2024年6月28日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神4

  韴霊は、『古事記』では伊都之尾羽張神と記述され、大国主から国譲りを迫った尾羽張の子の建御雷之男のものであった。それを継承したのが出雲臣の祖である建比良鳥なのだろう。その韴霊を沙麻奈姫が継承し、建甕槌が建御雷の名を襲名して、高倉下に韴霊を献上したと考えられる。沙麻奈姫の父の出雲大臣は、食国の賜姓の臣と考えられ、懿徳朝の時代は2王朝が対峙していたようだ。

高倉下も懿徳朝の頃の人物のようで、足尼は宇摩志麻治が最初の賜姓だが、孝安天皇の時に六見宿祢と三見宿祢が「其宿祢者始起此時也」と食い違う。漢字の無い時代の足尼と宿祢は同じだが、異なる文字を使ったのは、異なる王朝の官位だったからなのだろう。「スク」は「梳く」の意味なのだろう。

出雲の大山祇から出雲臣の祖の建比良鳥、出雲色多利姫、出雲大臣、そして、その娘の沙麻奈姫と出雲氏が継承された。出雲大臣の世代に隠岐が大国の支配下になったと考えられる。隠岐も奈賀命が統治したが、美豆別主も勢力を残していたと記述され、美豆別主の後ろ盾が出雲大臣だったのだろう。奈賀命は阿曇首を賜姓され、出雲の大山祇の勢力下だったことが解る。

隠岐の王が主を任命し、大臣は名目上隠岐の配下だったが、実際には大国主や大臣が統治していた。大山祇の末裔の出雲氏は懿徳朝の滅亡によって亀岡や島根半島の出雲に逃れたのだろう。出雲臣の祖の出雲振根を誅した時に出雲臣が存在したように、出雲臣を賜姓した別の朝廷が存在したことを示している。

『日本書紀』の出雲臣の賜姓は仁徳朝に淤宇宿禰かその子が賜姓されたのだろう。崇神朝の時に国造に賜姓された宇迦都久努は東の「拘奴國」に賜姓された国造と考えられ、これが、崇神朝の出雲臣なのだろう。大臣は『古事記』や『日本書紀』の朝廷にとって、自分たちが制定した官位では無かったので、初出が建内宿禰大臣である。それまで、大臣は大連とともに天皇であったと思われる。

2024年6月26日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神3

  『日本書紀』には「武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮」、すなわち、「武日照は、天から来て出雲大神宮に神宝を収めた」と記されている。また、『丹波国風土記』には、亀岡の出雲神社から出雲の出雲大社に大国主を遷したとあるそうだ。亀岡の出雲神社の正式名称は出雲大神宮で、『日本書紀』を記述した人々がこの説話からそう呼んだのだろうか。『日本書紀』記述者は『丹波国風土記』を読んではいないので、『日本書紀』の説話は出雲大社が既にあった時の説話である。

『日本書紀』では、天菩比の子である武日照が建比良鳥を別名としており、建比良鳥は崇神朝に賜姓された出雲国造の祖である。武日照は大国主の正統な後継者であり、その名を襲名したものと考えられる。『日本書紀』によれば、天穂日の子は武三熊之大人で、小浜には熊野がある。大人は『舊事本紀』に「齊主神號齊之大人」と記されており、主を意味する。大国主が主の起源であったのだろう。

建比良鳥は、菩比と共に天から降りてきた人物で、『日本書紀』の天夷鳥のように、鳥はその住んだ場所を意味し、元々は天比良という名だったと考えられる。比良鳥は黄泉比良坂の人物とも考えられ、黄泉は対馬のことを指し、黄泉と思われる上縣郡ではないものの、厳原には平(ヒラノ)神社がある。

三熊之大人の娘が鳥に住み、菩比の子の比良がその娘を妃にして鳥の比良を名乗り、大人(主)の称号を継承したのだろう。菩比が仕えた大國主は三熊之大人だったと考えられる。

菩比は出雲臣の祖であり、出雲臣の最初の記録は沙麻奈姫の父である。沙麻奈姫は建甕槌の母であり、建甕槌の父は建飯勝、建飯勝は安寧天皇の義兄である。建甕槌が持っていた剣の韴霊を髙倉下に渡し、髙倉下の子が即位したのだろう。崇神朝60年の武日照と武諸隅の説話は出雲国造が武日照ではなく宇迦都久努と世代が異なり、高倉下の説話の可能性が高い。武諸隅(建諸隅)は孝昭朝の大臣である。

2024年6月24日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神2

  天照國照彦天火明櫛玉饒速日は、加須屋大海祇の庇護下にあった人物で、敦賀や隠岐の三子島に天降ってきた。『伊未自由来記』によれば、久米部、綾部、工部、玉造部の民を率いて大山祇の指示で隠岐に来島したとされている。饒速日は若狭と敦賀の二岐に住み、その子供たちが敦賀の櫛川の王()と隠岐の王になったと考えられる。

饒速日は「天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊」を祀る、すなわち対馬の月神と日神を祀る氏族で、物部氏の始祖だ。物部氏の史書の『舊事本紀』の最初に記述されるのだから当然のことである。饒速日の分祀である美豆別之主之命は、奈岐の浦の岬に城を建てた。これは「國引」をした「八束水臣津野命」のことを指しているのだろう。

前代の王の大人様が大津の神の宇都須山祇神の子なのだから、美豆別之主も大津の神の影響下の可能性が高い。八束は野洲川の津の出身で、三国の津、敦賀から来島して於国の国神になり、姓は臣や主だ。すなわち、賜姓した上位者の大山祇が存在する。美豆別之主の時代に大山祇大神の勢力が落ちたということは、大津や三国の勢力が強まったことを意味する。

さらに、饒速日は速日別の出身で、大国に住み、対馬から分祀した天神狹霧を祀った人物だ。『舊事本紀』によれば、神武天皇は「狭野尊」であり、速日別から隠岐に渡った海人の於佐神と同族だと考えられる。狹霧尊を祀る「狭野尊」が王になったと『舊事本紀』は述べている。饒速日は鳥見(鳥浜)の王の長髄彦を屈服させ、妹の御炊屋姫を妃にした狭野尊なのだろう。

(テラス)は帯(タラス)の「アシ」が「タ」国を支配することに対して、「帯」人物の指示で「タ」国を直接統治することを意味すると思われる。天狹霧の娘の遠津待根が遠津山岬帶という「帶」す神を生んで、須佐之男の神生みが終わる。遠津山岬帶の指示で狭野尊が統治したことを示したのだろうか。天照大御神が自分の支配する田を「阿多良斯登許(アタラシトコ) ()」、吾が帯す所と言った意味が理解できる。

2024年6月21日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神2

  天照國照彦天火明櫛玉饒速日は、加須屋大海祇の庇護下にあった人物で、敦賀や隠岐の三子島に天降ってきた。『伊未自由来記』によれば、久米部、綾部、工部、玉造部の民を率いて大山祇の指示で隠岐に来島したとされている。饒速日は若狭と敦賀の二岐に住み、その子供たちが敦賀の櫛川の王と隠岐の王になったと考えられる。

饒速日は「天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊」を祀る、すなわち対馬の月神と日神を祀る氏族で、物部氏の始祖だ。物部氏の史書の『舊事本紀』の最初に記述されるのだから当然のことである。饒速日の分祀である美豆別之主之命は、奈岐の浦の岬に城を建てた。これは「國引」をした「八束水臣津野命」のことを指しているのだろう。

前代の王の大人様が大津の神の宇都須山祇神の子なのだから、美豆別之主も大津の神の影響下の可能性が高い。八束は野洲川の津の出身で、三国の津、敦賀から来島して於国の国神になり、姓は臣や主だ。すなわち、賜姓した上位者の大山祇が存在する。美豆別之主の時代に大山祇大神の勢力が落ちたということは、大津や三国の勢力が強まったことを意味する。

大国主と同一視される大山祇は丹波の出雲の神だ。出雲大社の大国主は『丹波国風土記』によれば、亀岡市の千歳出雲の出雲神社から遷されたとされている。大国主が建ててもらった宮は亀岡の出雲神社のようだ。

さらに、饒速日は速日別の出身で、大国に住み、対馬から分祀した天神狹霧を祀った人物だ。『舊事本紀』によれば、神武天皇は「狭野尊」であり、速日別から隠岐に渡った海人の於佐神と同族だと考えられる。狹霧尊を祀る「狭野尊」が大国主を追い出したと『舊事本紀』は述べている。饒速日は鳥見(鳥浜)の王の長髄彦を屈服させ、妹の御炊屋姫を妃にした狭野尊なのだろう。

2024年6月19日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神1

  天照大御神は「汝命者所知高天原」として高島を任された。天照大御神は琵琶湖の高島を任された琵琶湖岸の神で、「照」という地域の大国および三国の神を合祀した神を意味する。「照」という地域の人物には以下の5名がいる。日名照額田毘道男伊許知迩、天照國照彦饒速日、下照姫、高照光姫、武日照である。

武日照は武夷鳥とも呼ばれ、「鳥」が「照」と同じ地域を指している可能性がある。若狭町には鳥浜があり、三方五胡には日向湖(ヒルガコ)という湖がある。これは対馬の昼ヶ浦と同じ音だ。また、対馬の美津島には阿麻氐留神社があり、美浜への地名の移動が起こったのかもしれない。「テル」はナンバーツーとして統治する意味だろう。ナンバーワンは津島神の月神と考えられる。

日名照額田毘道男伊許知迩は、八島牟遲の孫である鳥鳴海の妃であり、國忍富を生んでいる。八島牟遲は胸形神の血を引く八島の神で、野洲にある日野川から鳥浜の近辺に遷った神だと考えられる。

「富」は「トミ」と読ませるが、『古事記』では全て「意富」・「富登」などと表記し、「ホ」と読む。これは尖った穂先の「穂」と同じ読み方で、特別に富を使っている。これは、穂が多くあることを表現したのだろう。

國忍富は、大八国を富ませたことを示していると考えられる。國忍富は葦那陀迦神を妃に、天忍穂耳は豐葦原之水穗國すなわち葦という、三国の穂の邑が目的地で無縁ではなさそうで、「天」の意味が琵琶湖に変化したと考えられる。神の名は履歴書のようなもので、使われる文字によって後代の評価が反映されている。倭が大和を指すようになったのも、「あま」を倭と表現したのも、後代の評価である。

2024年6月17日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三貴子

『古事記』の三貴子は『日本書紀』や『舊事本紀』の「日神」、「月神」、「素戔鳴」ではない。両書の大日孁貴は史書を記述する時に「日神」を「大日孁貴」のことと述べたもので、本来は日神だ。『古事記』は最初から「天照大御神」と「月讀」で、「素戔鳴」は「()速須佐之男」である。「()」は後で省いているので、建も後付けなのだろう。「大日孁貴」の原型は「日孁」、「女子國」対馬の「兩女子」の一方、もう一方は「対岐」「月」だろう。すなわち、分祀による世代交代によって、神の名の変遷があったことを示す。

これまでの法則にしたがうと、対馬「女子國」に、土地神の「津岐」がいた。対馬には美津島(神津島、神の津の島)と、美津島に昼ヶ浦がある。その昼ヶ浦の海神が「日神」の「日孁(ヒルメ)」である。そして、月が対馬海流の下流の「世」に分祀し「世神(ヨミ)」と合祀され、祀る神を習合した「津岐世神」を祀った。津岐の「日孁」と津岐「世神」の2柱の土地神を祀る「女子國」が出来上がった。土地神は女性が継承する。そして、昼ヶ浦の神の「ヒル」神の神子(ミコ)が「蛭子」である。「蛭子」は宗像に分祀の日孁貴、さらに、大国に「大日孁貴」へと分祀及び合祀された。木の葉比等の娘は三子島の王で奈岐と呼ばれたのだろう。

海人の於佐神」は佐之男が隠岐の島後の「於母島」の奈岐の浦に分祀したから於佐神だ。佐の臣(於神)である。出身は「海人」、対馬と考えられる津神の神子の佐之男である。野槌の次の世代の時の名は国名が無い唯の「州」()で、速国に分祀された。佐は狭と同じで突き出た岬、速須佐之男は東の「拘奴國」の「くきの海」の洞海湾にある岬に宗廟を造ったのだろうか。「洞此云久岐」すなわち久国・久州と『日本書紀』は記述する。

「速須佐之男」は「日孁貴」と共に「多紀理毘賣」と「市寸島上比賣」と「多岐都比賣」を生む。「市寸島上比賣」は壱岐の神、「多岐都比賣」は但馬の神で佐之男は分家を壱岐と但馬に造った。「多紀理毘賣」のまたの名が「奧津島比賣」である。分家の隠岐の佐臣が更に「タ(島の)キリ」という土地に移住したのだろうか。兵庫県豊岡市周辺に霧や切、桐がつく地名が多い。「須佐之男」は大穴牟遲に国を譲った義父であり、丹波大国の王だった。そして、物部氏の祖神も狹霧尊、速日の狹霧尊が豊岡市周辺に霧の名を持って移住したのだろうか。尊は神子人、すなわち、天子の子、天孫を意味する。

2024年6月14日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 伊耶那伎の貴子たち4

  出雲の鞍山祇は、「加須屋大海祇」の分祀であった可能性が高い。海神(天神)の於佐神の後、出雲の鞍山祇之大神の神子が三子島を支配した。「加須屋大神祇」の分祀である大山祇と国神の野椎のペア神、その分祀に国闇戸がいて、つまり鞍山椎を意味する。婿が天闇戸で、合祀して鞍山祇、習合して闇淤加美、すなわち闇淤神→闇臣となったと考えられる。

蘇我倉臣や倉皇子、倉稚綾姫といった「倉」という地名があったようで、若狭に闇見神社があり、生倉がある。習合した神名は婿入りによって移動する。紀里がその例であり、紀氏は莵道、木津の紀伊(木国)、平群県の紀里、そして現代の紀伊に移動した。

闇山津見と同様に迦具土から生まれたのが石拆、根拆、石筒之男の三貴子である。伊邪那岐は筑紫で神生みをしたので、筑紫の神が伊邪那岐に書き換えられたと考えられる。そして、迦具土は帝俊の流れを汲む神と考えられた。帝俊が生んだ三身国の神だから、やはり三神生む。

石根は宮柱を立てる「もと」の礎石となるもので、石筒は柱を補強するための保護材として、穴に石や木を巡らせるものだと思われる。つまり、石筒之男は朝廷を守る跡取りとして裂けない存在だ。分家は、水流の上流と下流の隣り合わせに増やすのが合理的である。

それで、伊耶那伎は底筒之男、中筒之男、上筒之男を生んでいる。表筒男、中筒男、底筒男は「日向國橘小門之水底所居而」とあり、日向国の神であり、大伴氏の神である。彼らは墨江三前大神と記述され、神武東征後に墨江に祀られた。そして、襲津彦の孫が住吉仲皇子で、大伴氏の支援を受けた皇子である。それに対して、伊邪那岐が生んだというのは加須屋の大海祇が生んだと考えられる。川の神ではなく海の神の志賀島の阿曇連の祖神なので、加須屋の対岸である。