2018年10月15日月曜日

最終兵器の聖典 神武東征6

 宮自体が天皇システムで皇太子と大臣の2人の皇太子は義兄弟(長男が同一人物とするため叔父甥もある)で例えば親が磯城彦、皇太子が兄磯城、大臣が弟磯城で、弟磯城が磯城彦と兄磯城を殺すと弟磯城が磯城彦で皇太子・長男が兄磯城で弟磯城が娘婿となって長男が権力を持ち続ければ長男が磯城彦で磯城彦の母が皇太后で長女が磯城足姫となる。
『古事記』に「神沼河耳命、坐葛城高岡宮」と耳の官名を貰った沼河は葛城に宮を置き、『古事記』は巨勢氏が記述しているため、巨勢氏は葛城氏の末裔で、三嶋溝橛耳を後ろ盾にして神沼河耳は氏姓として葛城氏を貰い、『古事記』は葛城氏の史書ということだ。
すなわち、神武東征説話は神国の領有国三輪(神倭)国の建国説話、兄磯城・弟磯城・高倉下の説話の磯城王兄磯城を悪者にして代わりに若御毛沼や狭野を上書きした説話で、高倉下を天香語山に置き換えて読め、高名な高倉下は天香語山のことと物部氏の史書『先代旧事本紀』は述べている。
『古事記』の神武記で高倉下は熊野から出ておらず、磯城という名前もまだ有ったか解らず、『日本書紀』の「神武天皇即位前紀戊午年」では「皇師大擧 將攻磯城彦」・「宜先遣弟磯城曉喩之 并説兄倉下 弟倉下」とすでに建国3年前に磯城は彦を官名にする領地で倉下兄弟も配下となって『古事記』の時代背景は『日本書紀』より早い。
そして、『古事記』では懿徳天皇の皇后すら「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命、亦名飯日比売命」と神武天皇就任時に弟磯城に授与した磯城縣主が「師木県主之祖」と磯城縣主に就任しておらず、『古事記』の懿徳天皇大倭日子すき友は神武天皇就任以前の人物だとわかる。
そして、孝安天皇大倭帯日子国押人が大倭=磯城を治めた王で役職名大倭帯日子となり、孝安天皇の父孝昭天皇が倉下兄弟の一人、孝昭天皇の義兄の羸津世襲が弟磯城、その父劔根が磯城彦である。
『古事記』が早いのは当然で、『日本書紀』の神武東征は「年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛」と日向国の姫に婿入りし「日向国」から出発していて、『古事記』は「坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比売」と日向という地名で日向国ではなく、日向国は景行天皇の時代に「是國也直向於日出方。故號其國曰日向也」と名付けられている。
3史の神武天皇は時代背景が全く異なる時代で、『先代旧事本紀』の「庶兄者追伏・・・須世理姫爲嫡妻而於宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理於」と大国主すなわち弟宇迦斯が庶兄すなわち兄宇迦斯を追い出して底津石根宮を作った説話を、宇迦能山から高倉山に流用したものである。
すなわち、神武東征説話は弟宇迦斯大巳貴が宇迦斯事代主から大国を奪った説話を脚色して、それぞれの史書が自分たちの出自である大倭・磯城を統治した説話に挿げ替えたものである。
そして『古事記』はそれを葛城侵入説話に、『日本書紀』は葛城侵入説話の出発地に葛城王朝を建てた状況を加味した説話とした。
史書は勝者の歴史を書き、敗者の栄光を我が物の如く勝者の歴史として記述するもので、『日本書紀』は勝者が書き綴った史書だから、物部氏も尾張氏も配下として記述して、両氏の事績を自家の歴史として綴った。
それは当然のことで、自分の事績も後に配下になった人々の配下になる前の事績であろうとも、自分の配下の事績すなわち自分の事績なのである。
『古事記』には3道侵攻しか書いていないが、『古事記』を書いたとき西道が自領でなくなっていたことを示していて、少なくともこれらの史書は無い事を有る様に記述しているわけではなく、史書を書く時点で配下にある氏族・領域を自分のものとして、有名な説話の主語を変えて記述していて、古代史を検証する有力な手掛かりとなる書物なのだ。

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