2018年10月10日水曜日

最終兵器の聖典 神武東征4

 『先代旧事本紀』では崇神紀を神武紀に記述したが、弟磯城が大彦と物語る部分が『古事記』にあり、それが「大毘古命、更還参上、請於天皇時、天皇答詔之、此者為在山代国我之庶兄建波迩安王、起邪心之表耳」で大彦の庶兄が建波迩安で建氏は尾張氏の姓で、『日本書紀』などでは「武埴安彦」が使われるが漢字の無い時代はどちらも「たけ」で、彦は王のことだとわかる。
すなわち、大彦が弟磯城で埴安が兄磯城、『日本書紀』にも痕跡があり、神武東征時の「潜取天香山之埴土。以造八十平瓮。躬自齋戒祭諸神。遂得安定區宇。故號取土之處曰埴安」と磯城八十梟帥との戦いの前の説話だ。
しかし、神武天皇が征服する前に領土を持たない天皇が敵領で祀る事などできないことから、磯城八十梟帥の事績でこの時埴安王に名前を付けたとすれば理に適い、すなわち、この埴安を自領としていた大彦神武の父の地名説話と考えるとよく理解できる。
そして、『先代旧事本紀』の狭野神武は「大神崇齋殿」と大神を齋殿に祀り、更に大神と異なる国神を「髙皇産霊神皇産霊魂留産霊生産霊・・・御巫齋祭」と御巫に祀らせこの中の1神が三輪神のことで祀る御巫を記述しないが『日本書紀』・『古事記』の崇神天皇の意富多多泥古説話なのだろう。
『先代旧事本紀』の狭野神武は「大神崇齋殿」に対して、『日本書紀』崇神紀に「天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内 然畏其神勢共住不安。故以天照大神。託豐鍬入姫命。祭於倭笠縫邑」と倭大國魂神を宮殿に祀り、殿と付く宮殿は神武紀には出現しない。
『先代旧事本紀』に「天富命率諸齋部棒天璽鏡劔奉正安殿矣復懸瓊玉陳幣物而祭大殿次登宮門矣」と宮門がある天皇の宮殿大殿は『日本書紀』には「天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内」と崇神紀に出現し、やはり『先代旧事本紀』神武=『日本書紀』崇神だ。
このように、『先代旧事本紀』の神武紀は『日本書紀』の崇神紀と同じ内容で、『先代旧事本紀』の神武天皇は『日本書紀』の崇神天皇と言え、『日本書紀』の「朕初承天位。獲保宗廟」・「稱謂御肇國天皇」は『先代旧事本紀』が物部氏の史書なのだから、初めて物部氏の宗廟を打ち立てた物部氏の初代天皇だったと言うことがわかる。
さらに『古事記』も、神武天皇が大物主の女五十鈴姫を皇后にし崇神天皇の時に「大物主大神、顕於御夢曰、是者我之御心故、以意富多ゝ泥古而、令祭我前者、神気不起、国亦安平」と大物主を祀らせる。
しかし、『日本書紀』では大物主は崇神紀に「倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻」と大物主を祀った後百襲姫が大物主の妻となり、神武天皇の皇后は事代主の女でやはりここでも神武天皇=崇神天皇がある。
大殿も『古事記』は神武記に「不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿内作押機待時、弟宇迦斯先参向、拝白」と『日本書紀』崇神=『古事記』神武となっていて、磯城瑞籬に宮が有った時に狭野神武の侵略があり、物部氏が天皇になったと『日本書紀』は述べている。
人々は2人の初代天皇神武と崇神がいて、中には崇神が御間城に似た名が朝鮮半島にあることに着想して北方民族の侵略と主張する者が出る始末だが、説話は同じで複数の神武天皇を分散して記述しただけのことで、大巳貴の事代主からの国譲り説話と大彦の義兄埴安討伐説話をまとめた説話でその主語が物部氏・葛城氏・尾張氏の初代の王と挿げ替えた説話だった。

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