2017年11月22日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅱ

大王問題

 ここで問題なのが「大王」という地位だが、鉄剣に共に「大王」と記述されていて、「大王」が関東と肥後に存在する。物部氏や中臣氏の系図を見ると、中臣烏賊津使主が大臣、中臣勝海(かつみ)連が大連を名乗ったりするように、本来は朝廷の下では臣・連のはずが系図では大臣・大連と書かれている。このように、支配地では自分が一番偉いと自称していたようだ。従って、毛野君も筑紫君も支配地域では「大君」すなわち「大王」と自称していたと十分考えられ、とくに、国造り磐井が天皇に反抗しているところを見ると、更に上位な各地の君は独立した王権で同盟を結んでいる程度で、文化的にその影響下にあると考えた方が良いようだ。そして、大王が各地に存在するということはそれより上位の人物は既に天皇と呼ばれていたと考えるのは当然で、百濟本記には天皇が記述されたとしている。そして、同様に中央の大臣・大連も同様で、各地で大臣・大連が多数いたのなら、その上位の大臣・大連は天皇と呼ばれていたと考えるべきだ。

治天下問題

 「治天下」という文字は日本書紀内では「雄略天皇二三年八月」以降に出現して、この記事は「卷第十四」で、この巻から純粋な漢文で書かれ始めている。「白雉元年二月」までの「治天下」で純粋な漢文が終わり、持統紀の「治天下」は純粋な漢文から外れる。すなわち、雄略天皇から天智天皇の時代の文なら治天下」は純粋な漢文の可能性が高く、治天下」の後に王名や文を続ける場合は敏達天皇紀のように「○○大王所以治天下世」が正しい文言で、文書を扱う家系ならこのように書くべきだろう。従って『江田船山鉄剣』の読み方は天の下を治めになった大王世から奉った役職が事典曹でその人物の名は「ムリテ」とゆうことではないか。大王の世(よ)では誰から地位を得たかと言うことを書かず、片手落ちで、事典曹という地位を与えたのが大王とすればよく理解ができる。
『日本書紀』 
継体天皇元年正月丙寅 「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」
雄略天皇二三年八月丙子 「堪成朕志。以此共治天下。朕雖瞑目。」
顕宗天皇即位前紀 「於市邊宮治天下、天萬國萬押磐尊御裔、僕是也。」
敏達天皇十二年是歳 「日羅對言。天皇所以治天下政。要須護養黎民。」
大化元年七月戊寅 「當遵上古聖王之跡而治天下。復當有信可治天下。」
大化二年二月戊申 「朕前下詔曰。古之治天下。朝有進善之旌。」
白雉元年二月甲申 「陛下以清平之徳治天下之故・・・詔曰。聖王出世治天下時。天則應之。」
持統三年五月甲戌 「在昔難波宮治天下天皇崩時」
   『 船王後墓誌』
乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝」
 『法隆寺金堂薬師仏光背銘』
「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳 次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大 御身病太平欲故將造寺薬師像作仕奉詔然 當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及」
 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』 
「櫻井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百歳次癸酉」

古田史学で天皇の名前を遺物に書かないとの指摘があったが、この大刀の大王は天皇ではなく実際は筑紫君などの「王」の尊称で位取りとしては日本国としては天皇の多くの皇子たちと同列の地位あたる臣下なので、問題はない。

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