2017年12月13日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 古田説批判 (2倍年歴・魏志倭人伝批判)1

.天皇の系譜(2倍年歴問題)
  私は天皇名が宮の名前で、宮には複数の天皇が隠れ、複数の宮に1天皇が隠れていると論じた。当然その伝統は神武天皇時代から当てはまり、立太子があたかも長生きできることを前提にしたように即位後数十年も行わないというのは、王朝を継続する上で異常であり、太子の存在しない数十年は長男が太子として存在し、わざわざ宣言する必要のない当然のことであったからだ。そして、長男でない人物が太子となったときが立太子で、立太子と同時に宮がかわる、すなわち天皇が変わった。中には末弟が天皇になる習慣と主張する論もあるようだがそれを証明する事例は少なく異常時で逆は多く見かける。そして、日本書紀の神功皇后紀から朝鮮記事が2代120年近くずれているが、これは他王朝の天皇の資料が反映されているようで記述者が異なり、応神天皇以降の王位継承記事はそれまでと変わった。立太子があっても太子が天智天皇で前政権の東宮がいた宮に入ったように宮天皇という政権が変わらなくなったようなので、それをもとに年表を作成したところ、見事に辻褄が合う年表(図示)になった。そして、個々の天皇を検討しても辻褄が合いだした。
『日本書紀』
綏靖天皇
二年春正月。立五十鈴依媛爲皇后。一書云。磯城縣主女川派媛。一書云。春日縣主大日諸女糸織媛也。即天皇之姨也。后生磯城津彦玉手看天皇。・・・卅三年夏五月。天皇不豫。癸酉崩。時年八十四
『古事記』
綏靖天皇 娶師木県主之祖、河俣毘売、生御子、師木津日子玉手見命。・・・天皇御年、肆拾伍歳。

綏靖天皇の系譜を確認すると日本書紀の一書云で皇后が違うということは綏靖天皇が親子3代であったと考えられる。すなわち、五十鈴依媛を皇后とした綏靖天皇と川派媛を皇后にした2代目綏靖天皇と、糸織媛を皇后にした3代目綏靖天皇が存在したことを示唆し、日本書紀が古事記の2倍の年齢になっているということは2代以上の天皇が隠れていて、天皇複数人を他王朝の天皇1人に当てはめた。もし、2倍年歴なら、他の天皇も同様に古事記の2倍でないと辻褄が合わない。慣例としての年齢になら2倍年歴が有りうるが、中国などに使節を送っており、公文書に書く日付は中国に合わせるはずである。また、太子になった年齢もほとんどが15歳から26歳で2倍年歴なら立太子が8歳から13歳となり大人は対象外の様になってしまう。また天皇の年齢が80歳、在位が50年は古代の天皇としては異様で、どこをどう読んでも日本書紀の2倍年歴を証明することがでず、皇后に一書云がない隠れた天皇は兄弟がその候補になりそうだ。
『日本書紀』
神武天皇 年十五立爲太子 安寧天皇 立爲皇太子。年廿一。 懿徳天皇 立爲皇太子。年十六
懿徳天皇 立觀松彦香殖稻尊爲皇太子。年十八。孝昭天皇 立日本足彦國押人尊皇太子。年廿
孝安天皇 立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子。年廿六。 孝元天皇 立爲皇太子。年十九
孝元天皇 立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子。年十六。 開化天皇 立爲皇太子。年十六
開化天皇 立御間城入彦尊爲皇太子。年十九。 景行天皇  立爲皇太子。時年廿一
成務天皇 立爲太子。年廿四。 応神天皇 立爲皇太子。時年三
履中天皇 立爲皇太子。時年十五

 安寧天皇は綏靖天皇25年に安寧天皇21歳で立太子して8年後に綏靖天皇33年に安寧天皇が即位してその38年後に67歳で安寧天皇崩のはずだ。しかし、57歳の崩になっていて、ここでも、立太子イコール即位、すなわち綏靖天皇25年に安寧天皇元年が証明されている。59歳の死亡でなく57歳ということは即位が立太子の前年すなわち前年に太子になっているが正式な儀式の時が「数え」で表した立太子なのだろう。また、天皇位の兄弟相続で履中天皇の在位が6年、反正天皇の在位が5年、允恭天皇の在位が42年と末の弟の在位が一番長い。それは、允恭天皇の親子相続が続いたことを示し、立太子も天皇在位22年目で、おそらく、允恭天皇の2代目または3代目の長男が即位時に跡継ぎがいないか、分家の叔父が政権を奪取して皇太子になったのだろう。若い天皇と既に天皇と同等の経験がある叔父では叔父が勝つのが当然である。すなわち、日本では通常の天皇と皇太子という天皇の2人が統治し、兄弟統治になったときが立太子で皇太子が次の天皇になったのだ。推古天皇は即位後すぐに立太子したにもかかわらず政務天皇には子供がいないのに、立太子が48年後というのは景行天皇がもう一人の天皇であったためで、政務天皇5年に制定した稻置が先代の景行天皇27年に記述されている。
『日本書紀』
綏靖天皇
廿五年春正月壬午朔戊子。立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子。
・・・卅三年夏五月。天皇不豫。癸酉崩。時年八十四。
安寧天皇
即位前紀 天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。
廿一。・・・卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七



発表後に安寧天皇記事誤謬説を提示されたが、誤謬を証明されることは無かった。

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