2018年10月3日水曜日

最終兵器の聖典 神武東征1

 神武東征というのは『古事記』に「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」と記述される「若御毛沼」の東征で、『契丹古伝』で述べたように、漢が朝鮮半島を征服しようとして辰韓・辰国と戦いをきっかけに、周時代から臣従していた燕へ朝貢を続ける倭人が呼応連携して、穂日や忍穂耳が伊都や出雲を攻撃した漢との辰国攪乱共同作戦ともいえる。
漢の膨張政策の中、大物主を祀る「若御毛沼」は同族の饒速日の協力で神倭の地を得ることができ、『古事記』は「美和之大物主神」の女と記述するがおそらく「葛󠄀木一言主」の女に婿入りした可能性が高い。
『古事記』「神沼河耳命坐葛城高岡宮治天下也」と「若御毛沼」は葛城に婿入りし、『先代旧事本紀』の「次葛󠄀木一言主神 坐倭國玉上郡」と葛城氏は倭(神倭・三輪)の神様を祀り、婿入りした義父は『古事記』に「娶師木県主之祖河俣毘売」と後に県主になる師木に住む人物で、「若御毛沼」神武天皇が即位後に磯城縣主を弟磯城に与えたのだから『古事記』の神武東征は『日本書紀』「磯城縣主女川派媛」と縣主になっている人物と同世代の「彦火火出見」神武天皇より前の話である。
そして、磯城縣主の娘こそ三輪神の孫(事代主の孫、大物主の孫)の「富登多多良伊須須岐比売」の妹と『日本書紀』安寧紀母曰五十鈴依媛命。事代主神之少女也」、『先代旧事本紀』「妹五十鈴依姫命此命葛󠄀城髙岳朝立爲皇后」と2史書に記述されている。
しかし、『古事記』はそれを否定して懿徳記「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命」とまだ縣主にもなっていない「娶師木県主之祖、河俣毘売」だと記述して、「彦火火出見」神武東征は大倭日子鋤友以降の話だと述べているのである。
すなわち、同じ神武東征説話でも各史書によって、主人公神武天皇の本名や共に戦った人々、皇后すら異なっていたのである。
『日本書紀』に「倭國磯城邑有磯城八十梟帥。又高尾張邑 或本云 葛城邑也」と倭国=磯城=高尾張=葛城と記述され、『三国志』魏志倭人伝の国々でも一国の領域は千戸で十数キロ程度の現代の町村と考えられ、『先代旧事本紀』の「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」とやはり尾張=葛城だ。
『三国志』の「伊都國」が『日本書紀』では仲哀天皇「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」と同時代で千戸の地域が邪馬台国の国=『日本書紀』の県で神倭=磯城=葛城は千戸以上の国である。
ここで、高倉下に着目して3書を見比べると、まず、『日本書紀』に「帥軍而進至熊野荒坂津・・・皇軍不能復振。時彼處有人。號曰熊野高倉下」と高倉下が熊野に現れ、韴靈を「取而獻之天孫」と献上するがそれ以降出現しないし神話の世界だ。
『古事記』も「御軍皆遠延而伏此時、熊野之高倉下此者人名」と熊野に現れ、「専有平其国之横刀、可降是刀此刀名、云佐士布都神 亦名云甕布都神 亦名布都御魂」と布都御魂を献上して以降現れない。
ところが、『先代旧事本紀』ではまず、「兒天香語山命 天降名手栗彦命 亦云髙倉下命」と尾張氏の祖天香語山は髙倉下と読めと書いておいて、香語山は「木伊國熊野邑之時・・・予劔韴靈今當置汝庫裏宜取而獻」と熊野で韴靈を献上し、「髙倉下裒為侍臣也」と神武天皇の家来になった。
そして、「天孫陟彼㝹田高倉山之巔瞻望域中時國見」と高倉下の名前の由来となったような地名の高倉山で国見をして、以降は髙倉下が出現しないで、倉下兄弟が出現し、高倉下神武の始まりである。
すなわち『先代旧事本紀』は『古事記』・『日本書紀』が神話としている人物を現実の人物で尾張天皇初代の話だと述べている。

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