2017年12月4日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』Ⅲ

5.光背銘

 従来説を否定してきたが、だからと言って白鳳佛の薬師如来像が飛鳥佛の時代の607年に奉納したことにはならないのは当然である。白鳳佛で書風が隋唐風の時代に銘文を記述した時の丁卯年は667年と考えなければならない。667年は天智天皇が摂政に就任しており、摂政ということは他に天皇が存在したことを意味し、666年に大病した中宮天皇のために「弥勒菩薩半跏思惟像」が奉納されていて台座框に詳細が書かれている。すなわち、小治田大宮治天下大王天皇は中宮天皇で東宮聖王は天智天皇ということになる。そして、大化元年・皇極天皇4年に皇極天皇の世を小墾田宮御宇之世と記述して馬子が仏像を奉納したと記述されている。これはまさしく皇極天皇4年は667年で646年に大病した池邊大宮治天下天皇こと馬子のために造佛したが馬子が死んだので奉納できなかった像を667年に奉納したと読むことができる。馬子は日本書紀上では推古天皇の時に死亡していて、645年に記述する意味もないが、皇極4年を667年として、馬子のためとすれば意味がとおる。『船氏王後墓誌』によって642年以降は阿須迦宮から遷都していて、池邊大宮天皇は用明天皇だが日本書紀は用明天皇を推古天皇とよび、 上宮聖徳法王帝説では嶋大臣35年薨と記述して馬子天皇の35年が646年と考えることも可能だ。それを裏付けるように、蘇我氏の「甘梼岡」の宮を「宮門」と呼んで、646年に命長年号が終了している。さらに647年を元年とする馬子の子の蝦夷天皇は愚説の乙巳の変664年まで18年在位していて、藤氏家伝で天智の摂政を14年と1年違うが日本書紀では斉明天皇は7年までで13年がないはずなのに書き残しているのは蘇我氏の岡本宮天皇蝦夷と混同したのだろう。そして、像を作った人物は池邊大宮治天下天皇が天皇だった時大王天皇と太子が造ったと記述しているように、小治田大宮治天下大王天皇の親がまだ大王と呼ばれたが刻字の時天皇を付加したと考えられ、天皇の名を冠する人物は同時に2人いない。
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
「池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子而誓願・・・崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也・・・」
『日本書紀』
大化元年八月癸卯 「於小墾田宮御宇之世 馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像」
『船氏王後墓誌』
「・・・首之子也生於乎婆陁宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 ・・・於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦・・・」
 『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣 曾我也 臥病 爲大臣之男女 并一千人???? 
 又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
『日本書紀』
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷 兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」
『藤氏家伝』
「十三年 春正月 御船西征 始就海路・・・天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原  十四年 皇太子攝政・・・」

6.結語

 646年に亡くなった池邊大宮天皇が存在しないため金石文を間違いにして自分の思う通りの内容に書き換えてしまっているのが古代史学の風潮である。国宝の2つの仏像は自説に合わないため、日本書紀までもが釈迦三尊像銘文に合わせているのに、日本書紀に合わないため間違いと断定している。日本書紀より古い仏像が日本書紀に合わないのなら、ここでこそ日本書紀を疑うべきではないのだろうか。日本書紀は紀伝体の資料を現在の天皇家の宮という時間軸に蘇我氏や物部氏をはじめ多くの王朝の歴史を張り付けて編年体風に作り上げた史書だと気づくべきだ。古事記は豊国王朝の歴史を紀伝体の日本史に付け加えたが、日本書紀は複数の王朝の合算した歴史、皇極天皇の記事が22年異なるように、それぞれの天皇が微妙に異なってはいるが、恣意的に変更しているわけではない。日本書紀の推古天皇はタリシヒコの法興帝歴36年、法興暦31年が推古29年、古事記では中臣歴または物部守屋歴37年、馬子歴なら35年でこの3・4名が推古天皇として挿入されているのだ。

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