2017年12月6日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『隅田八幡神社人物画像鏡』の考察Ⅰ

※前説
 今回の論文は古田史学で発表を拒絶された論文で、前回の『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』がきっかけか、この論文の演題がきっかけか私には解らないが、どちらかが古田史学の逆鱗に触れたようだ。古田史学は7世紀を主戦場に活動を深めており、『日本書紀』の30年の前倒し誤差や難波京の九州王朝副都説に力を集中しているときに、真っ向から批判する発表は痛かったのだろうか。「集中砲火の如く批判してあげるから発表しなしなさい」と自信満々に誘ってくれた古賀会長の言葉に反して「訳が分からない」とのつぶやきの中で「論が多すぎて批判の仕様がない」と批判できない理由にするのがせいぜいだった。当然で、私は言わば金石文をつないでいるだけなので、無い事を基に造られた古田史学では批判しようがない。私の論を批判するには別の金石文・考古的遺物を持ってきて間違いを証明すればよいのであるが、古田史学では藪蛇になってしまう。前回と今回のどちらが古田史学の逆鱗に触れそうか考えてみてください。

1・古事記
 私は古事記が伊都の高千穂の宮にあった史書に仁賢天皇が自分の王朝の歴史を加えて完成させたものにその後の系図を付け加えたものと論証した。安万呂が作った虚構なら、欠史8代や仁賢天皇以降が空白と言うことは有り得ず、虚構なら推古天皇の章だけでもう一巻できたと思われる。さらに、古事記には応神天皇が初めて文字を習ったと告白しており、少なくとも応神天皇記までは高千穂の宮の資料を使っていて、おそらく、403年に諸国に国史をおいて古事記の資料を集めた。403年頃に集まった資料でその580年前は紀元前177年頃になり、私は神武天皇即位を紀元前181年としたが、この符合の仕方は偶然とは思えず、紀元前178年神武天皇4年に皇祖天神を祀った宮を作ったのだろうか。
『古事記』
神代 「日子穂ゝ手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳」
品陀和気命 「即論語十巻 千字文一巻 并十一巻 付是人即貢進」
『日本書紀』
神武天皇四年二月甲申 「用祭皇祖天神焉」
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」

2.鏡
 古事記の文中には神代と朝鮮から貰った時以外に鏡のことに触れられておらず、古事記を書いた王朝は鏡に興味を示していない。ただ、朝鮮から鏡が送られた説話を載せるだけで、日本書紀の仲哀天皇の国の線引きに使うように重視してはいなかった。すなわち、古墳の中に鏡を重視して積極的に埋納することを流行させていたのは古事記を記述した王朝以前・以外の王朝と考えられる。すなわち、5世紀の日本では古墳に鏡を埋納する習慣が有ったか疑問で、雄略天皇の記事は物部氏を祀る石上神宮や大伴氏の記述で5世紀の天皇の事績か不明で、鏡の埋納は4世紀以前か6世紀以降と考えるべきと思う。さらに、『隅田八幡神社人物画像鏡』は「踏み返し」という5世紀後半に中国で始まった技法を使って作られたと言われているので、6世紀以降の作成の論を補強する。
『古事記』
「百済国主照古王、以牡馬壱疋・牝馬壱疋、付阿知吉師以貢上。・・・亦、貢上横刀及大鏡。・・・其天之日矛持渡来物者、玉津宝云而、珠二貫。・・・又、奥津鏡・辺津鏡、并八種也。此者伊豆志之八前大神也。」
『日本書紀』
仲哀天皇八年正月壬午 
「豫拔取五百枝賢木。以立九尋船之舳。而上枝掛白銅鏡。中枝掛十握釼。下枝掛八尺瓊。・・・且如白銅鏡以分明看行山川海原。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年四月甲申 「皇后召武内宿禰。捧釼鏡令祷祈神祗。」
雄略天皇三年四月 「掘虹起處而獲神鏡。移行未遠。・・・還悔殺子報殺國見。逃匿石上神宮。」
雄略天皇九年五月 「使倭子連 連未詳何姓人。 奉八咫鏡於大伴大連」
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連、乃跪上天子鏡劔璽符再拜。」


2017年12月4日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』Ⅲ

5.光背銘

 従来説を否定してきたが、だからと言って白鳳佛の薬師如来像が飛鳥佛の時代の607年に奉納したことにはならないのは当然である。白鳳佛で書風が隋唐風の時代に銘文を記述した時の丁卯年は667年と考えなければならない。667年は天智天皇が摂政に就任しており、摂政ということは他に天皇が存在したことを意味し、666年に大病した中宮天皇のために「弥勒菩薩半跏思惟像」が奉納されていて台座框に詳細が書かれている。すなわち、小治田大宮治天下大王天皇は中宮天皇で東宮聖王は天智天皇ということになる。そして、大化元年・皇極天皇4年に皇極天皇の世を小墾田宮御宇之世と記述して馬子が仏像を奉納したと記述されている。これはまさしく皇極天皇4年は667年で646年に大病した池邊大宮治天下天皇こと馬子のために造佛したが馬子が死んだので奉納できなかった像を667年に奉納したと読むことができる。馬子は日本書紀上では推古天皇の時に死亡していて、645年に記述する意味もないが、皇極4年を667年として、馬子のためとすれば意味がとおる。『船氏王後墓誌』によって642年以降は阿須迦宮から遷都していて、池邊大宮天皇は用明天皇だが日本書紀は用明天皇を推古天皇とよび、 上宮聖徳法王帝説では嶋大臣35年薨と記述して馬子天皇の35年が646年と考えることも可能だ。それを裏付けるように、蘇我氏の「甘梼岡」の宮を「宮門」と呼んで、646年に命長年号が終了している。さらに647年を元年とする馬子の子の蝦夷天皇は愚説の乙巳の変664年まで18年在位していて、藤氏家伝で天智の摂政を14年と1年違うが日本書紀では斉明天皇は7年までで13年がないはずなのに書き残しているのは蘇我氏の岡本宮天皇蝦夷と混同したのだろう。そして、像を作った人物は池邊大宮治天下天皇が天皇だった時大王天皇と太子が造ったと記述しているように、小治田大宮治天下大王天皇の親がまだ大王と呼ばれたが刻字の時天皇を付加したと考えられ、天皇の名を冠する人物は同時に2人いない。
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
「池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子而誓願・・・崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也・・・」
『日本書紀』
大化元年八月癸卯 「於小墾田宮御宇之世 馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像」
『船氏王後墓誌』
「・・・首之子也生於乎婆陁宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 ・・・於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦・・・」
 『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣 曾我也 臥病 爲大臣之男女 并一千人???? 
 又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
『日本書紀』
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷 兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」
『藤氏家伝』
「十三年 春正月 御船西征 始就海路・・・天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原  十四年 皇太子攝政・・・」

6.結語

 646年に亡くなった池邊大宮天皇が存在しないため金石文を間違いにして自分の思う通りの内容に書き換えてしまっているのが古代史学の風潮である。国宝の2つの仏像は自説に合わないため、日本書紀までもが釈迦三尊像銘文に合わせているのに、日本書紀に合わないため間違いと断定している。日本書紀より古い仏像が日本書紀に合わないのなら、ここでこそ日本書紀を疑うべきではないのだろうか。日本書紀は紀伝体の資料を現在の天皇家の宮という時間軸に蘇我氏や物部氏をはじめ多くの王朝の歴史を張り付けて編年体風に作り上げた史書だと気づくべきだ。古事記は豊国王朝の歴史を紀伝体の日本史に付け加えたが、日本書紀は複数の王朝の合算した歴史、皇極天皇の記事が22年異なるように、それぞれの天皇が微妙に異なってはいるが、恣意的に変更しているわけではない。日本書紀の推古天皇はタリシヒコの法興帝歴36年、法興暦31年が推古29年、古事記では中臣歴または物部守屋歴37年、馬子歴なら35年でこの3・4名が推古天皇として挿入されているのだ。

2017年12月1日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』Ⅱ

3.天皇号

 古事記では大王は一度も記述されずに天皇はいつでも天皇と記述されているが、日本書紀では明確に聖王・大王・天皇を書き分けている。日本書紀全体では天皇だが、会話や引用では神功皇后より前は聖王すなわちただの王で開花天皇のときから、古事記では王が複数出現した為、王の中の王が存在したはずだ。神功皇后以降に天皇が出現して、百濟記には全て大王ではなく天皇と記述されていてる。そして、大王は允恭(葛城圓)・雄略(平群真鳥)・顕宗(巨勢男人)・継体(物部麁鹿火)・舒明(蘇我馬子)天皇が即位前に大王で即位後天皇と呼ばれて明確に差別化している。それは当然で、大王が大王に即位などという日本語は聞いたことが無く天皇に即位する。即位していない聖徳太子は太子でも大王で、朝鮮の王も任那の王も俀国の王も大王と呼ばれ、多くの大王の上に天皇が存在していることが解る。
『日本書紀』
垂仁天皇三年三月 「天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇 則以己國授弟知古而化歸之」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑
「新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰吾聞東有神國謂日本 亦有聖王謂天皇」
神功皇后摂政五十一年三月 「百濟王父子並致地 啓曰 貴國鴻恩重於天地何日何時敢有忘哉 聖王在上」
神功皇后摂政六二年二月 「百濟記云 壬午年 新羅不奉貴國・・・天皇遣沙至比跪 以討新羅・・・反滅我國兄弟人民皆爲流沈 不任憂思 故以來啓」
応神天皇二五年 「百濟記云 木滿致者是木羅斤資討新羅時 娶其國婦而所生也 以其父功專於任那 來入我國往還貴國 承制天朝執我國政 權重當世 然天皇聞其暴召之」
允恭天皇四二年正月戊子  「新羅王聞天皇既崩而驚愁之」
継体天皇二五年冬十二月庚子 
「大歳辛亥三月師進至于安羅營乞 是月高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子倶崩薨」
欽明天皇二年四月 「百濟聖明王謂任那旱岐等言 日本天皇所詔者」
仁徳天皇即位前紀 「何敢繼嗣位登天業乎 大王者風姿岐嶷 仁孝達聆 以齒且長 足爲天下之君」
仁徳天皇元年春正月丁丑朔己卯 「大鷦鷯尊即天皇位」
允恭天皇即位前紀 「今大王留時逆衆 不正號位 臣等恐 百姓望絶也 願大王雖勞 猶即天皇位」
允恭天皇元年十二月 「大王辭而不即位。位空之。・・・不知所爲願大王從群望。強即帝位。」
雄略天皇即位前紀 「伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區 請以贖罪 天皇不許」
顕宗天皇即位前紀 
「白髮天皇 以吾兄之故 奉天下之事 而先屬我々其羞之 惟大王 首建利遁 聞之者歎息・・・天皇不可以久曠 天命不可以謙拒 大王以社稷爲計 百姓爲心 發言慷慨 至于流涕 天皇於是 知終不處」
継体天皇元年二月甲午 「大伴大連等皆曰 臣伏計之 大王・・・是日即天皇位」
用明天皇元年正月壬子朔 「更名豐耳聰聖徳 或名豐聰耳 法大王或云法主王」
舒明天皇即位前紀 「是乃近侍諸女王及釆女等悉知之 且大王所察」
舒明天皇元年正月丙午 「群臣伏固請曰 大王先朝鍾愛 幽顯屬心 宜纂皇綜光臨億兆 即日 即天皇位」

4.書風

 615年頃書かれたとされる『法華義疏』が百済で流行していた六朝書風で、少なくとも615年頃までは隋唐風の書風では無かったようだ。しかし、薬師信仰で書いたように630年の遣唐使や隋・唐から高表仁等が来日して新しい書風を見ていることから、唐と外交するためには外交儀礼として新しい書風を取り入れるのは当然の成り行きだ。したがって、太宗22年の訪唐時には六朝風の書風ではなく新しい書風で国書を持参しなければ唐は長きにわたって付き合ってきた倭国の外交使節がいまだに南朝を慕っていると感じて唐書に書いたとは思えない。 そして、『法隆寺金堂薬師如来像』の刻字をおこなう天皇に近い人物が天武朝まで隋唐風の書風を使えなかったとは考えられない。また、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』でも述べたように、高蔵寺窯跡には隋以降の硯が出土しているが、硯は導入したが書風は導入しないなどということは無いと思われる。
『日本書紀』
舒明天皇四年八月 「大唐遣高表仁送三田耜 共泊干對馬 是時學問僧靈雲 僧旻」
『旧唐書 巻199上 東夷伝』
 「至二十二年 又附新羅奉表以通起居」

2017年11月29日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』Ⅰ

 今回は『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』から、蘇我氏が天皇だった証明と天豊財が665年に天皇だったことを論じた発表です。
1・従来説

 『法隆寺金堂薬師如来像』は福山敏男の論文「法隆寺の金石文に関する二、三の問題」等の発表以来7世紀後半の仏像とされた。さらに、奈良文化財研究所は『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』の論文によって、鍍金が文字に及んでいないことから仏像作成後に刻字されたとした。銘文がいかにも造作されたと言わんばかりの発表を行い『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の内容を貶めている。仏像作成後の刻字は銘文内容に後代奉納と記述してあるので誤りではないが、像が7世紀後半との説がある中の発表は偽造説の決定的証拠としていると思わざるを得ない。仏像が7世紀後半としたのは薬師如来像が飛鳥佛ではなく白鳳佛ということ、日本の薬師信仰は天武朝以降ということ、天皇号は飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が発掘され天智朝以降の開始ということ、書風が隋唐風でその書風を使用した『金剛場陀羅尼経』(こんごうじょうだらにきょう)が朱鳥元年(686年)の年紀をもつこと、これらのことから7世紀後半天武朝以降の刻字と考えられた。

2.薬師信仰

 薬師如来を説いた代表的な経典は、永徽(えいき)元年(650年)の玄奘(げんじょう)訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(やくしるりこうにょらいほんがんくどくきょう)と、景竜(けいりゅう)元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(やくしるりこうしちぶつほんがんくどくきょう)だそうだが、玄奘訳がすぐに日本に流入したと考えられないこともないが政治情勢からもむつかしそうだ。そのほかに建武(けんぶ)~永昌(えいしょう)年間(317~322年)の帛尸梨密多羅(はくしりみたら)訳、大明(だいめい)元年(457年)の慧簡(えかん)訳、大業(たいぎょう)11年(615年)の達磨笈多(だるまぎった)訳が知られている。すなわち、『金剛場陀羅尼経』は達磨笈多訳以前帛尸梨密多羅訳以降の仏典をもとに書かれていることがわかり、4世紀前半から7世紀初頭に薬師信仰が入った可能性があり、『金剛場陀羅尼経』じたいも隋時代の書で、薬師如来像が白鳳時代との論を否定できるものではない。
 薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であり、瑠璃光で人々の病苦を救うとされ、医薬の仏として信仰された。しかし、欽明天皇14年553年に医学や薬草の知識を取り入れた時、医博士(くすしのはかせ)や採薬師(くすりかりはかせ)の名前が僧侶風の名前で、630年には日本人の薬師が唐に派遣されているが、惠日(ゑにち)は僧侶の名前に感じる。これらの人物が帛尸梨密多羅(はくしりみたら)や慧簡(えかん)が伝えた薬師如来を信仰していたということは十分考えられ、以降、人名に薬の文字を使っている。すなわち、薬師信仰の証明はできないが信仰されていなかったと否定にもならない。

『日本書紀』
欽明天皇十四年六月 「所請軍者 隨王所須 別勅醫博士・・・又卜書 暦本種種藥物可付送」
欽明天皇十五年二月 「醫博士奈率王有悛陀 採藥師施徳潘量豊」
舒明天皇二年八月丁酉 「以大仁犬上君三田耜 大仁藥師惠日遣於大唐」
白雉四年五月壬戌 「學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子」

2017年11月27日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅳ

銘文問題

  『江田船山鉄剣銘』は被葬者自身が文書の役人であり、中国語が堪能な可能性が高く、銘文自体も中国語読みしなければならないと考えられ、「獲」が訓の「わ」と(訓でもわと読めそうもない)は読みそうもないように思える。もちろん、無理やり上殖葉と読まなくてもよいのだが、1人の候補として上殖葉は有力に感じる。『稲荷山鉄剣』の銘文は日本書紀の語順と異なっていて日本人が普通に読んでいける漢文のようで、『江田船山鉄剣銘』文は漢時代から中国の冊封体制下の倭の官僚になれる能力を持った人物の銘文のようで、「獲・鹵・大・王」の文字が書かれているが文化圏の相違を感じる。「大王奉」も正確な漢文で書かれたと言われる雄略紀に大王に奉献したと「大王奉獻臣」と記述されて臣と女が七區を大王に奉献していて、現在の名詞の奉職の使い方と同じと考えられないだろうか。大王の世なら「大王之世」と、前に付けるなら「治世」が通常の使用方法で、「天皇之世奉日神祀」と「之」を付け「世位」と皇太子の位を継いで東宮にいる。世を王名にせず世の中としても論理に齟齬をきたすわけでもないが、同一時期の「世」を世の中とするなら、わざわざあいまいな「世」を使わず「時」を使えばよく、継体紀と無関係と決めてしまって良いものだろうか。そして、継体紀は『新唐書』の用明天皇=「タリシヒコ」から2代ずれて宣化天皇の頃の筑紫君葛子の長男の火中君の内容の可能性がある。
『日本書紀』
雄略天皇即位前紀 「方屬乎臣。伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區。請以贖罪。天皇不許。」
継体天皇元年正月丙寅 「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」
欽明天皇十七年正月 「別遣筑紫火君 百濟本記云。筑紫君兒。火中君弟。」
用明天皇即位前紀 「自此天皇時逮乎炊屋姫天皇之世奉日神祀。」
用明天皇元年正月壬子朔 「是皇子初居上宮。後移斑移斑鳩。於豐御食炊屋姫天皇世位居東宮。」

『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』のまとめ

 大王の世の中と読むと誰から地位を得たのかわからない、「世」を王名としても中国語と齟齬しないことから大王世が被葬者に地位を与えた人物だとわかる。近畿天皇が滅亡した時の大王葛子が中国の冊封体制下の小国から日本国内で君という中心的勢力にのし上がり、糟屋郡は盗られたが筑紫・火・豊を奪われた様子がなく屯倉の物資の献上を免除されて、これら三国の領有を日本国(秦王国)から認められた王となったと考えるべきなのだろう。その証拠が磐井は中国に王と呼ばれたけれど日本国では筑紫国造であったのが葛子は筑紫君となっている。負けて出世しているのだから葛子と新しい天皇は同じ穴の狢で、共に国盗りしたと考えるべきで、日本の天皇・皇太子・皇子ともに死ぬの記事によって新しい王朝が始まったがそれは葛子の王朝ではなく、葛子は近畿とは別に九州中心の王国の大王となった。継体紀では、「世人謂」ではなく云(うん)と特定な人物や書が述べていることを表した「世云」の初代大王葛子の跡継ぎ「世」が践祚し大王となって 『江田船山古墳』の主を事典曹の役職に就任させたと考えるべきで、継体天皇は皇嗣ではないので践祚できない。日本国すなわち秦王国と同盟関係の王となって中国の冊封体制から抜け、この結果隋との対等外交となった思われる。
現代の古代史研究上では日本書紀が間違いというのは簡単なのだろうが日本書紀に書いてあることを間違いでないと論証をすることは不可能だ。一般の古代史研究は記紀は間違いという観点から出発して、持論に合えば正しいとしているが、私は記紀は正しいが矛盾があればその原因を調べるという立場だ。ただ、筑後を含めて肥後の地では磐井の乱以前は弥生末の免田式土器や近畿系の埴輪や吉備の土器が出土している。福岡平野では須玖式・西新式土器や須恵器の広がりは福岡平野に限定されていたようだが、磐井の乱以降に牛頸窯跡群のように須恵器が肥後にも広まっている。九州王朝が卑弥呼時代から全土を統一していたのなら出身地の九州の須恵器の広がりに矛盾を感じる。従って、いわゆる九州王朝は磐井以前まで福岡平野以北の王国だったと言わざるを得ないし、日本書紀は筑後川流域以南は大分の京都郡から出発した王の領域と記述している。そして、皇嗣ではない継体天皇がどうして血縁による正当な皇位継承である践祚ができるのだろうか。また、福岡平野にどうして三角縁神獣鏡があり、前方後円墳があり、矛と剣の文化圏の違いはどう説明できるのだろうか。九州が近畿の影響下であったり、支配されていることがあっても逆の九州王朝が7世紀半以前に日本全土を支配したということは有り得ない。もし、九州王朝と呼ぶとすれば大宰府に条里をもつ都市を作った7世紀後半に畿内と同じ文化圏になったとき日本全体の首都になったと言える。

2017年11月24日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅲ

時代背景

 肥後の近辺で大王と呼べるのは継体天皇以前なら「古田史学」で論じられている「玉垂命」の支配する地域で磐井以前には畿内系土器が出土していることからも畿内天皇家の配下だ。「稲員」家系図には初代物部保連と物部氏でつらと呼ぶそうだが「連」という「氏姓」がつけられていて、天皇と呼ばれていたと古田史学は言っている。磐井が豊国や火国を侵略した磐井の乱では天皇が物部大連麁鹿火に九州を与えると言っているが、本来天皇は磐井を配下の国造と言い、少なくとも磐井が支配する筑紫(福岡平野)以外を既に支配している。支配地に侵略されてはいるが、もともと本州は天皇の支配下で、この言葉は近畿天皇家の天皇や太子を殺害して滅亡させた人物の言葉である。継体紀を書いた人物は自分が継体紀から天皇だったとして書いたのであり、物部麁鹿火が勝利して葛子に九州を与えたと考えるべきだろう。物部麁鹿火が九州と無関係なのに空手形で九州を与えると言っても信用されず、物部麁鹿火が自領を与えるから協力しろとしたと考えるべきで、以前天皇だった「玉垂宮」の支配者が物部麁鹿火だった可能性があり、再度天皇と呼ばれることになった。近畿天皇家が滅亡して磐井の墓が八女に造られるということは、「玉垂宮」の人物と協力して葛子が動いて糟屋郡は盗られてしまったが、筑後・肥後を得たと考えるべきだろう。結果から見れば、近畿王朝が滅亡して九州を得たのは葛子だったということは、物部麁鹿火が葛子に九州を、自分が本州を盗る条件で連合して近畿王朝を滅亡させたのであり、本州を盗ったのはおそらく物部麁鹿火だったということである。(物部麁鹿火大連薨536年を古事記の継体天皇在位43年目とすると元号継体元年517の前年は日本書紀継体23年で巨勢男人大臣薨と無関係とは思えない)ここでも、日本では力が有れば天皇になれるということでは無い様で、物部という家柄が日本をまとめるための必須の条件だったと思われる。
『日本書紀』
継体天皇廿一年夏六月壬辰朔甲午
「於是筑紫國造磐井陰謨叛逆 猶豫經年 恐事難成恒伺間隙 新羅知是 密行貨賂于磐井所 而勸防遏毛野臣軍 於是磐井掩據火豐二國」
継体天皇廿一年秋八月辛卯朔  
「恭行天罸 天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」

火君

 葛子が肥後を得たことで、安閑天皇以降は肥後の支配者は葛子やその末裔の可能性が高く「火君」と呼ばれたと考えるべきで、欽明天皇紀には筑紫火君は筑紫君(葛子)の子で火中君の弟だと書いているように読める。欽明紀で活躍しているのだから宣化天皇時代の子で古事記に出現しない上殖葉皇子が火中君と想像される。上殖葉皇子は亦名で椀(まろ)子といかにも葛子と名前の付け方が類似している。しかも、欽明天皇の時に立太子してそれ以前は立太子しておらず、この立太子の時に、欽明天皇の長男以外が太子になった。日本書紀の時計では葛子とその長男火中君がそれまで大王だったのであり、筑紫火君を立太子して、葛子の長男の火中君は上殖葉皇子がその候補になり得る。(安閑天皇の1人は葛子、宣化・欽明天皇の1人が火中君?)
『日本書紀』 
継体天皇元年正月丙寅 「宣化天皇元年三月己酉 次曰上殖葉皇子 亦名椀子」
欽明天皇十七年正月  「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」

『江田船山』の被葬者の主人

 『江田船山』の被葬者は「玉垂宮」の官僚か「筑紫火君」の官僚かを考えると、「稲員」系図には「王・大連」と記述されていないので、自称大王とは言いにくく、しかも玉垂君でもないため銘文の大王とは整合性を持っていない。それに対して、「火中君」の場合には磐井の墓と言われる岩戸山古墳が近くにあって、葛子が磐井の墓を新しい領地に築造したことは大いに考えられ、この地域が火中、すなわち肥前と肥後の中間でピタリと符合する。従って、『江田船山』の被葬者の主人が肥後北部に居た「火中君」自称火中大王の可能性が非常に高い。

2017年11月22日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅱ

大王問題

 ここで問題なのが「大王」という地位だが、鉄剣に共に「大王」と記述されていて、「大王」が関東と肥後に存在する。物部氏や中臣氏の系図を見ると、中臣烏賊津使主が大臣、中臣勝海(かつみ)連が大連を名乗ったりするように、本来は朝廷の下では臣・連のはずが系図では大臣・大連と書かれている。このように、支配地では自分が一番偉いと自称していたようだ。従って、毛野君も筑紫君も支配地域では「大君」すなわち「大王」と自称していたと十分考えられ、とくに、国造り磐井が天皇に反抗しているところを見ると、更に上位な各地の君は独立した王権で同盟を結んでいる程度で、文化的にその影響下にあると考えた方が良いようだ。そして、大王が各地に存在するということはそれより上位の人物は既に天皇と呼ばれていたと考えるのは当然で、百濟本記には天皇が記述されたとしている。そして、同様に中央の大臣・大連も同様で、各地で大臣・大連が多数いたのなら、その上位の大臣・大連は天皇と呼ばれていたと考えるべきだ。

治天下問題

 「治天下」という文字は日本書紀内では「雄略天皇二三年八月」以降に出現して、この記事は「卷第十四」で、この巻から純粋な漢文で書かれ始めている。「白雉元年二月」までの「治天下」で純粋な漢文が終わり、持統紀の「治天下」は純粋な漢文から外れる。すなわち、雄略天皇から天智天皇の時代の文なら「治天下」は純粋な漢文の可能性が高く、「治天下」の後に王名や文を続ける場合は敏達天皇紀のように「○○大王所以治天下世」が正しい文言で、文書を扱う家系ならこのように書くべきだろう。従って『江田船山鉄剣』の読み方は天の下を治めになった大王世から奉った役職が事典曹でその人物の名は「ムリテ」とゆうことではないか。大王の世(よ)では誰から地位を得たかと言うことを書かず、片手落ちで、事典曹という地位を与えたのが大王とすればよく理解ができる。
『日本書紀』 
継体天皇元年正月丙寅 「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」
雄略天皇二三年八月丙子 「堪成朕志。以此共治天下。朕雖瞑目。」
顕宗天皇即位前紀 「於市邊宮治天下、天萬國萬押磐尊御裔、僕是也。」
敏達天皇十二年是歳 「日羅對言。天皇所以治天下政。要須護養黎民。」
大化元年七月戊寅 「當遵上古聖王之跡而治天下。復當有信可治天下。」
大化二年二月戊申 「朕前下詔曰。古之治天下。朝有進善之旌。」
白雉元年二月甲申 「陛下以清平之徳治天下之故・・・詔曰。聖王出世治天下時。天則應之。」
持統三年五月甲戌 「在昔難波宮治天下天皇崩時」
   『 船王後墓誌』
「乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝」
 『法隆寺金堂薬師仏光背銘』
「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 御身病太平欲故將造寺薬師像作仕奉詔然 當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及」
 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』 
「櫻井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百歳次癸酉」

古田史学で天皇の名前を遺物に書かないとの指摘があったが、この大刀の大王は天皇ではなく実際は筑紫君などの「王」の尊称で位取りとしては日本国としては天皇の多くの皇子たちと同列の地位あたる臣下なので、問題はない。