従って、雄略天皇から顕宗天皇までは原則『古事記』を基準に読み解くべきで、『日本書紀』の平郡氏の事件の武烈天皇即位前紀「億計天皇崩 大臣平群眞鳥臣 專擅國政」は『古事記』白髪大倭根子「即興軍囲志毘臣家 乃殺也」の時代が正しい事件で顕宗天皇が平群氏から政権を奪ったことが解る。
そして、『日本書紀』の雄略天皇から崇峻天皇までを書いた人物は500年頃に完成した『宋書』、530年頃に完成した『南斉書』を読んでいるはずなのに『日本書紀』に記述しておらず、『日本書紀』に記述した推古政権にとって、対中国に対する臣従記事は俀国の説話で分国した倭国、葛城氏の流れをくむ蘇我王朝や秦王国物部王朝の記事ではなく、俀国は扶桑国にとっては筑紫君という配下、再興の秦王国にとっては筑紫国造で警戒すべき敵国であった。
すなわち、『日本書紀』崇峻天皇までは俀国と敵対する秦王国の王の物部氏が完成させ、前項で述べたように『日本書紀』武烈天皇即位前紀は本来『古事記』の清寧天皇末で顕宗天皇前紀と同等で継体天皇は『古事記』の仁賢天皇、安閑天皇は『古事記』の武烈天皇、宣化天皇は『古事記』の継体天皇、欽明天皇は『古事記』の安閑天皇、敏達天皇は『古事記』の宣化天皇、用明天皇は『古事記』の欽明天皇、崇峻天皇は『古事記』の敏達天皇、推古天皇は『古事記』の用明天皇となる。
これは、『新唐書』の「次用明亦曰目多利思比孤」と対応しており、実際の『古事記』の推古天皇は『日本書紀』の皇極天皇となり、『古事記』完成は640年以降完成したことになり、すると、『日本書紀』の崇峻天皇紀までは640年に近い時期までの話となる。
しかし、『日本書紀』欽明天皇二年「百濟聖明王謂任那旱岐等言」は聖明王在任中で、異論があるが「高麗以正月丙午。立中夫人子爲王。年八歳。」、4年の誤差があるが欽明天皇十八年「百濟王子餘昌嗣立。是爲威徳王。」と記述し、「百濟本記云」のように百済系史書と突き合わせていて各記事はそれほどズレてはいない。
すなわち、雄略天皇から崇峻天皇は天皇は2代ずれているが、記事は概ね正しい可能性が高いことが解り、私が言う宮とその記事は概ね正しく、『日本書紀』継体天皇二五年「或本云天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文」のように、本来宮が継体28年まで続いたが、百濟本記に合わせ、継体28年死亡の天皇と継体25年死亡の2人の天皇がいたように、天皇個人は複数の王をその宮に当てはめていると言ことが証明されている。
次に『先代旧事本紀』の作成時期だが、前文には「修撰未竟太子薨矣撰録之事輟而不續」と太子死亡のため記述を終了したとしているが、敏達天皇「田眼皇女嫁息長足行廣額天皇」と記述され舒明天皇の時に記述されたことが解る。
従って、『先代旧事本紀』の「帝皇本紀」は命じた太子が薨じ、舒明天皇が即位することになった為に記述を中止し、「天孫本紀」はその後「淨御原朝御世・・・賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」、『日本書紀』朱鳥元年「次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事」と686年頃に完成し、前文は『日本書紀』の皇極天皇以降はまだ完成していないため、舒明天皇までに記述したと思われる。
「物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と馬子と蝦夷を混同しているが、嶋大臣の長男は嶋大臣すなわち、馬子の長男蝦夷は嶋大臣という概念がまだ続く『日本書紀』の宮天皇の世界であり、序文の「厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉」の聖徳太子と「撰未竟太子薨」の太子が異なる人物で、その太子は入鹿の可能性も否定できない。
『日本書紀』皇極天皇四年の「蘇我臣蝦夷等臨誅 悉燒天皇記 國記」は正しく蝦夷が『天皇記』・『國記』
を執筆していたことを意味する。
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