3.「直」
『隅田八幡神社人物画像鏡』の銘文中の「開中費直」を考察してみる。「直」という役職が安閑天皇元年より頻出していて、安閑天皇の時に復活した役職のようで、古事記では「墨江中王」の事件で「阿知直」が記述されて以降記述がない。すなわち、「直」は古事記を書いた王朝には無かった役職で、新しい王朝は「墨江中王」で滅亡した王朝を復活して「直」という役職を使い、欽明朝からは外交に携わり、推古朝には外交の中心にいて、穢人今州利を連れて通訳する立場は十分果たせそうな人物の1人だったことが想像できる。もし、「開中費直」が「河内直」であったのなら、外交責任者に斯麻は命じたことになり、大王と同等の地位であったことになる。
『隅田八幡神社人物画像鏡』
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等」
『古事記』
伊耶本和気王 於是、倭漢直之祖、阿知直盗出而、乗御馬令幸於倭。爾、阿知直白、墨江中王、火著大殿。
『日本書紀』
安閑天皇元年(531)四月癸丑朔 「推問所由。國造稚子直等恐懼。逃匿後宮内寢。」
欽明天皇二年(540)七月 「別以安羅日本府河内直通計新羅。」
推古天皇十六年(608)六月丙辰 「以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。」
推古天皇十六年(608)九月辛巳 「是時。遣於唐國學生倭漢直福因。」
推古天皇十八年(610)十月乙巳 「饗使人等於朝。以河内漢直贄爲新羅共食者。」
舒明天皇四年(632)十月甲寅 「時高表仁對曰。・・・大河内直矢伏爲導者到干舘前。乃遣伊岐史乙等。」
4.「斯麻」
鏡を6世紀以降とする場合、諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王が送ったとする説があるが、1国の王が他国の王に送るのではなく男弟王に送り、しかも、大王を無視して開中費直の派遣を命じて日本国内で作鏡することがあるとは思えない。本来なら、百済国内で開中費直と穢人今州利に作鏡させて百済の図案で大王に送るのが通常なことと思われる。すなわち、「斯麻」は日本人で大王抜きに開中費直と今州利を派遣して大王の弟に大王と同等の地位の人物が作鏡させたと考えなければならない。そのような人物で「斯麻」と言えば蘇我馬子以外私の頭には浮かんでこない。馬子は日本書紀では崇峻天皇以降はあまり出現しないが、『上宮聖徳法王帝説』で干支が違うが推古35年627年(6月のかのとうしの日にあてた)に死亡していて、日本書紀でも推古34年に死亡し、馬子は崇峻天皇や舒明天皇の義父、天智天皇の祖父にあたり、崇峻天皇の2代のズレを考えれば年代的にも合致する。すなわち、馬子は少なくとも626年まで健在で大臣として活躍していた。
『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣 曾我也 臥病 爲大臣之男女 并一千人????
又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
推古天皇三四年五月丁未 「大臣薨。・・・故時人曰嶋大臣」
5.癸未の時代背景
「斯麻」が馬子で馬子の死亡が627年とすると、癸未は563年では馬子は幼児になってしまい、623年ということになる。623年は上宮法皇が622年に薨去した次の年で、上宮法皇の代わりの人物がその地位に就かなければならず、地位に就いたのが日十大王ということで、日十大王が大王になった年が623年だったと言うことになる。この頃朝廷は任那をめぐって争奪戦をしており、しかも、百済を信頼していないと記述して国際関係上は孤立していて、穢人に鏡を作らせるどころではなく、同じ年に新羅と友好関係にある記事の王朝が馬子のいる王朝のようで、623年には2つの王朝(旧日本と俀・倭)が併存している。隋・唐は太宗22年647年まで倭と友好関係であったということは親新羅で唐に友好を求めている王朝が大王の王朝だ。さらに、623年7月唐からの来訪者があり、この中に「今州利」が含まれていた可能性も否定できない。
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。・・・二月廿一日癸酉、王后 即世 翌日法皇登遐」
『日本書紀』
推古天皇三一年(623)七月
「新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。・・・且其大唐國者法式備定之珍國也。」
推古天皇三一年(623)是歳
「新羅伐任那。任那附新羅。於是天皇將討新羅。・・・百濟是多反覆之國。道路之間尚詐之。凡彼所請皆非之。」
『旧唐書』
巻199上
東夷伝
「至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。」
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