2017年12月15日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 古田説批判 (2倍年歴・魏志倭人伝批判)2

.邪馬壱国
 古田氏は吉武高木遺跡や須玖岡本遺跡に邪馬壱國を持っていくために伊都國を糸島平野の西に奴國を4千戸の末廬國より若干広い糸島平野に持って行き、なぜか同じ百里の不彌國をさらに東にしてしまった。しかし、伊都国東南百里の2万戸の奴國を考えると、伊都国東百里の千家の不彌國の南はどう考えても奴國である。方3百里の壱岐を考えれば4千戸の末廬國の東南5百里は糸島平野であり、不彌國領域を末廬國や伊都國と同様の大きさの比率の領域と考え、伊都國の東南で伊都國の20倍の戸数の百里の地の奴國を考えると指定地は成務天皇が山河で領地を分割している。したがって、三笠川と那珂川の中間の須玖岡本遺跡の春日市は微妙だが不彌國の南及び不彌國の東南は二万余戸の奴國になってしまう。三国志の文面から推定すると奴國の3.5倍の戸数の七萬余戸の領域の邪馬壱國は不彌國の南でなくある程度離れた東にならざるを得ない。倭人伝を信じれば、不彌國は伊都國の9倍の東西幅の領域がないと南が邪馬壱國にならず、そのような長細い国は必然的に博多湾岸の糸島半島・能古島・志賀島・海の中道を領域とする国と考えざるを得ない。したがって、邪馬壱國は神功皇后前紀で新たに支配する領地の御笠の北部の糟屋郡近辺が一番妥当である。最初に甕棺が消えて石棺墓と変化していくところで、吉武高木遺跡や須玖岡本遺跡にはまだ甕棺が出土していて、前の支配者の伝統を残して副官が日本書紀と同じ官位の夷守に対応している。そして、不彌國はまさに古田氏が述べる邪馬壱國の表玄関で、その表玄関で「漢委奴國王」印が出土したのであり、高祖神社は奴國でなく一大率が冗長卯する伊都國になければ国譲り神話が意味をなさなくなる。
そして、卑弥呼こと政務天皇の宮と男弟王2代目の景行天皇(最後の3年間卑弥呼を継いだ男王)の宮は淡海(多々良川河口は汽水域だったそうだ)の志賀高穴穂宮、卑弥呼の宗女壱与こと神功皇后は宮を香椎宮と記述していて神功皇后紀に魏との交流記事がある。この3天皇の宮は並行して存在していると考えられて、まさに、この2つの宮に魏使は訪れたと考えられ、この地が邪馬壱國で近くの久山町には猪野皇大神宮、小山田邑の斎宮がある。さらに、宇美町神武原という場所に太祖神社という神社があり、江戸時代に福岡藩士青柳種信が書いた『筑前国続風土記拾遺』によれば、太祖神社下宮の鳥居の額には、「神武聖皇帝」と書かれていたと言う。その太祖神社下宮が篠栗町にあり、粕屋郡で神武天皇の建国があったことを思わせ、しかも志賀島には金印が出土している。

『日本書紀』
景行天皇二七年 故弟彦公便率石占横立。及尾張田子之稻置。乳近之稻置而來。
景行天皇六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。
成務天皇五年秋九月。令諸國。以國郡立造長。縣邑置稻置。並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣。
『古事記』
若帯日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穂宮、治天下也。
『三国志』
 又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之 
 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 
   郡使往來常所駐 
 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 
 行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月・・・可七萬餘戸

※発表後、奴国は伊都国を取り囲んでいるから糸島に有ってよいと無茶な言い訳をされた。苦笑するしか無く、反論する気にもならなかった。奴国と伊都国の中心の距離と考えているとしか思えない論理で100里を7Km強と主張している会が2万戸の奴国への中心へ4Km弱でというのであるが、成務天王の郡県の区分とも反し、現代の政教分離の大司教がすむローマにでもなぞらえるのだろうか。どちらにしても、不彌國の領域は有りそうもなく、古田史学は苦しいパズルの解明が必要だ。学会に無視されていると嘆いた古田氏はこの批判を目にした今、何を思っているのだろうか?



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