3.天皇号
古事記では大王は一度も記述されずに天皇はいつでも天皇と記述されているが、日本書紀では明確に聖王・大王・天皇を書き分けている。日本書紀全体では天皇だが、会話や引用では神功皇后より前は聖王すなわちただの王で開花天皇のときから、古事記では王が複数出現した為、王の中の王が存在したはずだ。神功皇后以降に天皇が出現して、百濟記には全て大王ではなく天皇と記述されていてる。そして、大王は允恭(葛城圓)・雄略(平群真鳥)・顕宗(巨勢男人)・継体(物部麁鹿火)・舒明(蘇我馬子)天皇が即位前に大王で即位後天皇と呼ばれて明確に差別化している。それは当然で、大王が大王に即位などという日本語は聞いたことが無く天皇に即位する。即位していない聖徳太子は太子でも大王で、朝鮮の王も任那の王も俀国の王も大王と呼ばれ、多くの大王の上に天皇が存在していることが解る。
『日本書紀』
垂仁天皇三年三月 「天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇 則以己國授弟知古而化歸之」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑
「新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰吾聞東有神國謂日本 亦有聖王謂天皇」
神功皇后摂政五十一年三月 「百濟王父子並致地 啓曰 貴國鴻恩重於天地何日何時敢有忘哉 聖王在上」
神功皇后摂政六二年二月 「百濟記云 壬午年 新羅不奉貴國・・・天皇遣沙至比跪 以討新羅・・・反滅我國兄弟人民皆爲流沈 不任憂思 故以來啓」
応神天皇二五年 「百濟記云 木滿致者是木羅斤資討新羅時 娶其國婦而所生也 以其父功專於任那 來入我國往還貴國 承制天朝執我國政 權重當世 然天皇聞其暴召之」
允恭天皇四二年正月戊子 「新羅王聞天皇既崩而驚愁之」
継体天皇二五年冬十二月庚子
「大歳辛亥三月師進至于安羅營乞 是月高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子倶崩薨」
欽明天皇二年四月 「百濟聖明王謂任那旱岐等言 日本天皇所詔者」
仁徳天皇即位前紀 「何敢繼嗣位登天業乎 大王者風姿岐嶷 仁孝達聆 以齒且長 足爲天下之君」
仁徳天皇元年春正月丁丑朔己卯 「大鷦鷯尊即天皇位」
允恭天皇即位前紀 「今大王留時逆衆 不正號位 臣等恐 百姓望絶也 願大王雖勞 猶即天皇位」
允恭天皇元年十二月 「大王辭而不即位。位空之。・・・不知所爲願大王從群望。強即帝位。」
雄略天皇即位前紀 「伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區 請以贖罪 天皇不許」
顕宗天皇即位前紀
「白髮天皇 以吾兄之故 奉天下之事 而先屬我々其羞之 惟大王 首建利遁 聞之者歎息・・・天皇不可以久曠 天命不可以謙拒 大王以社稷爲計 百姓爲心 發言慷慨 至于流涕 天皇於是 知終不處」
継体天皇元年二月甲午 「大伴大連等皆曰 臣伏計之 大王・・・是日即天皇位」
用明天皇元年正月壬子朔 「更名豐耳聰聖徳 或名豐聰耳 法大王或云法主王」
舒明天皇即位前紀 「是乃近侍諸女王及釆女等悉知之 且大王所察」
舒明天皇元年正月丙午 「群臣伏固請曰 大王先朝鍾愛 幽顯屬心 宜纂皇綜光臨億兆 即日 即天皇位」
4.書風
615年頃書かれたとされる『法華義疏』が百済で流行していた六朝書風で、少なくとも615年頃までは隋唐風の書風では無かったようだ。しかし、薬師信仰で書いたように630年の遣唐使や隋・唐から高表仁等が来日して新しい書風を見ていることから、唐と外交するためには外交儀礼として新しい書風を取り入れるのは当然の成り行きだ。したがって、太宗22年の訪唐時には六朝風の書風ではなく新しい書風で国書を持参しなければ唐は長きにわたって付き合ってきた倭国の外交使節がいまだに南朝を慕っていると感じて唐書に書いたとは思えない。 そして、『法隆寺金堂薬師如来像』の刻字をおこなう天皇に近い人物が天武朝まで隋唐風の書風を使えなかったとは考えられない。また、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』でも述べたように、高蔵寺窯跡には隋以降の硯が出土しているが、硯は導入したが書風は導入しないなどということは無いと思われる。
『日本書紀』
舒明天皇四年八月 「大唐遣高表仁送三田耜 共泊干對馬 是時學問僧靈雲 僧旻」
『旧唐書
巻199上
東夷伝』
「至二十二年 又附新羅奉表以通起居」
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