版は
塩椎神云我爲汝命作善議即造无間勝間之小舩載其舩以教曰我押流其舩者差暫往將有味御路乃乗其道往
と籠が、船変化し、流れに逆らって漕いだ後言われた場所に行くと自然に流れに乗って目的地に到着するとし、続けて『古事記』前川茂右衛門寛永版は
一尋和迩白僕者一日送即還來・・・其一尋和迩者於今謂佐比持神也
と操船が上手い1mある和迩神を祀る大男の佐比持に送らせ、産屋は「鵜羽爲葺草造産殿」と鵜の羽で葺く地域の話に変化させ、「其方産時者化八尋和迩而匍匐委蛇」と蛇を祀る「八国」の神の龍神から和迩神への説話を習合させた説話の変化の過程である。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は
其比古遅荅歌曰・・・故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御陵者即在其高千穂山之西也
と、歌のやりとりがあるが、その相手は「豊玉毘賣」と不明な「比古遅」で、『古事記』の「比古遅」は『古事記』前川茂右衛門寛永版「如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遅神」の「宇摩志阿斯訶備比古遅」しかおらず、この神の説話が、すなわち、日本最古の説話ということになる。
また、「高千穂宮伍佰捌拾歳」と「穂々手見」の王朝が580年続いたと述べているが、「火」国の「火火出見」が初代の王で、「彦」を配下にもつ国は以前記述した「伊都国」が考えられ、高祖山の西に高祖神社が有り、伊都は甕棺の中心、最後まで甕棺が出土した国で、約600年の「穂々手見」王朝を裏付けている。
『古事記』・『日本書紀』に対して『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
翁即取囊中玄櫛投地則化生五百筒竹林因取其竹作大目鹿籠亦云簡今之籠也則内大芹尊於仃籠中沉之海矣覆塩土老翁曰吾將計之計曰海神所乘其駿馬者八尋鰐也是堅其鰐背而在橘之小戶吾當與彼共策乃將火芹尊供往而見之時鰐魚
と籠を船ではなく本当の竹籠と信じて火折を海に沈めてしまい、和迩を鰐としてそれは馬だと海の中に馬が走る奇想天外な説話に変質させ、7世紀の人々が神話だからと原本を信じ込んで書き連ねたのだろう。
そして、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
「還鄉即以鵜鶿之羽(?)作爲産屋(?)未及(?)合之時豐玉姬自馭大龜亦云爲龍將女弟玉依姬光海來到孕月巳滿産期方急由此不得(?)合侄入居焉縱容謂天孫曰妾今夜當産請勿臨之天孫心恠其言不聽(?)請竊視私屏則化爲八尋大鰐(?)匐逶虵
と、7世紀では龍も神の象徴ではなく鰐が神の象徴だったようで、神様の鰐に乗ってお産に来るのはおかしいと考えたのか大亀に変質させ原本の「匐逶虵」が形容詞のように残ったようだ。
さらに、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
以真床覆衾及草(?)其兒置于波(?)即豐玉姬命自抱而入海郷去矣亦云留其女弟玉依姬持養侄焉去久之日天孫之(?)不冝置其海中乃使玉依姬命持之遂出矣・・・是豐玉姬命聞其兒端正心甚憐重欲歸養於義不可故遣女弟玉依姬命以來養者矣即爲御生一兒則武位起命矣・・・
誕生彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊次武位起命 大和國造等祖
と高貴な「衾」と草をゴッチャにして「阿斯訶備比古遅」の「海中」黄海の説話と豊国の「豊玉彦」と「豊玉姫」が治める説話が連結され『日本書紀』の一書に「萬幡姫兒玉依姫命」という説話をもつ氏族が有り、国名が無く、神武天皇の母であり、海幸説話は「阿斯訶備比古遅」・日向国の皇祖・伊都国の皇祖の説話をまとめたもので、そして、皇祖と言えば「髙皇産靈尊」もその中に入っている可能性がある。
山海經』の海外南經に「南方祝融獸身人面乘兩龍」、海外東經に「東方句芒鳥身人面乘兩龍」と、さらに、大荒東經には「有司幽之國帝俊生晏龍晏龍生司幽」、海內經に「帝俊生晏龍晏龍是為琴瑟」と中国の神話時代の福岡県から京都府あたりの日本海側や関東に2つの龍に乗った人物が現れ、帝俊の子たちに龍を名に用いて、『日本書紀』の古さとその龍というのは船であったことが解り、船を二艘繫いで使っていたことが解り、後代は船が当たり前のものとなって、龍の国に対抗した『山海經』の海外東經に「雨師妾國在其北其為人黑兩手各操一蛇左耳有青蛇右耳有赤蛇一曰在十日北為人黑身人面各操一龜」と亀や和邇を神格化した国々が出現したのである。
次からは歴史時代に入る。

2019年5月10日金曜日

最終兵器の目 海幸・山幸2

 続けて、『日本書紀』慶長版は
彥火火出見尊因娶海神女豊玉姫仍留住海宮已經三年彼處雖復安樂猶有憶鄕之情故時復太息豊玉姫聞之謂其父曰天孫悽然數歎蓋懷土之憂乎海神乃延彥火火出見尊從容語曰天孫若欲還鄕者吾當奉送便授所得釣釣因誨之曰以此鈎與汝兄時則陰呼此鈎曰貧鈎然後與之復授潮滿瓊及潮涸瓊而誨之曰漬潮滿瓊者則潮忽滿以此沒溺汝兄若兄悔而祈者還漬潮涸瓊則潮自涸以此救之如此逼惱則汝兄自伏及将歸去豊玉姫謂天孫曰妾已?()矣當産不久妾必以風濤急峻之日出到海濱請爲我作産室相待矣
【それで、火火出見尊は海神のむすめの豊玉姫を娶って、海宮に留り住み、三年が過ぎ去った。ここは、安らかで樂しとけれど、やはり里心がついて帰りたくなってしまった。それで、大きな溜め息をついていた。豊玉姫はそれを聞いて、父に、「天孫が悲しみ沈んで何度も嘆いています。きっと里を懐しんで憂いているのでしょう」と言った。それで、海神が彦火火出見尊を引き入れて、落ち着き払って、「天孫、もし郷に帰りたいのなら、私が、送りましょう。」と言った。すなわち得た釣針を授けて、それで、諭して、「この鈎を持ち帰ってお前が兄に与える時に、密かにこの鈎に呼びかけて『釣れない鈎』と言って、その後で与えなさい」。また潮が満ちる瓊と潮が引く瓊を授け、諭して、「潮が満ちる瓊を海につければ、潮はたちまち満ちてしまう。これでお前の兄を溺れさせなさい。もし兄が悔いて祈ったなら、引き返して潮が引く瓊を海につければ、潮はおのずから引いてしまう。これで救ってあげなさい。このように責めて悩ませれば、お前の兄は自から降伏するだろう」と言った。帰ろうとした時、豊玉姫が天孫に「私は妊娠した。もうすぐ産まれます。私は、必ず風や波が急峻な日に、海辺に出て来て私の爲に産室を作っていてください」と言った。】とある。
この海神は豊国の王とここで記述され、豊国は海釣りに精通していて、鈎の調整方法や潮の満ち引きのタイミングを良く知っていて、出産時期は海が荒れる時期に当たることを記述している。
そして、『日本書紀』慶長版は
彥火火出見尊已還宮一遵海神之教時兄火闌降命既被危困乃自伏罪曰從今以後吾将爲汝俳優之民請施恩活於是隨其所乞遂赦之其火闌降命即吾田君小橋等之本祖也後豊玉姫果如前期将其女弟玉依姫直冒風波来到海邊逮臨産時請曰妾産時幸勿以看之天孫猶不能忍竊往覘之豊玉姫方産化爲龍而甚慙之曰如有不辱我者則使海陸相通永無隔絶今既辱之将何以結親昵之情乎乃以草裹兒棄之海邊閉海途而俓去矣故因以名兒曰彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊後久之彥火火出見尊崩葬日向髙屋山上陵
【彦火火出見尊は、国の宮に帰って海神の敎えに従った。兄の火闌降命、既に厄い困って、自から罪に伏して、「これからは、私はあなたのために振る舞う民となります。ねがわくは情けを施して生かし続けてください」と言った。それで、許しを乞うとおり赦した。許した火闌降命は、即ち吾田君小橋等の本祖である。後に豊玉姫は、前に約束した通り、その妹の玉依姫を連れ、真っすぐ波風を押し分けて、海辺にやってきた。お産の時にやってきて、「私のお産の姿を見ないでください」と願った。天孫は我慢できずに密かに産室に行って覗いた。豊玉姫が生もうとした時に龍のように見えた。それでとても恥ずかしがって、「もし私を辱めなかったなら、我が国とあなたの国を行き来してずっと隔てるものもなくたえることが無かったでしょうが、今、あなたは辱めました。それでどうして仲睦ましく一緒に過ごせましょうか」。そうして草を子に被せて、海辺に置き去りにして、
桟橋を閉めて去っていった。それで、子の名前を彦波瀲武草葺不合尊とした。だいぶ経って、彦火火出見尊は崩じた。日向の高屋山の上の陵に葬った。】とある。
火火出見は豊国に婿入りしたのではなく、豊国の配下の王となったことを示し、お産は女性が神になる瞬間という畏敬の説話が、神イコール神聖な蛇イコール中国の龍伝説と変質し、嬰児を海辺で洗い、草をかけた様子を記述した。
古代は、次男以降が通い婚という形式で婿入りし、跡取り以外は、跡取り以外の姫を連れて、男の国に引き取られ、たということなのかもしれない。

2019年5月8日水曜日

最終兵器の目 海幸・山幸1

 『日本書紀』慶長版は
兄火闌降命自有海幸(幸此云左知)弟彥火火出見尊自有山幸始兄弟二人相謂曰試欲易幸遂
相易之各不得其利兄悔之乃還弟弓箭而乞己釣釣弟時既失兄釣無由訪覓故別作新釣與兄兄不肯受而責其故鈎弟患之即以其横刀鍛作新釣盛一箕而與之兄忿之曰非我故鈎雖多不取益復急責故彥火火出見尊憂苦甚深行吟海畔時逢鹽土老翁老翁問曰何故在此愁乎對以事之本末者翁曰勿復憂吾當爲汝計之乃作無目籠內彥火火出見尊於籠中沉之干海即自然有可怜小汀於是棄籠
【兄の火闌降命は自ら海幸と名乗り、弟の彦火火出見尊は自ら山幸と名乗った。始め、兄弟二人お互いに「試しに獲物変えてみようか」と言いあった。それで互いに交換し、お互いにうまくいかず、 兄は悔やんで、弟の弓箭を返して自分の釣り具返すように言った。弟は兄の鈎を失っていて、探し求める方法が無かった。それで、別の新しく鈎を作って兄に渡した。兄は受け取らずもとの鈎を返せと責めた。弟はこの責めに憂いて、横刀を材料に新しい鈎を鍛造して、箕に盛って渡した。兄は怒って、「私の使っていた鈎とは違う、いくらたくさん差し出しても受け取らない」と言って、より一層責め立てた。それで、彦火火出見尊が、憂い苦しむ様子はとても深刻だった。海辺行って彷徨ていると鹽土の老人に逢った。老人が「どうしてここで憂いているのだ」と問いかけたので、その経緯を答えた。老人は、「憂鬱になることは無い。私が、お前のために何とかしよう」と言い、網目の無い籠を作って、彦火火出見尊を籠の中にいれて海に潜った。すると自然にできたそまつな小さい渚についた。】とある。
この皇子の国は船を知らないが鈎を鍛造しているので鉄刀を持つ国の人で、船を網目のない籠と表現していて、狩猟と海辺の小魚漁を生活の糧にしていたのだろう。
それで、その鈎を狩猟の得意な力強い弟が遠くへ投げるので大きな魚に引きちぎられ、兄は力が無いので狩猟がうまくいかなかったことを示している。
さらに続けて、『日本書紀』慶長版は
遊行忽至海神之宮其宮也雉堞整頓臺宇玲瓏門前有一井井上有一湯津杜樹枝葉扶?()時彥火火出見尊就其樹下徒倚彷徨良久有一美人排闥而出遂以玉鋺来當汲水因舉目視之乃驚而還入白其父母曰有一希客者在門前樹下海神於是鋪設八重席薦以延內之坐定因問其来意時彥火火出見尊對以情之委曲海神乃集大小之魚逼問之僉曰不識唯赤女(赤女鯛魚名也)比有口疾而不来固召之探其口者果得失釣已而
【そして籠を棄ててさらに進むと、海神の宮についた。その宮は、雉の羽のように低い垣根が整った玉のように輝く高い屋根が有った。門の前に一つの井戸が有り、ほとりにひとつの湯津杜の樹が有って枝葉が良く茂っていた。彦火火出見尊がその樹の下に行って、ふらふらとさまよった。そうしていると一人の美人がいて、とびらをおしひらいて出てきた。そして石のお椀を持って来て水を汲もうとしていた。それで仰ぎ見たところ驚いて帰ってしまった。その父母に「一人のめずらしい客が門の前の樹の下にいた」と言うと海神は重ねたこもの席を敷延ばして準備し、宮の中に招き入れて座らせてまたせて、来たわけを聞いた。彦火火出見尊、理由をこまかくつまびらかに答た。海神は、大小の魚を集めて問い詰めたところ皆は、「知りません。」と答え、たただ赤女が口を患って来ていないので、呼んで口を探したところ、やはり失った鈎が有った。】とある。
文中に「湯津杜」の言葉が記述されるが、『山海經』の大荒東經に「湯谷上有扶木」、海外東經に「下有湯谷。湯谷上有扶桑」、海外南經に「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬・・・吁咽文王皆葬其所一曰湯山」と記述し、伊弉諾・奇稻田姫が持つ「湯津爪櫛」、なか国に天降った天稚彥の門前の「湯津杜木」と『山海經』に対応し、『古事記』には「宮門井上當有湯津桂樹」と「湯津杜樹」は朝廷の門に植えられる象徴で、中国では水や湯が湧き出る場所が「天」である。
また、豊の国では船で遠くに漕ぎ出し魚を傷つけない網で漁を行い、大量の時は生かしたまま魚を保存したことが、魚を餌やりで集め、集まらない元気のない魚の口の中を探したことから読み取れる。

2019年5月6日月曜日

最終兵器の目 天孫降臨2

 『日本書紀』に対して『古事記』 前川茂右衛門 寛永版は「高木神之女萬幡豊秋津師比賣命生子天火明命次日子番能迩々藝命也」と「髙皇産靈」が「高木」で娘は「𣑥幡千千姫」と「萬幡豊秋津師比賣」と娘が違うのだから父親も違い、皇子も違うのは当然で、安芸の姫の子が「迩々藝」で「火明」は安芸に残り、「迩々藝」が天降った。
すなわち、『日本書紀』の神話と『古事記』の神話は同じ天降りを記述していても主語が違う、すなわち、別人の神話を述べた、同床異夢の話で、『古事記』の「高木」と「萬幡豊秋津師比賣」の説話が『日本書紀』の中に名前を変えて「髙皇産靈」と「𣑥幡千千姫」を時代を変えて記述しているわけだ。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は皇子「正哉吾勝々速日天押穂耳」・皇祖「髙皇産霊」皇女「女栲幡千々姫万幡姫」皇孫「兄天照國照彦天火明櫛玉饒速日」・「弟天饒石國饒石天津彦々火瓊々杵」で「瓊々杵」が「饒速日」のような役職名が記述され、「猿女君」の「鈿売」や「猿田彦」説話等の葛城氏や物部氏の古くからつながりのある氏族の説話を入れ込み、既に6世紀以降の人々には「八国」の歴史が理解できず16㎝の「八国」の咫鏡を1.5mと理解し化け物の神話を作り上げた。
すなわち、紀元前には咫が16㎝、尋が1mという単位が出来上がっていて、それが、忘れ去られて6世紀に14m近い怪物で目が1.5mもあると記述しているのであり、降臨の地も九州のほとんどを占める三身国が筑紫ではない。
筑紫は筑紫国で福岡県が降臨地と6世紀以降の人々は理解していたが、実態は『日本書紀』と背景は同じで、対馬の説話を日向国の説話に置き換えたもので、海人は船という交通手段を利用して、全国を回って子を成し、海人の説話が全国に行きわたり、その説話を現地の氏族に接合されるのである。
それを示すように『古事記』前川茂右衛門寛永版に「大山津見神之女名神阿多都比賣亦名謂木
花之佐久夜毘賣又問有汝之兄弟乎荅白我姉石長比賣在・・・其姉者因其凶醜見畏而返送唯留其弟木花之佐久夜毘賣以一宿爲婚・・・妾妊身今臨」と「阿多都比賣」説話が「木花之佐久夜毘賣」説話に挿げ代わっている。
また『古事記』前川茂右衛門寛永版も「天津久米命於是詔之此地者向韓國真米(?來)通笠沙之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地其吉地詔而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原」と九州から200Km先の韓国に真っすぐの道は不可思議だが、50Km程度なら岡に登れば韓国が良く見え、実情に良く当てはまり、久米氏の出身も対馬であることが解る。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は、「大号磐長姬少号木花開姬亦名豐吾田津姬亦名鹿葦津姬矣」と「吾田津姬」は豊国の姫と記述して豊の安芸の「可愛」山に「瓊々杵」を葬った説話に符合する。
また、『日本書紀』慶長版の「瓊瓊杵」の子「火闌降」・「彥火火出見」・「火明」に対して、『古事記』 前川茂右衛門 寛永版は「生之子名火照命次生子名火須勢理命次生子御名火遠理命亦名天津日高日子穂々手見命」、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「吾是天神之子者火明命・・・名火進命・・・名火折尊・・・名彦火火出見尊」としている。
『舊事本紀』の「火明」は「押穂耳」の子と同名で、これは、長男の襲名と考えられ、「速」国の嫡流が「火明」で、「饒速日」は実際は分家だが嫡流と主張し、『古事記』は分家としているが、分家というのは既に王家の人物ではなく、婿入り先の王家とは別物で、血のつながりがあると言うだけのことで、『日本書紀』の本家は「火闌降」、『古事記』は「火照」が本家だと述べている。
もちろん、実際の天孫降臨は「大国」や「火国」に支配されていた「海人」で「大国」の配下の「押穂耳」の子「火瓊瓊杵」が「火国」に婿入りして、「火国」の配下になり「火火出見」が生まれたということである。

2019年5月3日金曜日

最終兵器の目 天孫降臨1

 『日本書紀』慶長版は
于時髙皇産靈尊以真床追衾覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之皇孫乃離天磐座且排分天八重雲稜威之道別道別而天降於日向襲之髙千穗峯矣既而皇孫遊行之狀也者則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處而膂宍之空國自頓丘覓國行去到於吾田長屋笠狹之碕矣其地有一人自號事勝國勝長狹皇孫問曰國在耶以不對曰此焉有國請任意遊之故皇孫就而留住時彼國有美人名曰鹿葦津姫皇孫問此美人曰汝誰之女子耶對曰妾是天神娶大山祇神所生兒也皇孫因而幸之即一夜而有娠皇孫未信之曰雖復天神何能一夜之間令人有娠乎汝所懷者必非我子歟故鹿葦津姫忿恨乃作無戸室入居其內而誓之曰妾所娠若非天孫之胤必當滅如實天孫之胤火不能害即放火燒室始起烟末生出之兒號火闌降命次避熱而居生出之兒號彥火火出見尊次生出之兒號火明命凢三子矣久之天津彥彥火瓊瓊杵尊崩因葬筑紫日向可愛之山陵
【時に、高皇産靈尊が御寝床で衾をはおらせて送り出し、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を降らせた。皇孫は乃ち天盤座を離れ、そして天八重雲を排除して、神が命ずる行動で進路を切り開き、日向の襲の高千穗峯に海人の船で降った。既に、皇孫いでたちは、日の二上の天浮橋から、平らかな渚から浮き立つ背後の空国がぬかづくような丘から国を探し求めて通り過ぎ、吾田の長屋の笠狹之碕についた。その地に一人居て自ら事勝國勝長狹と言った。皇孫は、「私の求める国は在るか否か」と問うと。「ここにあなたの求める国が有る。あなたが思うままにしてください」と答えた。それで、皇孫はそこに留まって住んだ。この時、この国に美人がいた。名を鹿葦津姫と言った。皇孫はこの美人に、「あなたは誰の子ですか」と聞くと。「私は天神が大山祇神を娶って生まれた子です」と答えた。皇孫はそれならとこの娘を求めた。すると一夜で妊娠した。皇孫は妊娠を信せず「天神と言っても、どうして一夜の間に妊娠するはずがない。あなたが妊娠したのはきっと私の子ではない」と言った。それで、鹿葦津姫は怒り恨んで、戸が無い部屋を作って、その中に入り誓って、「私が妊娠した子が、もし天孫の子でなければばかならず焼け死ぬでしょう。もし本当に天孫の子なら、やけどもしないでしょう」と言って。火を放って家を焼いた。始めにけむりが立った先に生れ出た子は、火闌降命という。次に火の熱を避けて所に生れ出た子は、彦火火出見尊と言う。次に生れ出た子は、火明命と言う。全部で三子が生まれた。 しばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊が崩じた。それで筑紫の日向の可愛之山の陵に葬った。】と記述する。
しかし、天降った先は葛城氏が書いたのだから宮崎県で、天孫降臨の時はまだ日向国は存在せず、『日本書紀』は九州全体を筑紫と呼んでいるのだから、妥当なところで、「鹿葦津姫」は「襲國有厚鹿文迮鹿文」と襲国の姫で、日向国は熊襲の国の一部で、文章も、一直線には降臨していない。
ところが、生まれた子は「火」国の皇子で、「吾田長屋笠狹之碕」に住んだのだから「吾田津姫」さらに「木花之開耶姫」の説話を「鹿葦津姫」の説話としたのであり、領主の「事勝國勝長狹」の「狹」は対馬の可能性が高く、また「素戔嗚」は「黄泉比良坂」すなわち「月読」の国で大国主の地位を譲り、大山祇神の娘なのだから、素戔嗚の時代、「天八重雲」と「八国」の説話で、「健素戔嗚」の健氏の時代の説話、宗像三女神の対の説話で対馬から宗像に天降った説話なのだろう。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版には「出雲國簛之河上安藝國可愛之河上所在鳥上峯」と出雲国と安芸国の国境に「可愛之河上所在鳥上峯」が有り、天降った「天津彦根」・「活津彦根」・「熊野櫲樟日」の子のいずれか、おそらく、他所に全く出現しない「天津彦根」は『日本書紀』慶長版一書の中に天津彦彦火瓊瓊杵の代わりに「千千姫命而生兒天火明命次生天津彥根火瓊瓊杵根尊」と「天津彦根彦火瓊瓊杵根」という人物が出現し、この皇子の可能性が高い。
『日本書紀』の各氏族の神話である一書の主語を変えたように、『日本書紀』の降臨説話に多くの氏族の説話を入れ込んだ合成神話ということが解り、葛城王朝の祖先が隠岐から「なか()国」の中の豊国の安芸(現代の広島県)→木国(和歌山県)→大和(奈良県)の天降りと安芸→京都郡(福岡県)→熊襲の日向(宮崎県)→大和(奈良県)の征服譚を日本の神話に埋め込んだものである。
しかし、これまでの論証で「君子国」(八岐大蛇・八国)から独立した隠岐の大国(アカホヤ)→なか国進出(大人国)→()国→東鯷国と証明してきたのである。