2017年12月22日金曜日

最終兵器の古代史 日本神話の再検討2


 ところで、不思議なことがあり、大八島に種子島や屋久島・奄美大島・沖縄が含まれないこと、筑紫も日別と言っているように本来九州は日国で筑紫はその名の通り福岡北岸のことのように思える。また、九州南部が含まれないということは九州南部から隠岐の島島後に来て建国した、すなわち、建国した場所以外には既に国があったと考えられる。イザナミは国産みしていない根国の出身で、すなわち、大八島は大きな8個の島国ではなく、「大」の「ヤ」国の支配する島々のことで「別」が付く国は既にある縄文人の国の一部に拠点を置いた説話と考えられる。さらに、国を作らなければならなかったのは何故かというと、アカホヤ噴火のためなのではないかと考えてみた。国を建国するのにわざわざ狭い島を選ばざるを得なかったのは九州南部が住めなくなり、他の地域には既に国があり、国の無い地域を選んで住み着いたのが隠岐の3島と対馬で、その他朝鮮などにも逃げた人々がいただろうが、のちに、隠岐の島のグループは国産み神話の島々に領域を広げたのではないか。このように考える理由は、鹿児島県加世田市の栫(かこい)ノ原遺跡から12千年前丸ノミ形石斧が発掘され、この石斧は船を造る道具で最古の船の遺跡は千葉県市川市の7500年前の雷下遺跡の船だ。しかし、7300年前のアカホヤ噴火の後の轟B式土器が7000年前に熊本・長崎県の九州本土の西海岸地帯だけでなく、五島列島・壱岐・対馬で発見されている。これを考えると同時期に船を操っていたことがわかり、この土器が朝鮮南部でも発掘されていて、この土器が曽畑土器へと型式が継承された。曽畑土器も朝鮮南部で発掘され似た形式の櫛目文土器が突然朝鮮に出土し、屋久島の一湊松山(いっそうまつやま)遺跡には曽畑式土器に挟まれた地層から出土していて隠岐の島の住人が運んだようだ。(※縄文の風 かごしま考古ガイダンス 第18回 朝鮮半島と西北九州と活発に交流より)そして、隠岐の島(宮尾遺跡)では轟B式より古い縄文早期9,000前の南九州で出土する条痕文土器が発見されていてそれが島根県でも発見されている。すなわち、隠岐の島は元々南九州の人々で9000年前から船による交易をおこない、アカホヤ噴火によって仲間が押し寄せ隠岐の島の島前(郡山遺跡)や壱岐・対馬(越高遺跡)に移り住みそれが轟B式土器を残した。さらに、河姆渡遺跡に漆を出土させ縄文時代前期約6000年前の彦崎貝塚(岡山県灘崎町)の稲のプラントオパールを出土させ、大八島の国々にも3000年以上前の縄文遺跡が発見されていてそれぞれの地域の歴史の古さを示している。(※隠岐島後教育委員会 宮尾遺跡調査報告書)
<大八島の縄文遺跡>
淡路島(大坪遺跡)・伊予(岩谷縄文遺跡)・福岡(柏原A-1遺跡・志賀海神社境内)・佐渡(長者ヶ平遺跡)・広島(円明寺遺跡)・吉備(妹尾住田遺跡)・小豆島(ほら貝岩洞穴遺跡)・姫島(用作遺跡)福江島(大知訶中島遺跡)

 そして、それを示すかのように、箕子朝鮮時代以前の時代から朝鮮南部(これは定説で私は黄海の島と推定)は九州地方と同じ倭で論衡にも倭人が周朝の成王を訪れていると記述されている。遅くとも紀元前1000年以前の縄文時代晩期には越(中国南部でベトナムではない)と倭は国を形成していて既に河姆渡遺跡の時代から関係が深かったため2国がそろって建国後速やかに周王朝と関係を持ち、中国史書はその後も西日本を倭とよび、東北を蝦夷(カイ)と呼んで倭人と区別した。
山海經 第十二 海内北經
 蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
論衡
異虚篇第一八  周時天下太平 倭人來獻鬯草
恢国篇第五八  成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
儒増篇第二六  周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
「越人」ではなく「越」という国、「倭」は国でなく倭人で「越」は周に既に認められた国で「倭」は「燕」に属するので国と認められていない。「燕」・「越」は中国の一部という立場と考えられるが、実態は解らない。

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