2017年12月6日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『隅田八幡神社人物画像鏡』の考察Ⅰ

前説
 今回の論文は古田史学で発表を拒絶された論文で、前回の『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』がきっかけか、この論文の演題がきっかけか私には解らないが、どちらかが古田史学の逆鱗に触れたようだ。古田史学は7世紀を主戦場に活動を深めており、『日本書紀』の30年の前倒し誤差や難波京の九州王朝副都説に力を集中しているときに、真っ向から批判する発表は痛かったのだろうか。「集中砲火の如く批判してあげるから発表しなしなさい」と自信満々に誘ってくれた古賀会長の言葉に反して「訳が分からない」とのつぶやきの中で「論が多すぎて批判の仕様がない」と批判できない理由にするのがせいぜいだった。当然で、私は言わば金石文をつないでいるだけなので、無い事を基に造られた古田史学では批判しようがない。私の論を批判するには別の金石文・考古的遺物を持ってきて間違いを証明すればよいのであるが、古田史学では藪蛇になってしまう。前回と今回のどちらが古田史学の逆鱗に触れそうか考えてみてください。

1・古事記
 私は古事記が伊都の高千穂の宮にあった史書に仁賢天皇が自分の王朝の歴史を加えて完成させたものにその後の系図を付け加えたものと論証した。安万呂が作った虚構なら、欠史8代や仁賢天皇以降が空白と言うことは有り得ず、虚構なら推古天皇の章だけでもう一巻できたと思われる。さらに、古事記には応神天皇が初めて文字を習ったと告白しており、少なくとも応神天皇記までは高千穂の宮の資料を使っていて、おそらく、403年に諸国に国史をおいて古事記の資料を集めた。403年頃に集まった資料でその580年前は紀元前177年頃になり、私は神武天皇即位を紀元前181年としたが、この符合の仕方は偶然とは思えず、紀元前178年神武天皇4年に皇祖天神を祀った宮を作ったのだろうか。
『古事記』
神代 「日子穂ゝ手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳」
品陀和気命 「即論語十巻 千字文一巻 并十一巻 付是人即貢進」
『日本書紀』
神武天皇四年二月甲申 「用祭皇祖天神焉」
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」

2.鏡
 古事記の文中には神代と朝鮮から貰った時以外に鏡のことに触れられておらず、古事記を書いた王朝は鏡に興味を示していない。ただ、朝鮮から鏡が送られた説話を載せるだけで、日本書紀の仲哀天皇の国の線引きに使うように重視してはいなかった。すなわち、古墳の中に鏡を重視して積極的に埋納することを流行させていたのは古事記を記述した王朝以前・以外の王朝と考えられる。すなわち、5世紀の日本では古墳に鏡を埋納する習慣が有ったか疑問で、雄略天皇の記事は物部氏を祀る石上神宮や大伴氏の記述で5世紀の天皇の事績か不明で、鏡の埋納は4世紀以前か6世紀以降と考えるべきと思う。さらに、『隅田八幡神社人物画像鏡』は「踏み返し」という5世紀後半に中国で始まった技法を使って作られたと言われているので、6世紀以降の作成の論を補強する。
『古事記』
「百済国主照古王、以牡馬壱疋・牝馬壱疋、付阿知吉師以貢上。・・・亦、貢上横刀及大鏡。・・・其天之日矛持渡来物者、玉津宝云而、珠二貫。・・・又、奥津鏡・辺津鏡、并八種也。此者伊豆志之八前大神也。」
『日本書紀』
仲哀天皇八年正月壬午 
「豫拔取五百枝賢木。以立九尋船之舳。而上枝掛白銅鏡。中枝掛十握釼。下枝掛八尺瓊。・・・且如白銅鏡以分明看行山川海原。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年四月甲申 「皇后召武内宿禰。捧釼鏡令祷祈神祗。」
雄略天皇三年四月 「掘虹起處而獲神鏡。移行未遠。・・・還悔殺子報殺國見。逃匿石上神宮。」
雄略天皇九年五月 「使倭子連 連未詳何姓人。 奉八咫鏡於大伴大連」
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連、乃跪上天子鏡劔璽符再拜。」


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