『日本書紀』応神37年「遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。」・応神41年「阿知使主等自呉至筑紫。時胸形大神有乞工女等。故以兄媛奉於胸形大神。是則今在筑紫國御使君之祖支。」記事は『宋書 夷蛮伝 倭國』421年「高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と425年「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物」記事に対応して、421年・25年なら阿知使主が賛、都加使主が司馬曹達でやはり筑紫君の祖の話である。
同様に『百済本記』が欽明天皇まで言及しているので、少なくとも雄略天皇から欽明天皇まで百済2書を読んで記述していることや、推古天皇以降は百済2書以降で『隋書』の遣唐使記事を読んだ630年代以降に記述されたことが解り、まさしく、森博達教授の倭習による分類と同じである。
上限は403年の『四方志』の内容をまとめてあるようなので、457年平群王朝成立以降と考えられる。
物部連・尾張連など姓の始祖を調べると、安康天皇以前の祖は多くが雄略天皇以前に氏姓を授かり、幾つかは雄略天皇時に近いほど氏姓を授かっていないということは、雄略天皇の時代以降に滅びた可能性があり、雄略天皇以降に出現する祖は全て氏姓を伴って祖出現後に記述されている。
時雄略天皇二年に出現する 「婬於石河楯 舊本云 石河股合首祖楯」はまさしく雄略天皇の時に活躍をはじめて、雄略期に石河股合首を賜姓され舊本作成以降推古時までに石河(石川)の氏姓に代わったことが解る。
そして、『日本書紀』清寧天皇二年に「遣於播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯」記事があるが、山部連は顕宗天皇即位前紀「白髮天皇二年冬十一月、播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯」・顕宗天皇元年「小楯謝曰 山官宿所願 乃拜山官 改賜姓山部連氏」と485年に山部連を改賜姓しており『古事記』と同時期、顕宗天皇が記述したことが立証される。
これは、『梁書』の「有文字 以扶桑皮爲紙・・・名國王爲乙祁」と『古事記』の「意祁命・袁祁命」と合致し、『日本書紀』の履中天皇二年「都於磐余 當是時 平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰」や允恭天皇五年「先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰」と平群・蘇賀・葛城の氏姓は記述されているが、継体天皇元年「許勢男人大臣等僉曰」と巨勢(許勢)氏は雄略天皇以降にしか出現せず、雄略以前を書いた人物が天皇家巨勢氏だったから記述していない。
また『梁書』「大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」と457年の仏教流入記事が『日本書紀』に出現せず、欽明天皇六年「願普天之下一切衆生皆蒙解脱」が初出で、雄略天皇の仏教流入を巨勢氏の「國王爲乙祁」が見ているはずなのに記述していないことも巨勢氏が書いていない証拠である。
すなわち、『梁書』に「天監六年 有晉安人渡海 爲風所飄至一島」とあるように507年に安人が来日して扶桑国を見て確認して文字を扶桑の表皮で作った紙に書き、その書かれたものが『日本書紀』の安康天皇までと『古事記』と推古天皇の時参考にした『舊本』を記述したということである。
八世紀の官僚が書いたのとしたら、『三国志』の内容を書いて『後漢書』の内容を書かないのは片手落ち、氏族の祖を書きながら後代の人物を書いていない人物は『舊本』を使えばよいはずである。
すなわち、安康天皇までの『日本書紀』は巨勢氏が畿内の王朝史を485年以降『後漢書』流入前に書き綴ったものをほゞ記述通りに継承したものだということだ。
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