『古事記』の三貴子は『日本書紀』や『舊事本紀』の「日神」、「月神」、「素戔鳴」ではない。両書の大日孁貴は史書を記述する時に「日神」を「大日孁貴」のことと述べたもので、本来は日神だ。『古事記』は最初から「天照大御神」と「月讀」で、「素戔鳴」は「(建)速須佐之男」である。「(建)」は後で省いているので、建も後付けなのだろう。「大日孁貴」の原型は「日孁」、「女子國」対馬の「兩女子」の一方、もう一方は「対岐」「月」だろう。すなわち、分祀による世代交代によって、神の名の変遷があったことを示す。
これまでの法則にしたがうと、対馬「女子國」に、土地神の「津岐」がいた。対馬には美津島(神津島、神の津の島)と、美津島に昼ヶ浦がある。その昼ヶ浦の海神が「日神」の「日孁(ヒルメ)」である。そして、月が対馬海流の下流の「世」に分祀し「世神(ヨミ)」と合祀され、祀る神を習合した「津岐世神」を祀った。津岐の「日孁」と津岐「世神」の2柱の土地神を祀る「女子國」が出来上がった。土地神は女性が継承する。そして、昼ヶ浦の神の「ヒル」神の神子(ミコ)が「蛭子」である。「蛭子」は宗像に分祀の日孁貴、さらに、大国に「大日孁貴」へと分祀及び合祀された。木の葉比等の娘は三子島の王で奈岐と呼ばれたのだろう。
「海人の於佐神」は佐之男が隠岐の島後の「於母島」の奈岐の浦に分祀したから於佐神だ。佐の臣(於神)である。出身は「海人」、対馬と考えられる津神の神子の佐之男である。野槌の次の世代の時の名は国名が無い唯の「州」(国)で、速国に分祀された。佐は狭と同じで突き出た岬、速須佐之男は東の「拘奴國」の「くきの海」の洞海湾にある岬に宗廟を造ったのだろうか。「洞此云久岐」すなわち久国・久州と『日本書紀』は記述する。
「速須佐之男」は「日孁貴」と共に「多紀理毘賣」と「市寸島上比賣」と「多岐都比賣」を生む。「市寸島上比賣」は壱岐の神、「多岐都比賣」は但馬の神で佐之男は分家を壱岐と但馬に造った。「多紀理毘賣」のまたの名が「奧津島比賣」である。分家の隠岐の佐臣が更に「タ(島の)キリ」という土地に移住したのだろうか。兵庫県豊岡市周辺に霧や切、桐がつく地名が多い。「須佐之男」は大穴牟遲に国を譲った義父であり、丹波大国の王だった。そして、物部氏の祖神も狹霧尊、速日の狹霧尊が豊岡市周辺に霧の名を持って移住したのだろうか。尊は神子人、すなわち、天子の子、天孫を意味する。
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