2018年10月17日水曜日

最終兵器の聖典 史書の確認1

 前項まで、所謂神話の世界の内容、すなわち伝承をもとに記述された時代の歴史を書き続けてきたが、これらは、全て、有名な説話の主語を変えて新しい説話に書き換えてきたことを示した。
主神は宇摩志阿斯訶備比古遅神の説話を狭霧神や国常立神・御中主に、同様に伊弉諾・伊弉冉も橿城根・吾屋惶城根の事績を書き換え、滴る「しずく」で建国し、国造は国引き神話を使わないで中国『山海經』「身生羽」「生火出其口中」「中容之國。帝俊生中容」と国産み説話を流用した。
この神話が何時成立したか解らないが、『日本書紀』「渾沌如鶏子」など確実に中国語で地名でも「六合」、『出雲風土記』にも「三身の綱」と『山海經』「三身國在夏后啟北」「六合之閒,四海之內」の影響が見受けられ、『山海經』も神産み説話は日本列島にしかないことから日本の影響と考えられ、それは当然で、『尚書 堯典』「汝羲暨和。朞三百有六旬有六日,以閏月定四時,成歲」と1年366日を中国に伝えたのは『山海經 大荒東經』「東海之外,甘水之閒,有羲和之國。有女子名曰羲和」と日本人の義和である。
そして、神武天皇も大巳貴の事績を挿げ替えて記述しているが、これらの史書が何時・誰がどのような立場で記述したかをまとめ、古代史分析の方法を示してみたい。
森博達教授は安康天皇までと推古・舒明天皇・乙巳の変・天武天皇以降を倭習・それ以外を中国習と分類し、『日本書紀』を8世紀の官僚が分担して造作した結果と論じられているようだ。
しかし、8世紀の官僚が全て書いた場合、元明・元正天皇に提出して最後が倭習なのだから、倭習の天皇が中国習の文章を理解し気分よく読んでもらえるはずが無く、不快に思うのは当然で、官僚は気分よく読んでもらうため天皇が理解できる文、天武天皇からを倭習にしたのだから、全て倭習で提出するのが当然だ。
英国女王に英語と米語・豪語が混じった公文書を提出することはないし、提出されたら英連邦女王としては何も言わないかもしれないが、英王室という立場としては不快に思うのは当然の帰結だ。
従って、天皇が理解できる倭習の文章で統一するのが当然の帰結、それなら、中国習は別の時代の天皇が理解できる文体で、元明・元正天皇は天武天皇以降が理解できればよかったのである。
従って、全てを8世紀に書いたのではなく、雄略天皇の時代に安康天皇までを、崇峻天皇までを推古天皇の時代、推古・舒明天皇を皇極天皇の時代、天智天皇までを天武天皇の時代、それ以降を元明・元正天皇の時代に書いたと考えるべきだ。
安康天皇までの記事は『山海經』の影響はもちろん、「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻 太守鄧夏遣使將送詣京都也」と『三国志』の記事を記述している。
しかし、『後漢書』の「東夷倭奴國王遣使奉獻」記事は記述されておらず、雄略天皇が440年頃作成の『後漢書』が日本に流入する以前に書かれたと考えられ、『百済記』の記事が雄略紀から記述されていて、安康天皇以前は『百済記』を知らない時期に書かれ、雄略紀以降は『百済記』を読んで記述して記述時期が異なることを証明している。
そして、500年頃に完成した『宋書』、530年頃に完成した『南斉書』の倭の五王記事を記述せず、呉との交流記事は史書による流用ではなく、独自の資料である可能性が高い。
『日本書紀』雄略天皇五年「呉國遣使貢獻」と『梁書』「其俗舊無佛法 宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法 經像 敎令出家 風俗遂改」の知識、『梁書』「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と高句麗の制度流入と『日本書紀』仁賢天皇六年493年の「遣日鷹吉士使高麗召巧手者。」から継体天皇十年516年「百濟遺灼莫古將軍。日本斯那奴阿比多副高麗使安定等來朝結好」の高麗との友好と適合し、後磐井の「外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」によって友好関係が崩れた。

0 件のコメント:

コメントを投稿