6.「日十」大王
舒明天皇が娘婿で馬子が舒明天皇の親の世代ということは、舒明天皇が聖徳太子の皇子と馬子の娘婿同士で皇位を争っていて、馬子は稲目の娘婿の聖徳太子と同じ世代の人物だということが解る。聖徳太子の従弟に「押坂彦人大兄皇子」という人物が存在し、この人物が590年頃に死亡していたなら、舒明天皇はかなり高齢となり、馬子の娘婿というより稲目の娘婿でないと合わないし、天智天皇の舒明天皇死亡時16歳も合わなくなる。すなわち、「押坂彦人大兄皇子」は新唐書で記述されたタリシヒコが用明天皇と記述されており、推古天皇=用明天皇で用明天皇末年は628年にあたり、「押坂彦人大兄皇子」は太子と呼ばれている。「押坂彦人大兄皇子」の固有の名前は「人」で長男の押坂で生まれた猛々しい皇子「人」と読める。しかも、男弟王が意柴沙加宮に居る時と「押坂彦人大兄皇子」の「押坂」と同音で、無関係とは思えない。『船氏王後墓誌』では「乎婆陁宮治天下天皇」と「おし」陁宮と言う場所に天皇がいたようでこれも無関係と思えない。彦人皇子と竹田皇子は同時に記述があって彦人皇子は水派宮に出ている。さらに、「押坂彦人大兄皇子」は宣化天皇の孫、欽明天皇の子の敏達天皇と応神天皇につながる息長眞手王の娘を母に持って馬子に無縁の人物である。そんな「押坂彦人大兄皇子」の牽制として男弟王と関係を持つことは有りうる。そこに、丁度稲目の曽孫にあたる竹田皇子は絶好な相手と考えられ、推古天皇が竹田皇子の墓へ合葬を指示した理由が映し出され、この竹田皇子の死亡を記述していないということは、何か不都合な事件と考えるべきだろう。蘇我氏が守屋に対抗して大きな勢力を持つ倭国と連携しつつ、警戒心を抱き、それに対して倭国の全国制覇の野心が竹田皇子の死亡の意味するところと感じる。その後立太子していないため推古天皇死後も「押坂彦人大兄皇子」が大王で、628年に竹田皇子は死亡したと考えられる。
『船氏王後墓誌』
惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下天皇之世
『日本書紀』
用明天皇二年(587)四月丙午《二》
遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之。俄而知事難濟。歸附彦人皇子於水派宮。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(587)七月
蘇我馬子宿禰大臣勸諸皇子與群臣。謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子。竹田皇子。
推古天皇三六年(628)九月壬辰《廿四》 葬竹田皇子之陵。
舒明天皇十三年(641)十月丙午《十八》 是時東宮開別皇子年十六而誄之。
7.諸問題
「年」を一字名称とする考えもあるが、一字名称とするとどちらにこの鏡を送ったのかわからなくなってしまい、私は男弟王に斯麻が送ったと考え、「年」は「日十」が「大王」になった年と考えた。鏡を作らせて大王に送るとしたら、斯麻が権力を見せびらかしていることになってしまう。また、原本が1世紀以上前の鏡を「踏み返し」で作鏡するかという一番大きな問題があるが、図案が、原本と模様が左右逆転しており少なくとも2世代すなわち、原本を左右変えた世代とそれを写した世代をへて作鏡された鏡で、名作中の名作だった鏡ということになり、長く作られ続けたと考えてもよさそうだ。「墨江中王」の時代に使っていた名鏡を「墨江中王」の子孫が政権を奪取して「踏み返し」という技術を使って復活させ、三角縁神獣鏡のように流行させたと考えてもよいのではないか。
6.終わりに
『隅田八幡神社人物画像鏡』の考察は心証・傍証ばかりで絶対的な証拠はないが、古事記も日本書紀も鏡の技法も鏡の意味も「直」という地位も登場人物も全て矛盾なく説明できた。発掘された鏡でないため時代を決定づける証拠を見出すことはできないが、「斯麻」を武寧王にして526年に大和に入る「磐余玉穂宮」を飛ばして503年に大和に遷都させてみたり、大草香皇子を大王としてしまって、「斯麻」を不明にしたりして想像をたくましくするよりましな説になったと思う。
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