2018年10月22日月曜日

最終兵器の聖典 史書の確認3

  『古事記』と『日本書紀』の安康天皇以前は巨勢氏が書いたと述べたが、『日本書紀』の安康天皇以前に巨勢氏が記述されていないけれど、『古事記』には大倭根子日子国玖琉「建内宿祢之子、并九・・・次、許勢小柄宿祢者、許勢臣・雀部臣・軽部臣之祖也」と記述し、元々は 許勢臣を名乗っていたのに『日本書紀』は正史なので天皇に氏姓は不要と許勢氏を記述しなかったように思われる。 
許勢氏は元々葛城長江曽都毘古が政権を取得したときに蘇賀氏・平群氏とともに配下として氏姓を与えられていたが、『日本書紀』安康天皇以前の執筆時に天皇で氏姓が無かったということだ。 
氏姓は王朝(王朝の王は氏姓が無い)が新しく支配した王(王には氏姓が無い)の氏族に新たに氏姓を与えることで、多くが地域名を氏姓につかい、正式に配下になる以前は祖、他王朝の氏姓を持っていた人物は他王朝の氏姓を得る前を遠祖としたと考えられる。 
『日本書紀』崇神天皇六〇年の「出雲臣之遠祖出雲振根 誅出雲振根。故出雲臣等畏是事」の出雲臣は臣従していない出雲臣で、仁徳天皇即位前紀「而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰」は出雲淤宇宿禰が仁徳天皇に臣従したことを示している。 
巨勢氏が書いた『古事記』は499年の平群大臣滅亡を顕宗天皇即位前に記述していることから顕宗即位後、501年仁賢天皇即位でそれ以降に完成していることがわかる。 
『古事記』は『梁書』に対応して雄略天皇に「此時、呉人参渡来。」とし、『日本書紀』も雄略5年・8年・10年・12年・14年と呉国と交流しているが『宋書』 卷六本紀第六孝武帝大明六年「壬寅 以倭國王世子興爲安東將軍」以外対応していない。 
すなわち雄略紀の交流は『梁書』の扶桑国の記事と対応しているからで、内容も軍事ではなく「將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津」と文化交流だ。 
461年雄略天皇五年「呉國遣使貢獻」記事は『宋書』「孝武大明六年,詔授興安東將軍、倭國王」と同年だが、477・8・9年記事が記述されていないことから、扶桑国と無関係の記事と考えられる。 
そして、『古事記』は仁賢天皇の時作成していて、唐初完成の『梁書』を読んでいないので雄略天皇の記述は日本側の資料だとわかり、更に、『晋書』は640年頃、『宋書』は500年以降、『南斉書』が530年頃と『古事記』作成以降に日本に流入しているので、最終形が完成した時に書き換えていないし、推古天皇の時代まで記述しているので、書き換えるのなら仁賢天皇以降も追加して詳細を記述するはずである。 
そして、『古事記』の最終形が完成したのは、「日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇」と舒明天皇が天皇になることを記述しているので舒明天皇の時代に完成させた。 
そして、天皇名は『日本書紀』・『先代旧事本紀』を継承していることから舒明天皇の王朝の王名を継承していると考えるべきで、広国押建金日や建小広国押楯・天国押波流岐広庭と役職名のような名前で舒明天皇の名は息長足行廣額と応神天皇の母息長帯日売と同姓で継体記「品太天皇五世之孫」と広国押建金日の父を記述しているようだ。 
舒明天皇が『古事記』を完成させたのだから、自分の父祖の名前を遠慮して書く必要が無く、至極当然の帰結であり、同じように、「太朝臣安万侶」が創作したのなら、少なくとも元明天皇まで系図を続けている。 


0 件のコメント:

コメントを投稿