前項で『先代旧事本紀』は帝皇本紀を舒明天皇即位後すぐに記述したと書いたが、そこには「大禮小野臣妹子遣於大唐」と妹子の訪中記事が記述されているが、「築紫語在別記」と筑紫の史書を見てそれに合わせて記述していたため「蘇因高」を記述し『隋書』と合致した内容になったのであり、「筑紫=俀国」を証明している。
ところで「蘇因高=小野妹子」と言えるのだろうか、妹子の訪唐記事も607年記事なのか、と考えざるを得ない証拠がある。
小野妹子はその子毛人、その子毛野の死亡記事が残っているが、死亡年と地位を比べると、『続日本紀』の714年「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨 小治田朝大徳冠妹子之孫 小錦中毛人之子也」と6番目の地位で薨じ、『小野毛人墓誌』の677年「御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上 小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と9番目の地位で薨じている。
毛野が695年「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」と16番目、10番目の地位だったのが702年「從四位上高向朝臣麻呂。從四位下下毛野朝臣古麻呂。小野朝臣毛野。令參議朝政」と出世し薨じる12年前に毛人死亡時とほぼ同格だ。
すなわち、毛野に対して毛人は若死して、本来は690年頃薨じると寿命を全う、その親妹子は660年頃に寿命を全うしていると考えられ、607年では若すぎるが630年頃30代なら、中国名ももらっているので先頭に立って外交に当たったと考えられる。
そして、この時高向玄理が恐らく20歳頃「遣於唐國學生倭漢直福因 奈羅譯語惠明 高向漢人玄理」と学生として同行し、640年「學生高向漢人玄理傳新羅而至之」と20代は学生、645年には「高向史玄理爲國博士」、646年「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質 遂罷任那之調 黒麻呂更名玄理」、647年「送博士小徳高向黒麻呂」、654年「遣大唐押使大錦上高向史玄理 或本云 夏五月 遣大唐押使大華下高玄理・・・押使高向玄理卒於大唐」と恐らく40代の若死と考えられる。
40代の「大錦上高向史玄理」なのだから、『続日本紀』が「小錦中」、『墓誌』で「大錦上」の毛人の年齢も傍証になって若死を推定できる。
妹子や玄理の年齢から、607年の訪中は妹子と別人の蘇因高と呼ばれた人物の訪唐ではなく訪隋で、小野妹子の訪唐は『旧唐書 東夷伝 倭國』の630年「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」記事のことだとわかる。
それでは、『日本書紀』の推古・舒明天皇は何時書いたかというと、『隋書』記事の訪唐記事の流用や『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を参照して聖徳太子死亡記事に流用し、667年奉納『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』や666年奉納『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像
本像台座の框銘文』を知らない665年以前に『先代旧事本紀』の執筆法と同じように皇太子が大臣に書かせたと考えられる。
『日本書紀』舒明天皇十三年に「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と皇太子で天智天皇七年「皇太子即天皇位或本云 六年歳次丁卯三月即位」と667年まで皇太子で天智天皇七年「立古人大兄皇子女倭姫王爲皇后 遂納四嬪 有蘇我山田石川麻呂大臣女」と蘇我山田石川麻呂が書いた可能性が高い。
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