2018年10月29日月曜日

最終兵器の聖典 史書の確認6

 前項で舒明天皇までを天智天皇が蘇我大臣に書かせたと書いたが、皇極天皇から天智天皇までのなかで乙巳の変のみ倭習記事となっているが、この記事は誰が書かせたのだろうか。
考えられるのは、既に有った舒明天皇の続きに天智天皇が書かせたか、天武・持統天皇を書かせた元明・元正天皇のどちらかだが、順当なら舒明天皇の続きで、天武天皇が皇極紀を追加したと考えるべきだろう。
すなわち、本来乙巳の変が4年となる別の後岡本天皇記事があった文書に皇極天皇の記事を追加した可能性があり、天智天皇の即位記事に「或本云。六年歳次丁卯三月即位」と667年即位記事と重なり、皇極天皇4年は本来1年少ない皇極天皇3年で終わっていた可能性があり、666年に大病をしている『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』の中宮天皇の内容「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と合致する。
『日本書紀』は紀伝体のため、複数の天皇や大王を一纏めに記述し、舒明天皇の後の王達の記事おそらく入鹿の記事の後に天武天皇が豊財の記事を追加したことが原因と思われ、『日本書紀』の記述方法はある王の記録が完成すると同時代の宮に当てはめたことが良くわかる。
天智天皇7年即位まで6年間摂政で皇太子のまゝだったということは、天智天皇以外が天皇だったことから、その6年のなかに天智の母豊財がいて入鹿と重ね、その後、豊財の弟の豊日が即位したが数か月で崩じ豊財が皇位に就いた。
そして、皇極天皇から天智天皇までの記事には大化年号が記述されていて、『二中歴』「大化六年 乙未・・・自大宝始立年号而巳」と695年以降記述されたことが解り、書かせた飛鳥浄御原天皇は他王朝の年号も受け入れ、大化・白雉は宮の代わりに使用したもので、記述すべき宮がないために発生したとおもわれる。
白雉の足りない4年は皇極天皇と重なり、大化の5年は699年に天智天皇までを仕上げたことを意味するようで、本来天智天皇の後ろに付加されるべきものだったと思われる。
すなわち、皇極天皇から天智天皇までを書いたのは持統十年「假賜正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人」と丹比眞人が持統三年「皇太子草壁皇子尊薨」、持統四年「別爲皇太子奉施於三寺安居沙門三百廿九」と草壁皇子ではない飛鳥浄御原天皇の次の長男、若しくは持統天皇の長男に命じられたと思われる。
そして、天武天皇からは当然ながら、『続日本紀』養老四年の「一品舍人親王奉勅。修日本紀」と元明・元正天皇が舎人親王に書かせたが、『続日本紀』慶雲元年704年の「始定藤原宮地」と『日本書紀』持統八年の「遷居藤原宮」が、持統十一年の「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」と持統11年にすなわち『続日本紀』慶雲四年707年の「天皇即位於大極殿」の皇位継承が対応している。
これまで、神話と史書について述べてきたが、神話は『三海經』の「坐而削船」と船を造る大人国の末裔が事代主で『古事記』「為鳥遊・取魚而往御大之前、未還来」と三保で、建御名方が「帯刀帯冠」の君子国の末裔で『古事記』「迫到科野国之州羽海」と諏訪で終わり、長髄彦が武埴安彦と証明したが、それによって、建御名方と同姓で長髄彦が君子国の末裔と考えられ、君子国→東鯷国(神倭国)→尾張氏ということだ。
このように、『三海經海外南經』「六合之閒,四海之内,照之以日月,經之以星辰,紀之以四時,要之以太歳,神靈所生」と『日本書紀』の「照徹於六合之内」、『先代旧事本紀』「葦原中國六合之内」、『古事記』「握乾符而摠六合、得天統而包八荒」と六合を使い、神霊が生まれる場所は六合のみで、これら三書には神産み神話があふれる。
このように、史書は王朝交代時に書かせているようで、まず、葛城王朝が『三国志』に倣って恐らく神倭・物部・尾張・葛城4王朝の『四志』を作成し、巨勢氏が『四志』に平群王朝、蘇我氏が巨勢・物部王朝、天智天皇が蘇我王朝、天武が天智王朝を記述し、新王朝がいつもその時にある資料を精査して真実に近い史書作りを名誉と考えた。

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