2017年12月18日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 古田説批判 (2倍年歴・魏志倭人伝批判)3

3.倭の五王とタリシヒコ

 古田氏は倭の5王に当てはまらないと日本書紀の間違いの一つにしたが、間違いと言えないことを提示する。
5世紀に倭王は中国南朝に将軍の地位の要請をしているが希望どおりに叙されていないということは、実際の支配領域は異なっていたようだ。倭の五王時代は武が世祖大明六年から天監元年の最低40年間在位しており、それに当てはまる天皇は仁徳天皇か允恭天皇しかありえないが年代的には允恭天皇から仁賢天皇あたりに当てはまり、中国史書と古事記・日本書紀が全く符合しない。それは、中国史書は中国との柵封関係の倭国を記述して、敵対する日本国を無視しているための現象で、そのための魏志の倭国の東の70国近い国を支配する倭種の国名を記述していない。しかし、この当時はすでに剣・鏡・前方後円墳の領域で、隋時代は秦王国とよびアメタリシヒコは大王で日本国天皇ではなく、既に秦王国日本に天皇がいたが、隋においてもおそらく新羅や百済との柵封関係を持つ日本国を認めなかった。日本書紀は倭国が九州の地方政権であり日本の中央政権でないので記述せず、632年の対唐記事から記述し倭国が日本の政権を得た。ちなみに、私は安康天皇が413年から430年の在位で賛、初代雄略天皇が431年から442年の在位の珍、2代目雄略天皇が443年から450年までの在位で濟、清寧天皇が451年から476年在位の興、武は477年から503年までの顯宗天皇で宮を4宮遷っていたのであてた。もちろん、この天皇は5王が天皇だということでは無く、物差しとしての天皇のことだ。
宋史
421年 高祖永初二年、詔曰 倭萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。
425年 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表獻方物。死、弟立、・・・
443年 二十年、倭國王遣使奉獻、復以爲安東將軍、倭國王。
451年 二十八年、・・・ 濟死、世子遣使貢獻。
462年 世祖大明六年、詔曰 倭王世子・・・宜授爵號、可安東將軍、倭國王。死、弟立。・・・
478年 順帝昇明二年 ・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、・・・
南齊書
479年 建元元年、・・・倭王號爲鎮東大將軍。
梁書
502年 天監元年夏四月戊辰、・・・鎭東大將軍倭國王、進號征東將軍。・・・
日本書紀
顕宗天皇元年春正月己巳朔  
召公卿百僚於近飛鳥八釣宮・・・或本云。弘計天皇之宮有二所焉。一宮於少郊。二宮於池野。又或本云。宮於甕栗
舒明天皇四年 冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干難波津。
『隋書』
開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕・・・又東至秦王國 其人同於華夏・・・
<旧唐書>
貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還

濟と興は親子だが清寧天皇の興は皇太子岩城皇子から政権を奪取したため宮が異なり、2代目雄略天皇の443年即位は即位と同時に中国訪問は外交としては一番普通な方法に感じられる。すなわち私は、天皇の宮のお家騒動、木梨輕皇子の子に暗殺されるというお家騒動、履中天皇の太子仲皇子殺害というお家騒動で本来宮が変わるべきところで宮を変えなかったことを利用して持統天皇を挿入した結果の2代のずれを補正したと考えた。また、玉垂命の系図が天皇家の系図と古田氏らが述べているが、倭の5王の一時名称がどこにも記述されておらず、何回か宮を変え叔父若しくは兄弟に政権が移っているので確実に仁徳天皇(2代のずれで履中天皇)の代で天皇の系図から外れていると思われる。この頃の倭は大王で天皇ではなく、新羅の東に尊敬する日本があって天皇がいると神功紀に記述があるので、「連」が付く玉垂命の天皇は大国の別名神國こと日本国の天皇の末裔で久留米近辺は倭国の領域ではなく、倭国はその北部であり、新羅の南には敵対する倭国の大王が存在し、日本で唯一中国に認められたと自負したのである。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 吾聞。神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇
清寧天皇即位前紀 
吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰、欲登天下之位、先取大藏之官。長子磐城皇子、・・・奉璽於皇太子。

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