2018年10月5日金曜日

終兵器の聖典 神武東征2


 一方、神武天皇は『日本書紀』に「倭國磯城邑有磯城八十梟帥 又高尾張邑 或本云 葛城邑也此類皆欲與天皇距戰・・・將攻磯城彦」と磯城を攻撃し、弟磯城が神武天皇側について勝利し、「弟磯城名黒速。爲磯城縣主。復以釼根者爲葛城國造」と弟磯城が磯城縣主に、なぜか初出の葛城氏釼根が葛城國造となり、磯城彦との戦いの場所が「因改號爲磐余」と呼び、「因改號其邑曰葛城。夫磐余之地舊名片居」と磐余は磯城=葛城にあった。
すなわち、『日本書紀』では、神武天皇が弟磯城を縣主に任命し、弟磯城の部下を葛城國造にして磯城縣の中に建国という矛盾を記述している。(伊都国=伊都縣∽奴国・邪馬台国<倭国)
そして、『先代旧事本紀』「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」と香語山・高倉下孫天忍男と釼根の姫の子が「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命之子」と尾張王朝の祖と言い、葛城氏の安寧天皇は「磯城津彦玉手看」と義父が治める磯城県の中の邑長になったような名前で、『古事記』の「県主波延之女」と記述して県主の姫を妃にしている。
そして、『先代旧事本紀』ではまだ葛城國造となっていない「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」の子が羸津世襲葛󠄀木彦と孝昭天皇の大連、妹が皇后で葛城國造になったと様に見える。
すなわち、羸津世襲は孝昭天皇であり葛城王朝は孝昭天皇と神武天皇と葛城国造をだぶらせている。
また、『古事記』では「宇陀之穿也 故爾、於宇陀有兄宇迦斯 弟宇迦斯二人」の説話が「撃兄師木・弟師木之時、御軍暫疲」と挿げ代わり、「迩芸速日」の話に遷るが、『先代旧事本紀』の「於宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理於」と宇迦は大巳貴神説話が出自と思われる。
すなわち、大国の大巳貴と宇迦の宇迦斯兄弟の説話を師木兄弟そして、大巳貴の説話を迩芸速日の説話に挿げ替えたと思われ、『古事記』の神武東征説話は迩芸速日が主役の説話とわかる。
『先代旧事本紀』に「次稲倉魂神 亦云宇迦能御玉神」と記述され、『古事記』の神武東征の時に師木縣はまだ存在せず磯城邑で、磯城県での戦いでは無く宇陀の宇迦斯との戦いで、弟磯城は迩芸速日と共に戦った弟宇迦斯と言いたいのだろう。
磯城は『日本書紀』で神武天皇の時「爲磯城縣主」、『先代旧事本紀』も神武天皇時に「勇因裔為磯城縣主」と磯城県主になったが『古事記』では大倭日子すき友の妃もまだ「娶師木県主之祖」と御眞津日子訶惠志泥の時「彦火火出見」神武天皇が侵入して大倭日子すき友の義兄が磯城縣主、大倭日子すき友が葛城国造になったことがここでも理解できる。
『先代旧事本紀』では狭野尊の配下に高倉下・弟磯城が加わり、弟磯城と高倉下の子たちの兄倉下・弟倉下とで磯城の王者の兄磯城を破って狭野尊がその神倭王神武天皇、弟磯城が磯城縣主、高倉下が高官になったが、磯城と葛城と倭が同じ地域を示しているので、物部氏が宇迦斯を迩芸速日にした狭野神武の説話を尾張氏の天香語山が高倉下神武に、葛城氏が弟磯城を葛城彦神武にして、3人の神武天皇があたかも一人の天皇のように間違えさせた。
大巳貴が宇迦斯や久米氏の助けで出雲王になった説話を狭野尊=迩芸速日が高倉下と磯城彦の協力で天皇になった説話に更に天香語山が弟磯城の協力で天皇になった説話に変え、それを葛城氏が書き換えた。
『先代旧事本紀』に「天香語山命 天降名手栗彦命 亦云髙倉下命」、「先遣弟磯城曉喻之并諸兄倉下弟倉下如遂不歸順」と香語山が磯城縣主の弟磯城に思えるように記述され、「亦云」は別人と読むべきだが天香語山を髙倉下と、倉下兄弟の上司弟磯城が高倉下と思って読んでほしいと言っているように見える。
元々は弟磯城・倉下兄弟がいるのに高倉下が書かれないのは片手落ちで、高倉下の勢力が神武天皇の説話を書き換えたと考えるのが理に適い、ある有名な説話を其々の史書が主語を変えて流用している。

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