もともと、神武東征ではなく、彦五瀬の東征が始まりで、兄に代わって磐余を侵略した説話が始まりであり、実際は武甕雷神を祀る三輪神の後継者で熊野に住む高倉下が葛城氏である若御毛沼と共に磐余を侵略して高倉下が神国の山跡と言われていた地域の王となり、その配下の磐余の邑長に高倉下の義弟若御毛沼(弟倉下)が就任したことを意味する。
『出雲風土記』の国引き神話が隠岐の神話を脚色したように、「弟宇迦斯」の説話をもとに、「高倉下」の三輪山の地の征服譚を神武の東侵説話に流用したもので、征服した地の神に自身の神天照大神ではなく三輪神を祀ることは考えられず、元々の地名説話を新しい支配者が自分の国の説話に脚色したものが史書と考えられる。
史書は勝った人々が書いているので、勝った記録が史書、負けた人が前の支配者、勝った人が新しい支配者で、戦いの情景は新しい支配者が自分のことを出来ればみんなが知っている有名な戦いを新しい支配者に脚色していると考えるべきだ。
そして、『先代旧事本紀』の神武東征は『日本書紀』での4道侵攻で「
丹波道主命遣丹波」とまだ侵略する前に「丹波道主」と名がついているように、すでにある神国の国々を侵攻し、楠葉の武埴安彦との戦いが「長髄彦」との戦いと考えられ、「宇摩志麻治」は「長髄彦」の義弟だ。
『先代旧事本紀』皇孫本紀に「男軍越墨坂從後夾撃之斬其梟帥兄磯城等也十二月癸巳朔丙申皇師遂撃長髓彦連戰不能取勝時」と兄磯城・梟帥・長髓彦を義弟の宇摩志麻治が討って、宇摩志麻治が天皇の璽を神武天皇に献上するということは、宇摩志麻治が皇位にあったことを示している。
さらに、『日本書紀』の大田田根子の説話が『先代旧事本紀』の「天日方奇日方」と物部氏に関する説話とだぶらせてあり、「天日方奇日方」の子孫大田田根子が本来は三輪山の三輪神を祀ったのだが葛城氏の祖神大物主を祀ったことにして、物部氏が石上神宮を祀り、三輪神の末裔が三輪神ではなく大物主を祀るはずがない。
『先代旧事本紀』では「大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也但申食國政大夫者今大連大臣」と神武天皇の皇后は「天日方奇日方」の妹で、すなわち、大神国を物部氏の狭野神武天皇が奪取して「五十鈴媛」の子に皇位を譲って名実ともに「大神国」を奪った。
その土地の姫が統治される人々の心の拠り所で、その姫の子であることが重要で、姫の子は姫の宮に居て、「天照大神」の子が天皇の血統で有る様に、姫の血が王の血統なのである。
従って、神武天皇はまだ名目上天皇ではなく、「宇摩志麻治命天日方奇日方命倶拜申食國政大夫其申食國政大夫者今之大連亦云大臣也」と「宇摩志麻治」・「天日方奇日方」がまだ名目上の天皇だった。
以前にも書いたが、天皇というものをまとめると、天皇が住む宮殿があり、皇太后という前皇后がいて、その後継者の姫と実質国を動かす皇太子が宮殿に住んでいることが天皇という存在で、皇后とその夫は神事を行う現生の象徴に過ぎず、皇太后の娘でない皇后は皇夫人と呼ばれる。
立太子という天皇の長男でない皇太子が現れると、現天皇も即座に地位を失い、新しく立太子された人物が住む宮殿に、新しく立太子された人物の長男が皇太子となり、原則、新天皇の母が皇太后となる。
天皇というシステムの宮には皇后の長兄若しくは弟が存在し、その人物が皇位を簒奪すると大臣と呼ばれ、その大臣が皇太子になればそれまで皇太子と呼ばれていた人物も大臣と呼ばれて殺害される、このようなシステムが天皇と考えられ、皇后若しくは皇后の姉妹を新しい大臣だった皇太子は妃にし、天皇の長男はいつも同じ宮を引き継いで天皇と同一人物と記述されている。
古代は通い婚で13歳以上の長男がいない時天皇の兄弟や叔父で宮殿以外の皇子が皇位を継承する時、その子を皇太子とし、皇位継承は天皇の実子であるという保証はなく、力ある豪族の皇子が実子と偽って政権を奪取することも当然起こるのだろう。
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